日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

笠井 孝著『裏から見た支那人』支那人の宗教観

2024-02-22 16:04:38 | 中国・中国人

    笠井 孝著『裏から見た支那人』 




支那人の宗教観 

儒教――経天と天命説――仁義なく忠孝なし
――醜悪の美化――陳平と漢王――弔問の一針
――佛教――現世を楽土――道教は現世教

――一圓か五銭か――功過格――玉皇帝
――荘子の無役無用――老子の三寶――墨子の兼愛 

支那人の心的生活 
 支那人の心的生活を司るものに儒教、道教、佛敎がある。
基督教、回々教、ラマ教などもあるが、基督教以下のものは、餘り大なる関係がないから、
儒、道、佛の三敎に就いて概説しょう。
  
 支那には孔子とか、孟子や老子とか、荘子とか、
昔から有名た道學先生が沢山出て居る。

 これは支那では、古來早くから、哲學的の發達が盛大であっためであり、
殊に周未には孔、孟、老、荘、墨子、烈士など各派の哲学が、
竝び起こると云ふ盛況を、呈したのである。

 その後一進一退はあったが、
支那は思想的には、比較的開化した国であったことは、
爭び難き事實である。

 儒教の如きは、諸士横議、甲論乙駁、その発達が盛大で、
為めに秦の始皇帝の如きは、これをウルさがり、學者を坑にしたことさへあるが、
漢から南北朝や、隋、唐、宋を通じて、為政者、讀書人の間に、
大いに持てはやされたものである。

 また道教は、元来支那人の性格に合した現代主義の教であるが、
佛教の波以後、その刺激を受けて、一脣宗教化して来たのみならす、
今では洽く支那の上下に信頼せられて、世道人心の大半を、支配して居る感がある。

 これに反して佛教は、何となく現世に遠ざかり、
現金主義の支那人には、喜ばれず、寧ろ冷遇されて居るやうに見ええる。

 要するに今では、佛像は骨董屋に葬られ、
孔子廟には、蜘蛛の巣が張って、道教のみが、一般世俗に繁昌して居る観がある。
斯う云った現象からも、支那人なるものの民俗性は、推知されるのである。

儒 教
 儒教は、勧善懲悪の道徳教であって、孝道、敬天、人倫をし喧しく云ふ。
春秋の時代、孔子によって大成され、爾来時の世族救済の爲め利用せられたものである。
週末以來、多くは歴代
の為政者に、治政の方便として推奨せられ、
或いは官吏採用の方式として、百家経書を喧しく云はれた爲め、
學説としては、讀書人の間に相當普及しては居るが、
世俗には餘り實行されては居らぬ。

 これは支那人のやうな現実観念の強いものには、
善悪を説き、道徳を勧めた丈けでは、有難味も、功徳もないので、
欣はれないのが、當然であるからである。

 唯その敬天思想と天命観なはち『何事も天の命なり』とする思想は、
何か支那人の気に人るところがあると見えて、
今尚ほ残って居る。支那人の能く使用する『沒法子』なる一語は、
事件の終結と、断念とを表示する最修の言葉であり、
支那人の天命観から出た諦めの言葉である。

 日本に孔孟の敎が輸入せられて以來、
眞に儒教の眞髄を研究したものは、寧ろ日本である。

 日本人は、正直者で自分の道徳観念を以って、直ちに人を類推する。
従って孔孟の敎も、そのまま、研究し、文字のまま採用して、
支那は仁義の國、忠孝の國なりと尊信したもので、
荻生徂徠のやうな中華崇拝論者が出て来たのも、當然ではあるが、

 私に云はせれば、現代支那には仁義なし、忠孝なし、節婦なし、烈婦なし、
忠信孝悌は口頭禅であり、僞物であると、云ひたい
のである。

 また事實然りであり、支那二十四朝の歴史は、美化された醜悪の連続である。
宋の将に亡びんとするや、二十四郡一人の義士もないかと、
天子は地団駄を踏んで口惜しがったではないか。

 清の将に亡びんとするや、大楼樓の倒れるるを支ふペき袁世凱は、
却って清室に迫ったではないか。
 
 何慮に義があり、何処に忠があるか。
尤も支那人にも、タマには支那人らしくない、出来損ひの支那人がないでもない。
顔眞卿や、文天祥や、岳飛将軍や、南京で籠城した張勲の如きは、
支那人としては、出来損ないの奇形児であり、
出来損ひであり、支那人離れのした支那人であり、
支那人の普通の考へから、飛び離れた存在である。

