=HITORIGOTO=旅するココロ

 金沢→能登→東京…暮らしでのこと

踊りと好きとまんなかと

2006-06-21 | バリ舞踊
 数日前から、よしもとばななさんの日記にはまりだした。フラのレッスンのところを、かいつまんで読む。踊りのレッスンに通うきもちなどなどは、フラであれ、バリ舞踊であれ、なんだか分かるなぁーと思いながら。
 よくよく読んでいて、あれ?っと思ったのですが、ばななさんがフラを始めたのが、2001年~2002年にかけてのこと。私が、バリ舞踊を始めたのも、2002年のこと。ばななさんは、途中出産育児なんぞをはさんでいますが、ほぼ同じくらいの間、踊りを続けているんだなーというのも、「あーそうなんだー」って気持ちになった。
 ごく最近の日記で、(といっても1年以内だったかな)、「共に踊りを踊りながら好きになった人たちは、ほんとうに好きになれる人たちだ。」とあった。その前後の文脈もあってかもしれないけれど、おもわず、コピペ(メモ)してしまった。
 踊りは、人の気持ちを裸にするなーと思っていました。
 ダンサーじゃなくっても、踊っているのをみると、その人がどんな人だか分かる。感じることができる。
 だから、「ごまかして踊っている」と言われたら、「あー、そういえば、私、ごまかして生きてるかもしれないなー」って思うし、「なんかこう、かたい…」と言われ、「あー、堅物…」って自覚し、「動きが気持ち悪い」って言われたときなんて、「えー、どうしよう」って思った(笑)
 で、人の美しさに対する定義みたいなものも、変わったというか、踊りを習っていなかったら、今頃そうは思っていないだろうなぁーと思えるものが、そのまんなかにある。
 美しいということは、すこやかということなんじゃないだろうかということ。すこやかに生き、その身体で感じたこと、交わっていくこと、生まれてくるもの…それが、美しいということなのだと思うのです。
 だから、ばななさんのいう好きとは違うかもしれないけれど、私は、健やかに美しく生きる人、いのちすべてが美しいと思うし、「好き」だなぁと思えるのです。
 そして、ちゃんと、ひとつひとつのいのちは、すこやかに美しく輝けるように存在しているような気がします。
 人を好きになるということは、そのいのちの輝きを美しいと感じ、交わったり、つながったりする、いのちのまんなかにある部分のことかもね。(20060621)