日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

勝海舟『氷川清話』(4) 長州との宮島談判

2019-12-29 21:58:09 | 勝海舟

勝海舟 『氷川清話』 (4)  

  長州との宮島談判 

話が少し御後戻りするやうだが、
 おれが長州へ談判に行つた時の始末を書いた 『米使始末』 といふものがあった。
 然し今は何度へか紛失してしまって。

 その時の事も大抵忘れてしまったが、
なんでもあの頃はちょうどおれも内外面白くないことばかりで、
大阪に居て窃かに決心する所があった。

 すると突然京都とから早打ちが遣って来て、すぐおれに来いとの事だ。

 おれも忌々しかったから、病気だといつて行くまいと思つて、
ある老中に談した所が、その人は正直な男だから、
お前が今日はそんな事を言ひ出しては、
国家がどうなるかも知れないなどと心配するので、
おれもいやいやながら、その夜直ぐ早駕籠で以て京都へ上がった。


この頃慶喜公は後見職であったから、
 おれの京都に着いた時は丁度参内中で、原市乃進が来て、
やれ実に御苦労だの、今度のご用は我々には何だか知れないが、
何でも貴下でなくては辨(弁の旧字体)じられないといふ事で、
わざわざお召になったのだが、
 何分貴下の為には御名誉などと、
平生にも似ない挨拶をするので、おれもそこは人が悪いから。

 此奴おれに油を掛けやがると思ってよい加減な返答をして居る内に、
慶喜公も御帰館になって、
御直で長州への使者を仰せ付けられたのだ。

 それも思ふ仔細があって、おれも堅く御辞退申したが、
是非にとの事だから、それではと断然御受けを致したのだ。

 それでかくかくの次第で長州と談判致す積りであるといふことを、
慶喜公に言上すると、公は何分頼むとの事だから、
おれも、よろしうございます、一ヶ月中には必ず始末を附けて帰ります。

若しさもなければ私の首はなくなった事と思召されよと申上げて出発した。

 

おれは少し考えがあつて、
 一人の共をも召連れず、小倉袴に木綿羽織で単身藝(芸の旧字体)州まで行った。

 ここには 辻●(判読できず)曹 が居つて万事親切に世話してくれ、
長州との往復もいろいろ周旋してくれて、到々宮島に於て双方会談することになつた。

 それでおれは例の通りで宮島へ行かふとすると、
辻は、如何に何でも一人では餘りだといって、
わざわざ二人の役人を附てくれ、
また舟がまで周旋して向ふへ渡してくれた。

 宮島に渡ってみると、長州の兵隊が此処其処に出没して殺気が充ちて居たが、
固よりこんな事だろうと覚悟して居たから、
平気で旅館に宿り込んで、長州の使者の来るのを待って居た。

 彼等も国論を纏め上で船に乗って来るといふのだから、
随分手間が入つたが、その間の長州の兵隊や探偵は、
始終おれの旅館の周囲を徘徊してたまには遠方から旅館へ向けて発砲するものなどもあった。


 併しおれはこんな事に頓着しないで

 旅館の広間に平然と座り込んで、日夜使者の来るのを待つて居たが、
この頃このあたりの婦人などは皆何処かへ逃げて行つてしまつて、
おれの旅館に老婆が唯一人残つて居たばかりなので、
これに頼んで襦袢を沢山拵へさせ代わる代わる着替へ、
また毎日髪を結ひなおさせた。

 すると婆さんがその訳を尋ねるから、
おれの首は何時斬られるかもしれないによって死恥をかかない為めにかうするのだといったら、
婆さんは訳を知らないものだから只怖がってばかり居た。  

 彼是する内に長州から廣澤兵吉等八人のものが使者として遣って来た。

 井上聞多
(今の井上馨侯) その頃は春本強太郎といって居たが、
それから長松幹などもこの中に加わって居た。
長州の方からはこの通り大勢で堂々とやつて来たのに此方では木綿羽織に小倉袴の小男の軍艦奉行が、
たつた一人控えて居るばかりだ。