 この故を以って、支那人の忠孝観は、日本人のそれとは違ふ。
個人主義に終始する支那人の忠は、身を犠牲にして、人に捧ぐる忠ではない。
自己の仕事に熱心なること、すなはち忠實の忠(まめやか)であること、
後に述べる通りである。

 支那で『孝は百行の基』と云ふけれども、
併し支那人の孝行は、祖先に対する奉仕より因果応報の観念や、
迷信から来る利己的の考へ方が多い。

 自己や、子孫の幸福を祈らんが為め、自分の金錢を得んが爲めの祈願かから来る孝であり、
爲政者から、褒められんが為めの忠子、節婦であることが甚だ多い。

 私が斯う云ふと、然らば支那に数多き節婦、烈婦の石碑は、
どうし
たのかと云ふことになるかも知れぬが、
裏面の實相は、随分ヒドいいのがある。

 支那の烈婦には、夫に死別しても、
醜婦で手の出し手がなかったからの烈婦であり、
節婦であることが多く、
中には夫の死後親戚、兄弟が死者の妻を殉死せしめて、
お上より節婦、烈婦の恩賞を受けんが為めに、犠牲にするのやら、
家庭的内争から、毒殺して置きながら、ワザワザ殉死の届出をするものも、少なくないのである。

 尚ほ、前清時代の節婦の碑を見ると、
それが多く官吏の婦女であるのも、一奇とすべしである。
官吏の婦女を、下僚が、烈婦、節婦として上司に推薦したり、
官吏の御機嫌を取る為めに、土地の人民から、上司に表彰を請ふことは、
前清時代に各所で行なはれた習慣であるから、
斯の如く似而非なる烈婦、節婦が、發生したである。

 支那の史實には、美化された歴史の裏がイクラでもある。
某侯の死するや、三子互に位を譲り殯せざること三年、禅譲の極みと褒めて居るが、
實は三子相争うて、殯葬し得なかったのでる。 

 齊の桓公は、死後六十七日、終に屍蟲口より出づるまで、五人の公子達は、
相爭うて父を葬らなかったではないか。
自己の利害の為めには、忠孝も、また顧みらないと云ふのが、實相である。

 儒教で一番喧しく云はれた人倫五常の道が、不思議にも、孔孟の子孫たる漢民族から、
喪なはれて居ることは、何と云ふ皮肉であらうか。

 支那を研究するには、その歴史が、美文を以って粉飾せられ、
醜悪を美化されて居ることを見逃してはならぬ。

 
 資治通鑑、十八史略、三國史、知何に我々日本人の頭に、美しく響いて居ることであるよ。
併し一度支那の實情を知って、再び支那史を紐どいて繙るならば、
そこには見逃し得られない歴史の裏がある。
 
 十八史略に、漢の宰相となった陳平が、賄賂を受けたのを咎められたところがある。
陳平が、友人魏無知の紹介で、漢王に見えて、都尉となったが、内密に諸将の金を受く。

 漢これを無知に責めたとこ
ろが
『王の問ふ所は行なり、臣の言ふ所は能なり。
 尾生、孝己の行ありと雖も、勝敗の数に益なくんば、何の用あらんや』と答へ、

 陳平は『臣裸身にして来る。金品を受けずんば、資となすべきなし。
  臣が計にして採るべきあらば、之を用ひよ。
  若し用ふべきなくんば、金は封じて官に輸し、骸骨を請はん』と答へて居る。 

 實利一點張りで、袖の下を受けても、平然たるところに、
昨今の支那人と、相通ずるものがある
ではないか。

 また斉の桓公に、鮑叔が、管仲を推薦する時に、
管仲は、曾て桓公の莒の道を遮って、これを射たことがあるので、
鮑叔大いに仲を辨護する段がある。

『仲曾て鮑叔と賈し、利を分つに自らを厚ううしたけれども、
 仲は貧乏だから、貪欲とは云へない曾て三度戰って、三度負けたが、
 仲は老母があるから、卑怯とは云へない』と云うて居る。

 父母あるが故に、卑怯とは云へないと云うて、孝を、忠よりも重く見るところに、
日本人と、道義観を異にする、支那人の注目すべき點がある。
 
 かって桓公が、管仲に對し、群臣の中から、誰を宰相にしたら善いかと問答したとを、
易牙は何うだらうかと云ふと、
仲の曰く『子を殺して君にすすめる、これは人情ではない』。

 然らば開方は如何に。
『親に倍いて、君に適ふ、人情にあらす』。
然らば 豎刁は如何に。
『自ら宮してに君に適ふ、人情にあらす、共に近づくべからず』と答へたとある。

