「演劇界」(1984年・S59年 6月号)より引用 (資料提供:yayoiさま)
明治座 山本富士子公演
湯島の白梅・花競錦絵図
芝居は、田中喜三作、松浦竹夫演出『湯島の白梅』二幕八場。泉鏡花の『婦系図』によっているが、題名通り、早瀬とお蔦の悲恋部分を中心に抜き出してまとめた作品である。
序幕に、妙子を見染めた河野が、教頭と叔父と共に、妙子を待ち伏せする場面があるのに、この関係が序幕だけで消えてしまうのを見てもわかるように「系図」の部分は無視されて、義理と人情にからまれて、愛する人から離れて泣く、明治の女の悲しい物語になっている。
新派脚本の『婦系図』の名場面をちゃっかりいただきながら、付かず離れずで、商業演劇としては、けっこうまとまった芝居になっている。
「湯島天神境内」の場にしても、清元「三千歳」を使わず、音楽は、時にはギター、時には三味線となる。照明が途中で暗くなって、回想のナレーションが入ったりする。この辺の流れがちょっと気になるが、あの名品の喜多村演出の新派の舞台と比べても仕方がない。今度の「湯島」は、決して悪くはない。初めて連れ立って外出したお蔦の嬉しさと、別れを言い出さねばならぬ早瀬の苦衷の対比がよく出ている。山本富士子のお蔦がここで、せりふの謳うところはしっかり謳って、写実になる部分との兼ね合いも旨く行った。早瀬をやる天知茂もいい。それにしても、筆者の見た日、天知の「月は晴れても、心は闇だ」のせりふに、客席から笑い声が起こったのにはびっくりした。せりふまわしがおかしかったのでは決してない。きっと、この名せりふを嬉しがった客席の反応なのだろうと解釈しておく。
この「湯島境内」で、早瀬は、妙子が酒井と小芳との間に出来た子だとお蔦に知らせる。そのため、次の「めの惣」の場で、観客に与える衝撃は弱くなった。その反面、訪ねてきた妙子に対する小芳の気持が観客にわかっているので、小芳の芝居が引き立つ効果はある。例えば、それと知らず、乙女の恥じらいから、小芳の膝を揺する妙子の手がさわった個所を、小芳がそっとなでるシーンなどに、子を前にして母と言えぬ女の心が響いてきた。この「めの惣」の場は、山本、小芳の万代峰子、それに妙子の長谷川澄子が素直でなかなか見ごたえのある場になった。
気になったのは、酒井が早瀬に、お蔦と別れることを迫る「柏家」の場。市村羽左衛門の酒井が軽い。元来この役はあんまり気のいい役ではない。酸いも甘いも噛み分けた人物という設定でいながら、二人の仲を非情に裂くのである。子供のころから育てた早瀬の前途を思う心、奥に秘めた妙子への心など複雑な心理からの発言だが、ここでは、押しっぱなしに、押しまくってしまう貫禄が必要だ。世話にくだけたせりふも気になって、酒井という人間が小さく見えるのは、羽左衛門の役の解釈だろうか。万代の小芳も、色気が不足だし、後ろ向きで泣く姿も形がよくない。甲山みきの芸者綱次がよくやっている。
天知の早瀬は、全場を通して、山本を立てながら、やるべき所はしっかり芝居をしている。甘いだけにならなかったのは、この人の個性が役に向いているのだろう。
【写真キャプション】
本家本元の新派を別にすれば山本富士子のお蔦はまさに極め付の役柄。柔のお蔦に天知茂の剛のイメージはぴったりの主税です。市村羽左衛門の酒井先生も申し分のない配役で、大詰は再び湯島天神境内になるサービス満点の演出でした。
*映画(S34年)のリベンジを25年後に果たした天っちゃん。評判がかなり良かったようで何よりである。
*キメ台詞で起こった笑い・・・自分がもし見に行っていたら嬉しさと恥ずかしさ(?)のあまり笑ってしまいそうだから、なんとなくそのお客さんの気持がわかるような気がする。
