パル判事の碑文 (靖国神社)
東條英機 宣誓供述書
眞珠灣攻撃の實施
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帝国は1941年(昭和16年)12月1日より開戦準備に入り
大本営陸海軍統帥部の企画に基き
敵の大包囲圏を「ハワイ」、比島、香港、及「マレー」の四か所に於て突破するの作戦に移りました。
12月8日(日本時間)早暁其の攻撃を実施しました。
而して此の攻撃は何れも軍事目標に指向されたのであります。
此の攻撃作戦は統帥部に於て極秘裡に進めれたのであります。
私は陸軍大臣としてその概要を参謀総長より承知して居りました。
私と海軍大臣を除く他の閣僚は事前に之を承知して居りません。
當時私は此の開戦準備の間、
米国側の反省を得て幸に日米交渉の妥結を見たる場合には
遅滞なく統帥部に移牃する其の場合統帥部は行動中止を為すを確信すると共に
他面統帥部の周到なる企画と自信に信頼しつつも
帝国がまづ敵より攻撃を受けて此の計画の挫折せんことを憂慮して居りました。
蓋し前に述べた如く當時の情報より判断すれば
米英側に於ては既に當時対日戦を決意して居るものと判断せられたが故であります。
統帥部に於ても1941年(昭和16年)12月1日の開戦準備行動開始の命令中に敵より攻撃を受けたる場合には
臨戦戦闘に入るべきことが感ぜられて居りました。
(法廷証第八〇九号中英文76頁にある1942年11月21日通達B項及田中新一証言中英文記録27020頁)
即ち敵の方より先制することがあり得ると思はれたからであります。
先ず日本をして一撃を加えしめるように仕向けるといふが如き
戦争指導手段が「アメリカ」側に考へられて居ったといふことは其の當時は予期して居りませんでした。
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私が真珠湾攻撃の成功の報を受取ったのは
1941年(昭和16年)12月8日午前4時30分頃(日本時間)
海軍側から伝へられた報告に依ったものと記憶致します。
而してその奇跡的成功を欣び天に感謝しました。
大本営陸海軍報道部は同日午前6時米英と戦争状態に入りたる旨発表し
同日午前7時30分臨時閣議を招集し此の席上初めて陸海軍大臣より作戦の全貌を説明したのであります。
此の間に「マレー」方面の作戦成功の状況についても報告をうけました。
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我国の最終的通告を米国へ交付遅延の事情は
証人亀山の証言(英文記録2618頁)及結城の証言(英文記録26209頁)に依り明白となりました。
日本は真珠湾攻撃のために右覚書交付の時間の決定については
外務省並びに統帥部両方面より慎重に研究の上決定したのであります。
それ故、攻撃成功のため此の交付を故意に遅らせたといふ如き姑息なる手段に出たものではないことは
前に述べた通りであります。
なほ此のことは実際上よりいふも証拠の示す如く米国は攻撃の前に之を予知し、
之に対する措置を講じて居つたのでありますから、
もし覚書交付遅延の如きことをする格別の効果はなかつたのであります。
ルーズヴェルト大統領より天皇への親書
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1941年(昭和16年)12月8日午前1時頃(確実なる時間は記憶せず)
東郷外相が総理大臣官邸へ突然来訪し米大統領から天皇陛下に親書を寄せたりとて
「グルー」大使が来訪し其写を外相に手交したること並に右を直ちに上奏せんとする旨告げました。
私はその内容に於て従来の米の態度より譲歩したるものなりやと尋ねましたが、
外相は之に対し何等譲歩したる点なしと答へました。
私は直ちに上奏は異存なしと告げると共に
もはや海軍の機動部隊の飛行機は母艦より飛行の開始を為して居るであらうと答へたのでありました。
東郷外相は直ちに辞退し右に関して上奏を為したものであります。
私が親電を知りたるは之が初めてであります。
検事側の主張する如く米側より親電を発せらるることを事前に知って居ったといふ事実はありません。
我国に於ては
他國の元首より天皇陛下に宛てたる親電を
故意に遅延するといふ如き行為は行はんと考ふる如き者は
臣下として存在しないのであります。
部内統督の責
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日本國の軍事制度に於ては部下統督の責任は事柄に依り二筋に別れて居ります。
(一) 一は統帥系統内に発生することあるべき事項であります。
即ち作戦警備、輸送、並びに陸軍大臣の開設したる俘虜収容所に輸送するまでの間における