 日本人の眠から見れば、崇敬すべき忠道であっても、
支那人はこれを人情にあらずと云ふところあたりは、
日本人の忠孝に對する考へと、全く異ることが分る。

 つまり支那人の忠孝観と、日本人の忠孝観との相違が、ハッキリ分る。
然かもその間人情の機微に、虚世の要領を巧みに挿入して、
文章を以て、悪徳を美化されて居るのを見るであろう。
支那の史實には、この種の例が沢山ある。

 儒教の教訓は、要するに孝が第一ではあるが、忠を否認したのではない。
然も孟子は、匹夫の殺すも聞くも、未だ巨の君を弑するを聞かずと逃げて居るが、
孟子様もナカナカヅルいところがある。
 

 湊民族は歴代、北方蠻族から侵入せられては、負け戰をしながら、
史實には常にこれを美文で、誤魔化し、
北蠻が、支那には臣事したやうに書いて居る。

 支郷歴史を研究するものの注意せねばならぬことであるが、
また漢民族の虚言、虚偽に、平然たる性格と、
負けても面子だけは、棄て切らない彼等の性格を、瞥見することが出来る。

 孔孟の敎は、實利主義の支那人には、確かに頂門の一針であるが、
彼等支那人は、表面にこれを唱えふるも、裏面に毫も實行せないのみならず、
却ってこれを悪用して居る。

 支那人の現金本位の我利々々思想に對して
『義理の辨』を説いても『上下交々利を征すれば國危うし』とまで憤慨し、
また梁の恵王に對て『義理の辨』を説いたこともある。

 董仲舒は、仁人は『其の身を正うして、其の利を計らす』と云って居るが、
支那人には
斯んな仁人は居ないので、勿體ないのだが、
孔孟の教は、多く儀禧用、他所行様、聯盟委員に供覧用となり終った観がある。 

  
佛 教
 支那の中世は、佛教全盛時代であったけれど、
佛教は彼等に取っては餘りに理想的である。

『煩悩を滅却して、無我無心の涅槃に入る』と人る云ふやうなことは、
餘りに哲學めいて、現實的な支那人の心理には合ひつこない。


 現世を苦界として、栄地を十萬憶土の方に求むると云へば、
餘りに現世から遠過ぎて、現金的な支那人には、解しがたいことである。

 更に平たく云へは、佛法は、現世を苦界だと云ふけれども、
支那人に云はせれは、出来るることなら、この世を栄土にしたい。
情欲を抑へて、自我に執著しない位ならば、この世に生れた甲斐がない。
  
 佛教の極楽や、基督の天國は、あるものか疑わしい。
タトヒあっても、餘り待ち遠い。
美しいこの世を捨てて、死んで花見がなるものか。

 この世で情死して、蓮の臺に相乗りしたところで、
それは餘りにも馬鹿らしいことであると考へるのが、支那人である。

 だから末世の坊さん達は、流石に気が利いて居つて、
地獄極楽はこの世にあるのだと愚民を説き、
現に四川の鄧都に行けば、地獄も極楽もあると云うことになつてう居る。

 併し現金主義の支那人には、第一その四川省すら、遠過ぎて特ち切れない。
地獄極楽は目前に欲しいので、
その場で、すぐ因果応報があって欲しいといふのが、支那人の本音である。

 享楽、受益の現代を離れて、
そこには死も、哲學も、未来もないのが、支那人の本心なのである。
 
 儒教が形式に終わって、社會に實用されず、
佛教が、迷信と邪教とに合流したのも、つまりこの辺の消息から出たことである。

『名僧は、豆腐の料理気に人らず』と云った趣きが、無いでもない。


道 教 
 道教は謂はゆる老、荘の教義が、多分に採納せられて、
支那人に相応しい教義となったものである。

 道教の起源は、明らかでない。
後漢の張道陵が、老子を舁ぎ出して、これを開祖に率ったとか、
何かと云ふこともあるが、
要するに一種の通俗教として、洽く漢人種に喜ばれて居る。
 
『我れ一毫を抜いて、天下を利する事あるも、敢て人の為に之を為さず』と云った揚子の独善思潮は、
道教の懐く教義の一つであって、
道教は支那に於ける現実主義、實利主義に、最も徹した教へである。

 佛教のやうに、地獄極楽が、十萬億土の遠方にあつたりするのではなく、
その場のことは、その場限りで解決されるといふ點が、
支那人の思想的欲求にも、能く一致して居るのである。

