ネットオヤジのぼやき録

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チャンピオンベルト事始め Part 2- 王国アメリカのベルト事情 -

2020年07月24日 | Box-History

近代ボクシング発祥の地,英国の伝統を象徴する存在が「ロンズデール・ベルト」なら、その英国から最強国の座を奪い取り、19世紀末~20世紀末までのおよそ100年間、僅かな例外を除いてヘビー級を支配し続け、世界最大のボクシング・マーケットを築いた新大陸アメリカのベルト事情はいかなるものだったのか。

物語は1922年に遡る。この年の2月、ボクシングを専門に扱う月刊誌が、記念すべき創刊号を発行した。年季の入ったファンなら知らぬ者はいない、「リング・マガジン(Ring Magazine)」である。我が国では、永らく「リング誌」の呼称で呼ばれてきた。

創設したのは、ご存知ナット・フライシャー。

19世紀後半にニューヨークで生を受け、神代の時代からボクシングを見続け、2度の世界大戦を挟み、近代ボクシングの歴史そのものとも言うべき、伝説的な名勝負の数々を直接目撃し、今に伝えてくれた文字通りの生き証人であり、常人離れした記憶力と博覧強記で知られた、生き字引と称して差し支えのない人物である。


※ナット・フライシャー(ナサニエル・スタンリー・フライシャー)
(1887年11月3日~1972年6月25日)


※リング誌創刊号
 表紙に掲載されているのはテックス・リカード(左:超大物プロモーター/出資者・共同オーナー)とロンズデール卿(右)


「ジム・ジェフリーズ以降のヘビー級チャンピオンを、1人残らずすべてこの目で見てきた。過去50年間に行われたヘビー級タイトルマッチも、そのほんどすべてを見ている。」

「リングサイド50年(50 years at ringside)」と題した、生涯をボクシングに捧げた記者人生の総決算とも言うべき著書を出版し、第1回目のオールタイムランキングを公表した1958年、フライシャーはそう語ったと伝えられており、"ミスター・ボクシング(Mr.Boxing)"の面目を躍如する逸話だ。


※リングサイド50年(1958年の初版)

ちなみに、戦前の勃興期からボクシングを見続け、日本で初めてとなる専門誌「ボクシング・ガゼット(拳闘ガゼット/1934(昭和9)年創刊)」を発行した郡司信夫は、「リングサイド50年」,「ボクシング百年」という著書を残しているが、このタイトルはフライシャーの著書に触発されたものだと、郡司自身が書いている。

「東洋チャンピオン・スカウト(1955年にスタートしたTBSの定期番組)」を始めとするTBSのボクシング中継で、盟友の白井義男(日本人世界王者第1号)とともに長く解説を勤め、渡辺謙太郎実況アナの「郡司さんの採点は・・・」の決まり文句とともに、全国のボクシング・ファンに親しまれた。

1952(昭和27)年にJBC(日本ボクシング・コミッション)が設立されてからは、毎年恒例のボクシング年鑑の編纂と発刊に尽力し、1999年に90歳で亡くなる直前まで後楽園ホールに通って取材を続けた、まさに和製フライシャーと呼ぶべき、我が国ボクシング界の生き証人,生き字引である。


※写真左:郡司信夫(1908年10月1日~1999年2月11日)
 写真中:「リングサイド50年(1990年/ベースボールマガジン社)」
 写真右:「ボクシング・ガゼット(1934(昭和9)年10月号)/ガゼット出版社」


そしてフライシャーは、創刊とほぼ時を同じくして、当代随一の人気と実力を誇っていた世界ヘビー級チャンピオン,ジャック・デンプシーに、その栄誉を称える目的でチャンピオンベルトを贈呈した。

このベルトこそが、王国アメリカのボクシングを象徴する「リング誌チャンピオンベルト(The Ring Magazine Champion Belt)」であり、絢爛たる歴史絵巻の始まりとなる。


※ジャック・デンプシー(ウィリアム・ハリソン・デンプシー)
(1895年6月24日~1983年5月31日)


