日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

孫文『三民主義』 著者 序 譯者 序

2021-10-31 19:46:17 | 中国・中国人

  
   

  孫文『三民主義』
 
 
   著 者  序 

 建國方略の心理建設・物質建設、 社會建設の三書が出版された後で。 私は國家建設の著述に取りかかった。所がこの國家建設の一書は前の三書と較べて、内容が非常に廣大で、其内には民族主義,民權主義,民生主義、五權憲法、地方政府,中央政府,外交政策, 國防計畫の八部が含まれて居る。其中の民族主義の一冊だけは既に脫稿し,民權主義 民生主義の二册も草稿の大部が出來、其他の各冊も亦考案が成り,ただ暇を得て筆を下すだけになって居た。然るに測らずも十一年六月十日陳烱明 が離反して觀音山を砲撃し、數年來心血を注いで出來た各種の草稿や、 參考に備へた敷百冊の洋書を、悉く焚かれたのは惜みても餘りあることである。

 こゝに國民黨が組織を改造し,同志が大に新しき奮闘を決心するに當て、三民主義の奥義と五権憲法の要旨を宣傳用として頻りに要求するので,毎週一囘づ、講演して、それを黄昌殺君が筆記し、鄒魯君が 校正することとなった。今旣に民族主義の講演が終ったので,先づ之を単行本として同志に頒つこととした。今回の講演は十分な準備時間がなく•又參考書がなかったため、登壇後随意に述べ立てた關係から、前の草稿に較•べては遺漏の點が多い。版に附する前に訂正増補は加へたが, 本題の精義論述の條理、引證の事實等は遠く從前のものに及ばない。そこで希はくば同志諸君,これを基礎として、更に敷衍し、足らざるを補ひ,修理整然たる一冊の完全なる書籍とし、宣傳の課本として使用したならば,其我民族國家を益すること蓋し少くないと思ふ。

    民國十三年三月三十日
                       廣州大本営にて 孫文序す  

 者 序 

 壊れかゝった支那の封建軍閥に代るペきものは、三民主義か共産か?この問題はここ数年ん盛んに論議された結果、非共産主義者も共産主義者も、今日の支那に共産制度を實行することは不可能であり不利であるという結論に到達した。そこで共産主義者も何時の間にか共産の表看板を外して、國民薰の仮面の下に隠れ、共産革命に至る第一段の目標として、三民主義の國民革命のため、共に精進して居る。
 従て三民主義は新しい支那の行手を示すものとして、支那の津々裏々ま でも行き亘って居る有様で、國民驚員は勿論のこと、カレンダーにも三民主義力レンダーといふのがあり、時計にも孫文肖像入りの懐中畤計が二元か三元かで売られて居る。この頃では小學校の教科書に使ふために、三民主義読本といふのが出來た。これで小供の畤から三民主義を叩き込もうといふのである。
 國民黨の武力は餘り大したものでなく、僅がに廣東一帯を領有して居るるに過ぎないが、全國の學生、労働者の間に有って居る潜在勢力は侮るべからざるものがある。
 殊に最近では某組織がだんだく十八省到る所に拡大されて行くだけでなく、内容も統一され、系統立てられ、勢力集中が行はれて居る。更に最近では農民の間に勢力を扶植することに全力を注いで居る。

 又國民黨は各階級を代表するものであるから、商人團體とも連絡があり、内に於て軍関打破のために國民の全部を動員し、外に向っては反帝國主義を高調5して居る。三民主義がかうして 支那國民の間に強く根を張って居る以上は、支那の將來を知るためには、どうしても三民主義の 何物たるかを究めすには居れない。

 從來三民主義は断片的には傳へられて居たが、纏まったもの は日本では發表されて居ないやうだ。本書は孫文氏の自序にあるやうに、三民主義の宣傳のため氏が最後の著述であって、其死に依て全部完結はして居ないが、三民主義中、最後の民生主義の一-部を殘したのみで、大部は説き盡してあって、三民主義を知るための唯一のものである。

 支那に於ける三民主義の硏究に附随して缺ぐべからざるものは、三民主義と共産主義な関係である。一部では三民主義ご共産主後とは衝突するものでなく、三民主義は共産革命の第一段であると解釈して居るものもあるが、三民主義が共産主義とは本質的に相容れないものである。そ れは共産黨と國民黨共に能く承知して居る。それが國民黨の名の下に三民主義を標榜して居る事 には各々魂膾がある。

 孫文氏が共産派を國民薦に收容したのは、共産派の活動分子を利用するためで、彼れは三民主義の優秀を信じ、最後の勝利に確信を冇って居たため、共産黨の收容を自黨に危險と思はなかっ たのである。
 彼れは共産薰を一の滋養物と考へ、これを消化し得ると思ふたのである。一方共産黨の方では國民黨に侵入し其内部をすつかり共産黨化し、國民黨の身代を利用して支那の共産革命を實行せんとした。丁度日本の講談にある怪猫や柳の精が、或る女に化けたやうにやる積りであった。従って国民黨共産黨を消化し得るか、或いは消化し得ずしてそのために斃れるがは興味ある問題である。

 私は前に共産主義と三民主義は本質的に異って居ると云ったが、然らばどういう点が異なって 居るかといふに、共産主義尾は國際的であり、無産階級の諾歳を主張し、階級闘争を其手段と して居るが、三民主義は國家的であり、各階級の利益を代表し、且つ協調的でる。
 共産黨は社會革命を主張するが、三民主義は斬新的である。ただ政治革命を主張して居る、この点は共産主義とも共通して居る。

 然し更に根本的の相違は共産主義が唯物的でおり、欧州文明の採用であるのに反して、三民主義は方法として欧洲文明を採用するが、精神的には支那固有文明を保存して 居る。即も共産主我の欧洲的革命に對し、支那的の革命を實行せんてして居るのである。孫文氏は云ふ『吾人は西洋の科學の進步に就いては無条件にこれを學ぶが、政治哲學に就いては學ぶことがない。ただ支那固有の政治道徳を復活さすれば宜しいで、寧ろ白人に教ふべきだ』と。 

 東洋と欧米との革命には確かに異なった点がある。西洋の革命は同じ唯物革命に於ける右と左との爭であり、或いは共産と無政府主義、ギギルドや國家社會主主義等方法の差異であるが、東洋に於ける革命には欧米と同じ流れの外に、東洋固有の文化を主體とし、これに欧米の文化を取0入れた其國特有の革命を實行せんとする傾向がある。

 更に行き詰まりを見せて居る東西兩文明の絆を取り、新たなる新文明を造り、これによる革命を斷行して、自國たけでなく世界に向って新しく進むべき道を示さんとして居るものである。孫文氏の三民主義の中にも其閃きは見える。

 私は三民主義に就いてはかなりの意見もあるが、それはこゝで述ぶべもものでなく、たヾ忠實に孫文氏の三民主義を紹介したに過ぎない。原書は約五百頁以上で、それを邦文に譯するときは千頁以上に上るから、私はこれを要譯してこの小冊子とし、然も孫文氏の所論の要点は一つも漏さないやうに努めた積りである。

 本書は嘗て日本讀書協自會報に紹介したものであることを附記して置く。

   大正十五年十月一日
                      長野 朗 識す 

   



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