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チャンピオンベルト事始め Part 3 - 1 - 綺羅星のごときリング誌チャンピオンたち - 1 -

2020年07月24日 | Box-History

■綺羅星のごときチャンピオンたち - 1

◎ヘビー級
※写真左:ジョー・ルイス(1937年6月~49年3月/V25)
 写真右:マックス・シュメリング(1930年6月~32年6月/V1)


※"褐色の爆撃機(The Brown Bomber)"ことジョー・ルイスは、1951(昭和26)年11月~12月にかけて来日。朝鮮戦争が勃発し、進駐軍と朝鮮国連軍の慰問が目的だった。

同年10月、ロッキー・マルシアノにKO負けを喫して引退を表明したルイスは37歳を過ぎており、6名の米兵(実戦経験を持つアマチュア)を相手にしたエキジビションで、東京・横浜・大阪・仙台の4か所を巡業。

2万人を動員したのは流石と称すべきだが、パフォーマンス自体は褒められたものではなく、期待外れに近い評価に終わる。

ドイツ史上初にして唯一のヘビー級王者シュメリングは、1928年11月に初渡米を敢行。パウリノ・ウスクデン,ジョニー・リスコ,ジョー・セキラらの著名選手を破り、1930年6月12日、旧ヤンキースタジアムでジャック・シャーキーに挑戦。ローブローによる反則でシャーキーが失格となり王座に就いた。

ヤング・ストリブリング(正統8階級をフライ~ヘビーまですべて経験/300戦以上戦ったとされる人気選手)を15回TKOに下して初防衛に成功するも、シャーキーとの再戦に敗れて陥落。

その後ミドル級から増量してきたミッキー・ウォーカーには勝ったが、シャーキー VS プリモ・カルネラ戦と同じリングでマックス・ベアに10回KO負け(ノンタイトル15回戦)。
※ベア戦:1933年度リング誌ファイト・オブ・ジ・イヤー

一度ドイツに戻り、1936年に再渡米。王者になる前のジョー・ルイスとぶつかり、2度のタウンを奪って12回KO勝ち(ノンタイトル15回戦)を収めた。
※ルイス第1戦:1936年度リング誌ファイト・オブ・ジ・イヤー

その後シャーキーからベルトを奪ったカルネラがベアに倒され、ベアをメガ・アップセットで下したジム・ブラドック(映画「シンデレラマン」のモデル)を経て、いよいよ"ブラウン・ボンバー"の政権がスタート。

「枢軸国(ファシズム) VS 連合国(民主主義)」の代理戦争と化し、全世界の注目を集めた歴史的な大一番が、1938年6月22日,旧ヤンキースタジアムで実現。7万人超の大観衆が見つめる中、第1戦を越える実力伯仲の熱戦との予想に反して、初回僅か2分余りでルイスがKO勝ち。

フライシャーが「Fight of the Decade(過去10年間で最大のファイト)」と命名した決戦の直後、腰に大きなダメージ(骨折と筋断裂)を負ったシュメリングは入院。文字通り病院送りとなった。


ナチスドイツの強さの象徴として、大いに政治利用されたシュメリングだが、実は一環して反ファシズムを貫く反骨の闘士だった。

再三に渡るナチスへの入党要請に応じず、米国内での活動を一任していたユダヤ人マネージャーをクビにするよう脅されても屈せず、迫害されるユダヤ人の子供たちをかくまうなど、日頃の言動が問題視されていたところへ、思わぬルイス戦の結果が影響したのか、シュメリングは徴兵されて最前線へ送り込まれ、実際の戦闘で重傷を負い、危うく命を落としかけて帰国。

戦争終結後にコカ・コーラの販売権を買い取り、実業家としても成功を収めたシュメリングは、巨額の納税に追われて現役への復帰に追い込まれ、プロレスのリングにまで上がったライバルの苦境を伝え聞くと、匿名で支援の手を差し伸べている。


※写真左:ルイスにベルトを贈呈するフライシャー
 写真右:ルイスとシュメリングは機会がある度に繰り返し会って旧交を温めた(1978年ニューヨーク/左端は大歌手フランク・シナトラ)