※1922年に贈られたオリジナル・デザインのベルト/デンプシーの名前入り


※1926年に贈られたというデンプシーの名前が入った2つ目のベルト


デンプシーに限らず、1950年代以前に活躍したチャンピオンたちの中には、贈呈されたベルトを巻いた写真が見当たらない場合が少なくない。

リング誌はデンプシーに、デザインの異なる2種類のベルトを贈ったことになるが、デンプシーが所有していたベルトはこれだけではなく、超大物プロモーター,テックス・リカードの名前が刻印された有名なものがある。


※テックス・リカード(プロモーター)の名前が大きく入ったベルト(1919年)

1919年にジェス・ウィラードをなぶりものにして、世界ヘビー級王座を獲得(有名な"トレドの惨劇")した際に製作されたらしく、観客動員が8万人とも9万人とも言われた大興行を手がけ、1929年に急逝するまで、デンプシーをコアにしたボクシング興行に情熱を燃やしたリカードなら、こうしたベルトを作ったとしても不思議はない。

けっして良い趣味だとは思わないけれども。

1922年のオリジナル・デザインのベルトについて、時折り「1919年に贈呈」と書かれた記事を目にするが、リング誌が創設されたのは1922年であり、公式ウェブサイトの説明を見ても、「ベルトの寄贈を始めたのは1922年」「第1号はジャック・デンプシー」と明記されている。おそらくは、「リカード・ベルト(?)」と混同しているのだろう。

※About The Ring(リング誌公式サイト)
https://www.ringtv.com/113499-about-2/


オリジナル・デザインのベルト製作は、ニュースポート・マーケティング(Newport Marketing Inc)という会社に依頼され、100個が作られたという。オリジナルの金型は廃棄されたというから、100名のチャンピオンに記念品として寄贈したら、それで終わりにするつもりだったのか、それとも最初からデザインを変える予定だったのか。

リング誌公式サイトの「About The Ring」によれば、デンプシーに次ぐ第2号は、なんとフライ級のパンチョ・ビラとなっている。

1923年6月18日、アッパー・マンハッタンにあったポロ・ラウンドで、伝説の強打者ジミー・ワイルド(英)を7回KOに下し、東洋人として初めて世界チャンピオンとなり、23歳の絶頂期に夭折した"フィリピン版小さな巨人"。


※パンチョ・ビラ(フランシスコ・ヴィリャロエル・グィレド)
(1901年8月1日~1925年7月14日)

スペイン語の発音をカタカナ表記するなら、「ビラ」ではなく「ビリャ(ヴィリャ)」または「ビジャ(ヴィジャ)」としなけれないけないのだろうが、日本国内では「ビラ」の表記が定着してしまっている為、変更せずにそのまま書く。

大変残念なことに、ビラもベルトを巻いた写真が残されていないようで、なおかつビラの名前が刻印されたリング誌チャンピオンベルトの写真も、一度も見たことがない。

贈呈が行われた時期のリング誌が現存していれば、フライシャーと一緒にベルトを持ったり、腰に巻いている写真が掲載されているかもしれないのだが・・・。


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■欧州版世界王者との対立

リング誌が創刊された1920年代(ローリング・トゥエンティ)のボクシング界には、先発のIBU(英国を軸にした欧州)と後発のNBA(新大陸アメリカ)という2つの世界王座認定機関が存在した。

そこへさらにフライシャーが認める「直系のチャンピオン(別記事で後述)」が加わると、主要4団体がそれぞれに王者を承認する現在と大して変わらないじゃないかと、そんな風に思う若いファンがいらっしゃるかもしれない。

実際にはIBUとNBAだけでなく、世界王者の認定を巡る事情はもう少し複雑なのだが、まずIBUは8階級すべてに独自の王者を認定していた訳ではなく、フェザー~ウェルターまでの3階級では王者を承認しておらず、ミドルから上の3階級の王者たちは、NBAの王者に比べて格落ちが明らかだった。


そして、1つの階級に2人(複数)の世界一を認めてしまう不合理について、当時の認定機関と関係者の多くは、相応の危機感を共有していた(そう言い切って間違いない)。記録を直接競う競技も含めて、スポーツに「複数の世界一」が存在し得るのは確かであり、その時々においてトップ・オブ・ザ・トップの優勝劣敗は入れ替わる。