俘虜の取扱等は全て統帥系統内の事項として統帥関係者の責任即ち最終には参謀総長に属するものであります。
本件について申しますれば「マレ-」半島に起つた事件、
「バタン」半島の事件、
船舶輸送中に発生した不詳事件等は未だ陸軍大臣の開設したる俘虜収容所に収容前の事件であります。
その処理は統帥関係者に於て受け持つべきものでありました。
(二) その二は陸軍大臣の行政管下に発生したるものであります。
即ち陸軍大臣の開設したる俘虜収容所に収容したる以後の俘虜 及
戦地(支那を除く)一般抑留者に対する取扱等は此の部類に属します故に
例へば泰緬鉄道建設に使用したる俘虜を如何に取扱ふやは陸軍大臣の所轄事項でありました。
私は右の中その(二)の事項に関しては
太平洋戦争の開始より1944年(昭和19年)7月22日迄の間は
陸軍大臣として行政上の責任を負ふものであります。
その(一)に関しては1944年(昭和19年)2月より同年の7月に至る迄の間
参謀総長として統帥上の責任を負ふものであります。
又外務大臣としては1942年(昭和17年)9月1日より同年9月17日迄の間
敵國並に赤十字の抗議等外政事項に関係したる事柄がありたりとすれば
是亦行政上の責任を負ふものであります。
内務大臣としては1941年(昭和16年)12月8日より1942年(昭和17年)2月27日迄
内地抑留者の取扱其他につき何等かの事故ありたりとすれば、
是亦その行政上の責任者であります。
なほ又 内閣総理大臣兼陸軍大臣としては
俘虜処罰法等の制定に関し政治上の責任者であります。
しかし乍ら此等の法律上並に刑事上の責任如何は申す迄もなく當裁判所の御判断に待つところであります。
率直に申上ぐれば
私は 私の全職務期間に於て犯罪行為を為しつつありなどと考へた事は
未だ曾て一度もありません。
私としては斯く申上ぐる外ありませぬ。
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以下私が陸軍大臣たりし期間に発生した俘虜の取扱に関し発生した問題につき陳述致します。
俘虜並に抑留者其他占領地内に於ける一般住民に対しては、
国際法規の精神に基き博愛の心をもって之を取扱ひ虐待等を加へざること
及強制労働を課すべからざること等に関しましては
俘虜取扱規則(法廷証一九六五、英文3頁)俘虜労務規則(法廷証一九六五、英文14頁)等に依り之を命令し、
なほ又1941年(昭和16年)1月陸軍省訓令第一号,戦陣訓(法廷証三〇六九号)を示達し
戦場に於ける帝国軍隊、軍人、軍属としての心得を訓諭致しました。
此の戦陣訓は太平洋戦争に入るに當り従軍者には各人に之を交付しその徹底を図ったのでありました。
(証人一戸の証言英文記録二七四三三)
また検事の不法行為と称せられる事項につき
陸軍大臣たりし私の所見は法廷証第一九八一号Aに記載した通りであります。
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寿府(ジュネーブ)条約に関して一言致します。
日本は寿府条約を批准致しませんでした。
なほ又事実に於て日本人の俘虜に対する観念は欧米人のそれと異なって居ります。
なほ衣食住其他風俗習慣を著しく異にする関係と
今迄戦役に於ては各種民族を含む広大なる地域に多数の俘虜を得たることと
各種の物資不足と相待ちまして、
寿府条約を其儘適用することは我国としては不可能でありました。
日本に於ける俘虜に関する観念と欧米のそれとが異なるといふのは次のようなことであります。
日本に於ては古来俘虜となるといふことは大なる恥辱と考へ
戦闘員は俘虜となるよりは寧ろ死を択べと教へられて来たのであります。
これがため寿府条約を批准することは俘虜となることを奨励する如き誤解を生じ
上記の伝統と矛盾するがあると考へられてました。
そうして此の理由は今次戦争の開始に當っても解消致して居りません。
寿府条約に関する件は外務省よりの照会に対し、
陸軍省は該条約の遵守を声明し得ざるも俘虜待遇上之に準じ措置することに異存なき旨回答しました。
外務大臣は1942年(昭和17年)1月瑞西(スイス)及「アルゼンチン」公使を通じ
我国は之を「準用する」旨を声明したのであります。
(法廷証一四六九・一九五七)
此の準用といふ言葉の意味は
帝国政府に於ては自国の国内法及現実の事態に即応するように
寿府条約に定むるところに必要なる修正を加へて適用するといふ趣旨でありました。
米国政府の抗議に対する1944年(昭和19年)4月28日付抵抗政府の書簡に其旨を明らかにして居ります。
(弁護側証第二七七五号)陸軍に於ても全く右の趣旨の通りに考へ実際上の処理を致しました。
俘虜取扱規則其他の諸規則も此趣旨に違反するものではありません。