合衆国政府の要請に応じて、アメリカでも現役王者とトップボクサーの多くが従軍しているが、兵士の慰問や募集が目的であり、実際に戦地へ送られることはまずなかった。然るべき練習環境も提供された。

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◎ヘビー級
※写真左:プリモ・カルネラ(1933年6月~34年6月/V2)
 写真中:マックス・ベア(1934年6月~35年6月/V0/1995年殿堂入り)
 写真右:ジェームズ・ジム・ブラドック(1935年6月~37年6月/V0/2001年殿堂入り)

※カルネラが巻いているのは、EBU(IBU)のチャンピオンベルト。同じベルトをブラドックも贈られている。

後年登場するソニー・リストンと同様、裏社会による強力な支配を受けていたカルネラには、八百長(当局が最も頭を痛めたマネー・ロンダリングも込み)の噂が絶えず付いて回り、王座を獲得したジャック・シャーキー戦にも、当たり前に嫌疑をかけられた。

サーカスで力自慢の見世物をやっていたカルネラを発見し、ボクシングを仕込んだのはフランスのレオンという興行師だったが、英国でやったヤング・ストリブリングとの試合を見たウォルター・フリードマン(曲者のマネージャー)に気に入られ、王国アメリカに渡る。

フリードマンのケツを持っていたのは、N.Y.のヘルズキッチン一帯をシマにするアイルランド系の大物ギャング,オウニー・マドゥンで、マドゥンの後ろですべてを仕切っていたのが、かの有名なラッキー・ルチアーノだった。

多くの記者がこの問題を追求したが、当然フライシャーもその中の1人で、カルネラに対する視線は常に厳しく隙がない。

「これまで積み重ねた勝利のほとんどが出来レース」

ネガティブなイメージを払拭し切れなくなりつつあったカルネラだけに、6回KOで敗れたシャーキーも八百長の疑いをかけられ、亡くなるまで身の潔白を主張し続ける破目に陥った。

シャーキー夫人が「夫はお金を受け取っていた」と、ショッキングな証言を行ったことも大打撃になったが、確たる物的証拠が見つかった訳ではなく、はりシャーキー自身のパフォーマンスが疑惑を呼んだと言わざるを得ない。

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◎ヘビー級
※写真左:エザード・チャールズ(1949年6月~51年7月/V8/1990年殿堂入り)
 写真右:リング誌のベルトを贈呈されたチャールズ(1950年)

※ジョー・ルイス引退後の王座を、強豪ジャージー・J・ウォルコットと争い、明白な15回判定で獲得(1949年6月22日/コミスキー・パーク,シカゴ)したチャールズは、オハイオ州シンシナティを拠点に活動した軽量痩身の技巧派(出身はジョージア州)。

ミドル級でプロのキャリアを始めて、徐々に増量。L・ヘビー級でジミー・ビヴィンズ,オークランド・ビリー・スミス,アーチー・ムーア,ロイド・マーシャルといった、錚々たる面子を破り、第一人者の地位を確立。

エルマー・レイ(ヘビー級を代表するハードパンチャー)には1-2の10回判定で敗れた(再戦で9回KO勝ち)が、ヘビー級に進出していた元L・ヘビー級王者ジョーイ・マキシムを15回2-0の判定に下し、ウォルコットとの決定戦を引き当てた。

念願の王座を遂に射止めたチャールズを、フライシャーは1949年度のファイター・オブ・ジ・イヤーに選ぶも、リング誌ベルトの贈呈は一旦留保する(後述)。

前L・ヘビー級王者ガス・レスネヴィッチを含む3度の防衛に成功するも、ルイスと戦わずに王座を獲得したことが仇となり、地元のファンからも真の王者として認められずに苦しんだが、税金滞納でカムバックする以外になくなったルイスと激突(1950年9月27日/ヤンキー・スタジアム)。