神代の時代から1950年代中頃までは、力の拮抗したライバルが何度も対戦(リマッチの応酬)した。同じカードでタイトルマッチが繰り返されたり、人気のある選手に優先的に挑戦権が与えられ易く、挑戦機会を喪失する特定のトップランカーが、「無冠の帝王」と呼ばれてファンの熱い支持を集めたりもした。


「世界一が2人いるのはおかしい」
「チャンピオンは希少だからこそ価値がある」

これほど単純明快な理屈はなく、実力と実績が明らかに不足する看板だけの王者を、政治力と資金力を総動員してどれだけ作り出したところで、結局はファンの信頼と共感は得られない。

戦争への不穏な空気が充満し始めた1938年4月、ミラノでIBUの年次総会が行われてから数日後、各国の統括機関から63名の代表者が集まり、ローマで(おそらく史上初にして唯一の)国際会議が開かれた。

BBBofC(英国のコミッション),NYSAC(ニューヨーク州アスレチック・コミッション),NBAからも代表者が出席し、世界タイトルマッチの15ラウンド制が国際的に合意形成された他、各階級の世界チャンピオンについて確認と合意が行われている。

<1>ヘビー級:ジョー・ルイス(米)
※同年6月末までにマックス・シュメリング(独)との防衛戦履行を義務付け
<2>L・ヘビー級:ジョン・ヘンリー・ルイス(米)
<3>ミドル級:フレディ・スティール(米)
<4>ウェルター級:バーニー・ロス(米)
<5>ライト級:ルー・アンバース(米)
<6>フェザー級:ヘンリー・アームストロング(米)
<7>バンタム級:シクスト・エスコバル(プエルトリコ)
<8>フライ級:ベニー・リンチ(英/スコットランド)

8名全員がNBAの王者であり、フライ級のリンチを除く7名は、プエルトリコ初の世界王者エスコバルも含めてすべて米国勢であり、新大陸の絶対的な優位は一目瞭然。

この国際会議では、IBU,NBA,NYSAC,BBBoCの主要4機関に、カナダとオーストラリアの代表を加えて、世界タイトルとチャンピオンの承認に関わる問題や課題を集中的に話し合い、解決を図る為のコミッティ(専門会議)が設置された。

米・英・豪という実に分かり易い顔ぶれではあるが、これは画期的な決定と表してよく、第二次大戦によってうやむやになってしまったのが惜しまれる。仮に継続していたにしても、中南米が大きく勢力を拡大する60年代後半~70年代を待たずに、空中分解していた可能性も大ではあるけれども。


第二次大戦の甚大な戦禍により、事実上の活動停止状態へと追い込まれたIBU(International Boxing Union/国際ボクシング連盟)は、戦争が終結した直後の1946年、EBU(European Boxing Union/欧州ボクシング連盟)への名称変更を行い、欧州王座を認定する機関へと衣替えする。

世界王座を承認する機関は、晴れてNBAのみということになる訳だが、上述したように、英国(欧州)に対するアメリカの優位は19世紀末から変わっておらず、先行して発足はしたものの、IBUの位置付けはあくまで「欧州版世界王者」に止まった。

英国から世界最強の称号(ヘビー級王座)を奪い、マーケットの規模でも圧倒的な威容を誇る新大陸アメリカが認めない限り、真の世界一とはみなされない。後発のNBAよりも一段下の扱いに甘んじるしかない現実に苛立ちを覚えながらも、英国と欧州勢は2度目の大戦によって止めを刺された格好。


1938年の国際会議は、その事実を再認識(念押し)させられる場でもあった。それでもなお、発祥国としての面子とプライドを示し続けねばならない英国は、どれだけ要請を受けようとも、NBAへの加盟を頑として拒み続け、EBUも当然同じ態度を取り続ける。

そして1938年の合意以前も以後もなお、幾つかの階級で独自にチャンピオンを承認する場合もあったが、同じ階級でNBAとIBUの王者が並立してしまった場合、ほぼ例外なく統一戦や直接対決が行われた。統一戦(直接対決)のオファーに応じなければ、その時点で自ら世界一の座を降りたに等しい。

1970年代半ば以前のボクシングには、何だかんだと言いつつも、当たり前のプリンシプルが当たり前に生きていた。


■代表的なIBUとNBA(または直系)王者の直接対決(決定戦を含む)
<1>L・ヘビー級:ジョルジュ・カルパンチェ(仏/IBF) KO4R バトリング・レヴィンスキー(米/NBA)
1920年10月12日/ニュージャージー州ジャージーシティ