 いよいよ今日会合といふ日に成ると、
おれはまず大慈院、これが会合の場所だが、
この寺の大広間に端坐して居ると、後から廣澤などがやつて来た。

 然し流石は廣澤だけあって、少しも傲慢の風がなく、一同横側に座して恭しく一礼した。

  そこでおれは、いや其処ではお談が出来ませんから何卒こちらへお通りなさいと挨拶すると、
廣澤は頭を擡(もた)げて、御同席は如何にも恐れ入ると辞退するので、
おれは全体慓軽者だから、かように隔つて居てはお談が出来ぬ、
貴下が否とあれば拙者が其処へ参りませうと言って、
いきなり向こうが座って居る間へ割り込んで行つた所が、
一同大笑ひとなって、それでは御免蒙りますと云ふことで、
一同広間にはいっていよいよ談判を始めるう事になった。


 談判といっても、譯もなく咄嗟の間に済んだのだ。
まづおれは能くこちらの赤心を披いて、自分の始めからの意見はかくかくであった。
 貴藩においても、今日の場合、兄弟喧嘩をして居るべえきでないことは御承知であらう。
といふ旨趣を述べた。

 すると、廣澤も合点して、尊慮のある所はかねてより承知して居りましたなどと何時他。
そこでおれは断然、
私が帰京したら直ちに貴藩の国境にある幕兵は一人残らず引き上げる様にするから、
貴藩に於ても、その機にい乗じて、
請願などと稱(とよな)へて大勢で押し上げることなど決してしない様にせられよと云ひ放ったから、
廣澤も承諾の旨を答へて、談判もこれで決着した。

 談判が済んで別れる時に、春木即ち井上が、
後刻御旅館に罷出でても御差支へ無いかといふから、ちっとも差支はおざらぬから、
どうぞ御出下されと言って旅館へ帰ったら、
すぐに春木は遣って来て、いろいろな話をした。

 その頃春木は帰朝早々暗殺に遭ひかかつて間もないので額には創膏薬を貼って居た。


おれは廣澤が帰国するのを見届けて、
 すぐに帰京の途に上る用意をしたが、
この度の使命もまづまづ首尾よく果たして一安心したから、
記念の為にもと、差して居つた短刀を厳島神社に奉納した。

 これは護良親王の御品であつたといひ傳へるのだが、
おれの体も今後どうなるか分からないから、
かたがた実物を安全に保存する策だと思って奉納したのだ。

 併しこの時は神官もおれを何処の馬の骨だかと思ったと見えて、
容易には納めてくれなかつたが、十両の金子を添へて漸く納めて貰った。
 所が今日ではなかなか大切にして居るとかいふ事だ。

 さて帰りにはまた辻の周旋で、撰り抜きの船頭を雇って出帆したが、
高砂の沖で向かうから来る船と衝突して殆ど沈没せうとしたのを、
やつとの事で明石の浜辺へ乗り上げて、
そこから陸を通つて京都へ帰つたが、
出発した日から丁度二十八日か九日目であつた。


帰って見ると、
 留守の中に一体の様子はがらりと一変して居って、

 わざわざ宮島まで談判に行つたの苦心も、何の役に立たなかった。

 併し若しこの時の始末がおれの口から世間へ漏れうものなら、
それこそ幕府の威信は全くなくなってしまふと思って、
おれは謹んで秘密を守って辞職を願い出た。

 するとある老中が中へはいつて周旋してくれた為に、
軍艦繰練専務の役を以て、とうとう江戸へ帰ることになった。
 併しこれが為に幕府の命脈も一年延びた勘定だ。

 こんな風で、表面は長州の人を買つた姿になつたのだけれど、
幾ら怨まれても仕方がない。
 後から彼是云ひ訳などするのはおれの流儀ではないからさ。

 何に、善後策はどうする積りであったとか、それも訳もない事だ。

 おれが京都帰ると直ぐに、
長州へ向けて『其藩事今般朝庭に向け不穏の挙動甚不届に付閉門十日申付ける』
この一通の書付で事足りるのさ。

 おれの流儀は何時もこんな手軽なものだ。
 それから双方覚書でも取り交はしたとか。なに、そんなものはありはしない。

 併し是はおれが一生の失策で、これが為のおれは幕府から嫌疑をうけたのだ。
けれども西郷と品川で談判した時にはおれの流儀は甘く成功したよ。

 其の始末は追々順を立てて、話すこととしやう。
  



最新の画像もっと見る