十二分に老いたルイスを寄せ付けず、大差の15回判定に下したチャールズは、ようやく真の王者として認められ、フライシャーも保留していた伝統のベルトを授与。

51年3月には、雪辱に燃えるウォルコットをまたもや15回判定に退け、休みなくリングに上がり続けて、通算V8まで防衛を重ねる(2ヶ月に1試合のハイ・ペース)。

しかし51年7月、ウォルコットとの3度目の対決で7回KO負け。狙い澄ましたアッパーのカウンターをまともに浴びて、完全に意識を失った。翌52年6月に組まれた第4戦(チャールズにとってのリマッチ)も、15回判定負けで返り咲きは成らず。


※52年6月の第4戦を裁いたザック・クレイトンは、世界ヘビー級タイトルマッチを任された黒人審判第1号。


※ザック・クレイトン
(1917年4月17日~1997年11月19日)

若い頃のクレイトンは、黒人リーグでベースボールとバスケットボールのプロとして活躍し、フィラデルフィアで消防士の仕事をしながら、アスリートを引退した後、ボクシングの公式審判員となった。

「カラーコード」による厳しい縛りは、ボクシング界にも厳然と存在はしたが、黒人の実力者と戦う白人の王者や第一人者も多く、かなり早い時期から関心を持っていたらしい。


※"キンシャサの奇跡(Rumble In The Jungle)"で、誰も想像し得なかったアリの壮挙を捌いたのもこの人である。


チャールズは王座への復帰を諦めることなく、さらに戦い続ける。ウォルコットを壮絶な右ショートの一撃(史上に名高い"スージーQ")でし止めて、新たな王となったロッキー・マルシアノに2度挑戦。15回判定と8回KOに退いた後も現役を続けたが、急速に負けが込んで行く。

取材記者はもとより、ファンと関係者も加齢による衰えだと信じて疑わなかったが、1959年9月の敗戦を最後に引退したチャールズは、下半身を中心とした身体の麻痺に悩まされていたことを告白。治療費の負担も含めた経済的な理由で、休みなく戦い続けるしかなかったことも明らかとなった。

その後病状が悪化する過程で、1968年にALS(Amyotrophic lateral sclerosis/筋萎縮性側索硬化症)との診断を受ける。
※N.Y.ヤンキースの大スター,ルー・ゲーリッグや、スティーヴン・ホーキング博士の命を奪った難病


※リング誌を含む獲得したベルトを披露するチャールズ(サンデータイムズ・マガジン 1972年5月21日号の表紙)

マルシアノを始めとするライバルたちの呼びかけで募金が集まり、晩年をシカゴの老人ホームで過ごしたチャールズは、治療法の発見に一縷の望みを託して最後まで希望を捨てなかったとされるが、1975年5月28日、53歳の若さでこの世を去る。


ベルトを巻いてファイティングポーズを取るチャールズ・・・と聞いて直ちに思い浮かぶのは、やはり以下の写真だろう。

確認できるベルトは、1950年に贈られたリング誌のベルトではなく、「ナショナル・ポリス・ガゼット(National Police Gazette/警察官報=1845年に創刊された最古の男性向けライフ・スタイル誌)」から贈呈されたもの。

上のサンデータイムズ・マガジンの写真でも分かる通り、チャールズ自身が最も愛着を感じて大切にしていたのは、「ナショナル・ポリス・ガゼット」のベルトのようだ。

※「ナショナル・ポリス・ガゼット」のチャンピオンベルトについては、別記事で後述


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◎ヘビー級
※写真左:ロッキー・マルシアノ(1952年9月~56年4月/V6/1990年殿堂入り)
 写真右:ジャージー・ジョー・ウォルコット(1951年7月~52年9月/V1/1990年殿堂入り)


※「21世紀の今日、史上最も過小評価されている世界ヘビー級チャンピオン。それがマルシアノだ。」

とあるインタビューで「ヘビー級のオールタイムベスト3」について聞かれたマイク・タイソンは、モハメッド・アリ(1位)とラリー・ホームズ(2位)に次いで、マルシアノの名前を挙げて以下のように続ける。