明治座 山本富士子公演
湯島の白梅・花競錦絵図
芝居は、田中喜三作、松浦竹夫演出『湯島の白梅』二幕八場。泉鏡花の『婦系図』によっているが、題名通り、早瀬とお蔦の悲恋部分を中心に抜き出してまとめた作品である。
序幕に、妙子を見染めた河野が、教頭と叔父と共に、妙子を待ち伏せする場面があるのに、この関係が序幕だけで消えてしまうのを見てもわかるように「系図」の部分は無視されて、義理と人情にからまれて、愛する人から離れて泣く、明治の女の悲しい物語になっている。
新派脚本の『婦系図』の名場面をちゃっかりいただきながら、付かず離れずで、商業演劇としては、けっこうまとまった芝居になっている。
「湯島天神境内」の場にしても、清元「三千歳」を使わず、音楽は、時にはギター、時には三味線となる。照明が途中で暗くなって、回想のナレーションが入ったりする。この辺の流れがちょっと気になるが、あの名品の喜多村演出の新派の舞台と比べても仕方がない。今度の「湯島」は、決して悪くはない。初めて連れ立って外出したお蔦の嬉しさと、別れを言い出さねばならぬ早瀬の苦衷の対比がよく出ている。山本富士子のお蔦がここで、せりふの謳うところはしっかり謳って、写実になる部分との兼ね合いも旨く行った。早瀬をやる天知茂もいい。それにしても、筆者の見た日、天知の「月は晴れても、心は闇だ」のせりふに、客席から笑い声が起こったのにはびっくりした。せりふまわしがおかしかったのでは決してない。きっと、この名せりふを嬉しがった客席の反応なのだろうと解釈しておく。
この「湯島境内」で、早瀬は、妙子が酒井と小芳との間に出来た子だとお蔦に知らせる。そのため、次の「めの惣」の場で、観客に与える衝撃は弱くなった。その反面、訪ねてきた妙子に対する小芳の気持が観客にわかっているので、小芳の芝居が引き立つ効果はある。例えば、それと知らず、乙女の恥じらいから、小芳の膝を揺する妙子の手がさわった個所を、小芳がそっとなでるシーンなどに、子を前にして母と言えぬ女の心が響いてきた。この「めの惣」の場は、山本、小芳の万代峰子、それに妙子の長谷川澄子が素直でなかなか見ごたえのある場になった。
気になったのは、酒井が早瀬に、お蔦と別れることを迫る「柏家」の場。市村羽左衛門の酒井が軽い。元来この役はあんまり気のいい役ではない。酸いも甘いも噛み分けた人物という設定でいながら、二人の仲を非情に裂くのである。子供のころから育てた早瀬の前途を思う心、奥に秘めた妙子への心など複雑な心理からの発言だが、ここでは、押しっぱなしに、押しまくってしまう貫禄が必要だ。世話にくだけたせりふも気になって、酒井という人間が小さく見えるのは、羽左衛門の役の解釈だろうか。万代の小芳も、色気が不足だし、後ろ向きで泣く姿も形がよくない。甲山みきの芸者綱次がよくやっている。
天知の早瀬は、全場を通して、山本を立てながら、やるべき所はしっかり芝居をしている。甘いだけにならなかったのは、この人の個性が役に向いているのだろう。
【写真キャプション】
本家本元の新派を別にすれば山本富士子のお蔦はまさに極め付の役柄。柔のお蔦に天知茂の剛のイメージはぴったりの主税です。市村羽左衛門の酒井先生も申し分のない配役で、大詰は再び湯島天神境内になるサービス満点の演出でした。
*映画(S34年)のリベンジを25年後に果たした天っちゃん。評判がかなり良かったようで何よりである。
*キメ台詞で起こった笑い・・・自分がもし見に行っていたら嬉しさと恥ずかしさ(?)のあまり笑ってしまいそうだから、なんとなくそのお客さんの気持がわかるような気がする。