IBUのタイトルは懸けられず、NBA王座への挑戦。1919年7月19日、カルパンチェはNSCが承認した初代英国王者ディック・スミス(英/イングランド)を地元パリに呼び、1913年2月に獲得していたIBUとEBU(欧州)王座の防衛戦を行い、第一次大戦による中断から175ポンドのタイトルマッチを再開。スミスを8回KOに下して、真のNo.1を証明すべく渡米。

見事レヴィンスキーを倒して、ジャック・ルートやフィッシモンズの系譜を引き継ぐ、正統(直系)王者の列に並ぶ。そして翌1921年7月2日、同じジャージーシティでヘビー級の王デンプシーとの「100万ドルファイト(ボクシング史上初)」に挑み、体格&パワーの違いに蹂躙される。

L・ヘビー級の統一王座は、1922年5月にテッド・キッド・ルイス(英/イングランド)を初回KOで蹴散らし防衛に成功するも、4ヶ月後の9月、バトリング・シキ(セネガル)にまさかの6回KO負け。その後チャンスを求めて再渡米したが、トミー・ギボンズ,ジーン・タニー,トミー・ローランの米国3強(L・ヘビー級)に敗れ、復活への夢は費える。
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<2>ミドル級:マルセル・ティル(仏/IBU) 11回反則 ゴリラ・ジョーンズ(米/NBA)
1932年6月11日/パルク・デ・プランス(パリ)



1929年~30年まで欧州(EBU)王座を保持したティルは、ホームのパリでNBA王者ジョーンズ(2009年国際ボクシング殿堂入り)に挑戦。王者のローブローを繰り返しチェックしていたスペイン人の主審が、遂に失格を宣告。王者陣営は抗議したが受け入れられず、NBAも王座の移動を了承した。

IBUは発足以来ミドル級の王者を認めていなかったが、前欧州王者とNBA王者の対決となったこの試合を、初代王座決定戦として承認。ティルは獲得の翌月に渡英し、英国王者レン・ハーヴィ(イングランド)を15回判定に下して初防衛に成功するが、この後防衛戦を1年以上行わず、NBAはティルの王座をはく奪。

ヴィンス・ダンディ(米)とルー・ブロイヤー(カナダ)に決定戦を指示し、15回判定勝ちを収めたダンディを王者として認定(1933年10月)する。

勿論IBUはティルの王座を継続承認し、1937年2月まで通算11回の防衛に成功。同年9月、フレッド・アポストリ(米)の挑戦に応じて渡米。バンタム級(シクスト・エスコバル VS ハリー・ジェフラ),ライト級(ルー・アンバース VS ペドロ・モンタネス),ウェルター級(バーニー・ロス VS セフェリノ・ガルシア)の3つの世界戦(NBA)を同時に開催する大興行で、ニューヨークのポロ・グラウンドに4万人の大観衆を集めた。

プロモーターのマイク・ジェイコブスは、ミドル級もIBU王座を懸けた世界戦として計画し、「4大世界戦」と銘打つ予定でいたが、ニューヨーク州アスレチック・コミッションが「現在の世界ミドル級王者はフレディ・スティール(NBA)」だとの立場を譲らず、ノンタイトルでなければ試合を認めないと通告(15回戦は承認)。

ティルは瞼をカットして大流血し、10回TKOで敗れ丸腰の帰国を余儀なくされ、NYSACの強硬な姿勢(ほぼ嫌がらせ)に腹を立てたIBUも、意地と面子にかけてタイトルマッチの承認を取り消さなかったが、NYSACの指示で契約書に「タイトルは懸けない」との一文が加えられた事を理由に、アポストリが勝った場合の王座承認を拒否する異例の事態となった。

年齢(33歳)的な問題に加えて、戦争への気配が濃厚に漂い始めたことも影響したのか、ティルは1938年2月に引退を表明。

現役の王者だった1935年には、旧ソ連の要請に応じてアマチュアの代表チームを指導するなど、早くからコーチとしての適性を示し、引退後はトレーナー,アドバイザーとして活躍した。2度の交通事故が原因で身体が不自由となり、回復できないまま1968年8月に68歳で逝去。2005年に国際ボクシング殿堂入り。
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<3>バンタム級
(1)キッド・ウィリアムズ(米/IBU) 3回KO ジョニー・クーロン(米)
1914年6月9日/カリフォルニア州ヴァーノン