「彼が凄いのはパワーだけじゃない。飛び抜けて優れているのは、ハンドスピードなんだ。ボクシングが紛れもなく本物の闘いだった時代に、49試合を戦って一度も負けなかった。」

「顔を腫らすほど打たれた試合は、皆が思っているほど多くない。片手で事足りる。彼の高い技術とスキルを、現代のファンや識者は誰もまともに評価しようとしない。」

カス・ダマトに引き取られて、ボクシング漬けの日々を送るようになった少年時代のタイソンは、チームの一員だったジム・ジェイコブスが集めた膨大な試合映像を見て、様々な名選手たちのスタイルやテクニック,スキルを分析研究するのが、夕食後の日課となっていた。

古今東西のヒストリカル・グレートの戦い方に関するタイソンの知識は、生半可な専門記者や自称ヒストリアンなど及びもつかないほど豊富で詳しい。そしてタイソンは自らのスタイルについて、「ジャック・デンプシーとソニー・リストンの融合」と語っている。

1988年3月に初来日(東京ドームでトニー・タッブスを瞬殺)した際には、「尊敬するファイティング原田に会えるのが一番の楽しみだった。彼の試合映像を穴があくほど見て勉強した。」と話し、なおかつそれが単なる社交辞令でなかったことが、昭和のボクシング・ファンを何よりも喜ばせた。


アーチー・ムーアに並ぶ高齢王者のウォルコットは、本名をアーノルド・レイモンド・クリームと言い、ニュージャージー州ペンソウケン(ペンサウケン)出身。15歳の時に父が亡くなり、母と家族(11人の弟と妹がいた)を助ける為に学校を辞め、食品工場で働きながらボクシングを学び始めて、拳で身を立てる決心をする。

リングネームは、子供の頃からアイドルだったという、バルバドス・ジョー・ウォルコット(世界ウェルター級王者)から拝借した。オリジナルとの違いと出自を明らかにする為、"ジャージー"を頭に付けることにしたという。

16歳8ヶ月でプロになると、始めは軽量のL・ヘビーだったが、大人の身体が出来上がるに従い体重も増え、ヘビー級で戦うようになる。当初はウェイトのハンディが大きく、勝ったり負けたりを繰り返し、190ポンドを越えるようになった1938年以降、ようやく戦績が安定し出したのも束の間、1940年~44年まで第二次大戦による中断を余儀なくされる。

やっと戦争が終わり、王者たちとともに戦線に復帰した後、キャリア最晩年のジョー・ルイスに2度挑戦して失敗。ルイスの引退を受けて、エザート・チャールズとの決定戦に臨み判定負け。

ヘビー級王座への最高齢挑戦記録を花道に、引退を進める声が周囲から上がるが、諦めの悪い(?)ウォルコットは、チャールズ相手に通算4度目の挑戦を敢行。これもまた判定で敗れたが、大善戦を評価されてラバーマッチが汲まれ、快心の7回KOで遂に王座を獲得。

37歳5ヶ月での載冠は、ヘビー級の最高齢奪取記録となり、1994年に45歳9ヶ月のジョージ・フォアマンに更新されるまで、最長老として君臨し続けた。

肝心の王座は、チャールズとの第4戦を判定で切り抜け初防衛に成功したものの、豪腕マルシアノとのV2戦で、伝説の"スージーQ"を食らって13回KO負け。再戦では初回2分半足らずで右の爆弾を浴び轟沈。この試合を最後に、39歳を過ぎていたウォルコットはリングを去る。

テレビドラマへの出演や、ビッグマッチのレフェリーに呼ばれたり、プロレスのリングで鉄人ルー・テーズと戦うなど、引退後も忙しい日々を送っていたが、故郷カムデン郡の犯罪者向け矯正施設でボクシングの指導などを依頼され、1971年に同州初の黒人保安官となる(2度目のチャレンジ)。

1975年にニュージャージー州アスレチック・コミッションのチェアマン(コミッショナー)に就任。70歳の定年(1984年)まで勤め上げた。


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以下の記事へ続く
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