ウィリアムズは1913年7月15日、同じカリフォルニア州ヴァーノンでIBU王者シャルル・ルドゥ(仏)を16回TKO(20回戦)に下し、欧州版の王座を獲得。ジョージ・ディクソンに連なる直系の王者クーロンと雌雄を決した。
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(2)エデル・ジョフレ(ブラジル/NBA) 10回TKO ジョニー・コールドウェル(英/アイルランド/EBU)
1962年1月18日/ジナシオ・ド・イヴィラプエラ,サンパウロ



1956年のメルボルン五輪で銅メダルを獲得したコールドウェルは、1961年3月30日、前NBA王者アルフォンソ・アリミ(仏)を15回判定に下し、EBUが独自に認定する世界王者となる。

日本のファンにとってもけっして忘れることのできない、"黄金のバンタム(Gallito de Oro)"ことジョフレは、3つの引き分けを挟み41連勝(32KO)の真っ最中。1960年11月に獲得したNBA王座を連続KOで2度防衛。コールドウェルも無傷の25連勝(13KO)をマークしており、軽量級の無敗対決に大きな注目が集まった。

アルジェリア出身のアリミは、1957年11月6日、地元のパリにメキシコのスター,ラウル・ラトン・マシアスを招聘。15回判定勝ちでNBA王者となるも、2度目の防衛戦で渡米し、同じメキシコのジョー・べセラに敗れて陥落(1959年7月8日/ロサンゼルス)。

1960年2月4日の再戦(やはりL.A.開催)でも返り討ちに遭ったが、来日して米倉健志(明大出身/1956年メルボルン五輪代表)に大苦戦を強いられたべセラが王座を返上。

熱望していたべセラとの3度目の対戦が完全消滅したアリミは、1960年10月25日、欧州(EBU)・英連邦・英国の3冠王者フレディ・ギルロイ(英/アイルランド)に敵地ウェンブリーで15回判定勝ち。この勝利を持って、EBUはアリミを欧州版世界王者に認定していた。
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<4>フライ級:エミール・プラドネル(仏) 1回KO フランキー・ジェナロ(米/NBA)
1929年3月2日/パリ



1920年アントワープ五輪で金メダリストとなったジェナロは、1928年2月6日、敵地トロントでフレンチー・ベランジェ(カナダ)を10回判定に破りNBA王座を獲得。3度の防衛に成功した後、プラドネルとの対戦に合意して渡仏。やはり3度の防衛に成功していたIBU王者ジミー・ワイルドが、主戦場を米本土に移した為、IBU王座は事実上の空位となっていた。

IBUはプラドネル VS ジェナロ戦を王座決定戦として承認し、NBAとIBUの統一王者となったプラドネルだが、翌4月18日に行われたリマッチ(パリ開催)で5回反則負け。

無冠となったプラドネルは、バンタム級への転級を表明。1933年6月、プラドネルは読売新聞社が主催する日仏対抗戦に、元世界王者の看板選手として来日。7月上旬まで滞在し、現役早大生の堀口恒男(日倶/後のピストン)らと戦い、堀口の人気に火が着くきっかけを作る。
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IBUとNBA王者の統一戦を含む直接対決は、思いのほか数が少ない。1938年の合意を見れば分かる通り、フェザー級より上の階級は米国勢の寡占状態が続き、IBUが欧州版の王者を承認しても対抗するのは難しく、ほとんど意味を為さなかった。

世界王座認定機関の看板を降ろしてから20年近くも経つのに、五輪メダリストのコールドウェルをちゃっかり世界王者にしてしまうのだから、NBA(アメリカ)への反発は相当に根深いものがある。


というような次第で、NBAの歴代チャンピオンの大半が、リング誌のチャンピオンとしても認定を受けることとなり、「伝統のベルト」を贈られ所有した。


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以下の記事へ続く
チャンピオンベルト事始め Part 3 - I - 綺羅星のごときリング誌チャンピオンたち - I -