 支那人が、道教を喜ぶ譯は、色々ある。
道教には攝生の法と云ふのがある。

 不老不死の薬を飲んで、仙人になるとか、
静座長寿、人生を享楽する、房中の術などなど、
近代のエロ、グロに相応しい研究が、支那には、古くから進んで居るが、
道教にもチャンとこの秘術がある。
また因果応報、一善を積めば、一過を償うと云ふような、通俗的勧善生利の説もある。

 以上のやうなことがウマく行なはるれば、
肉體は、その儘不死の神仙となって、鶴に乗って神仙界に行けると云ふやうな迷信やら、
色々な迷想などもあるが、
善いことをすれば、この世で即座に善報があるとか、
今日遣ったことには、明日にも善果が来るとか、
善根を施せば、支那人の希望する長壽、多福、多財、
すなはち福禄壽が直ぐに報いられると云ふやうなことは支那人最も喜ぶことであるが、
道教はこれ等の通俗的支那人心理を巧みに捉へて居るところに、その長所がある。

 要するに道教は、老子、荘子の個人主義、自我主義を、その儘通俗的に取入れたもので、
『明日の一圓より、今日の五錢』が善いと云ふ、
現主主義、實利主義が、その根本をなすものである。

 この辺のところは、如何にも能く支那人の嗜好に、當嵌まって居ると云ふべきである。
 
 そもそも、老子の教えは、基督教と、佛教とをせ合をたやうなもので、
幽玄なる哲學を根として字宙の道を道を説き、時間、空間を超越して、
萬物の一元的實在を云ふところなぞは、新約全書のヨハネ傳を彷彿せしめ、
基督も老子も、畢竟同一體ではあるまいかとさへ思はせるほどである。

 それから佛敎の混淆であるが、
これは道救の説く善悪と、因果応報の過程に、明白に現はれて居る。

 道教では、因果応報は、この世で来るのであるが、
イクラ悪いことをしても、報いの来ない奴は、地獄に行く。

 ところがその地獄も、餘り遠いとこらでは、利目が無いと云ふやうなことになって居る。
 こ
の辺などは、確かに佛教の教へる所と、同一系統に属するものと、考へられる。

 また道敎では、一年中の善悪を、功過と云ふもので決めて、
一年の終わりに、それぞれの總決算をすることになってる。

 例へば人に錢を施せば、善五十點、人のものを盗めば、悪百點。
それも金高によって、一圓を盗めばイクラ、著物を盗めばイクラと云ふやうに、
善悪の點数をつけ、それで年末になると、神様が、總勘定をなさることになって居る。

 そこで何處の家でも、年の暮には、通年(正月を新年と云はない)と云うて、
癒しのお祭をして、各戸各家の竈の紙様が、一年間の功罪を、天帝に報告することになって居る。

 そこでこの日には、神様に飴を供へ爆竹をならす習慣がある。
飴を供へるのは、竈の神様が、天帝のところへ報告に行っても、
飴が歯に箝まって、シャベれないやうにするのださうな。
  
 それから爆竹を鳴らすのは、神様が天帝に報告されても、
天帝の耳に聞えないやうにするのだと云ふにのである。

何處まで現實的であるのか、奥底の知れないところが支那式であり、
神様に飴をネブらせるところなども、振るって居る。 
 
 道教は、春秋戰國の時代を経て、人心漸く内省となり、
何か心に頼るものもがなと、
寂寞と頼りなさ、淋しさを感じた時に、世に擴まったもので、
世道漸く経世至用の學から
遠ざからんとして、
秦皇、漢武のやうな人でも、神仙不老の術を求めたり、
方士を招いて、怪術に耳を傾けるなど、
兎角心の慰安を欲した時代相に投じたから、
存外人心に合したものであると云はれて居る。
 
 道教の教義に老、荘の事やら、その時代の迷信やら、諸説やらを巧みに取人れて、
心の平安と、長生保健の道を説いたのは、
彼の張道陵(後漢順帝の時代)である。

 老、荘の如きも、謂はばこれに利用せられたまでで、
何も老子が、自ら道教の開祖として、祖述した譯ではないのでであるが、
何時の間にか率られて、祖師とか、玉皇帝、神仙などと呼ばれて、
今でも民衆俗教の祖神と思はれて居るのである。

 尚ほ道教と離すべからざるものに鬼神説やら、
風水説やら、支那特有の迷信、信仰どがあるが、
これは別に機會を得て述べることにする。

老子と楊朱と荘子
 支那人の人心を支配するものは、老荘だけではないが、
支那人に個人主體を鼓吹したものは、
この老、荘の説が、與って力がある。

 老子の知きは、末年『關を出で、その落つる所を知らず』と傳とへられて居るが、
老子の仙骨は、『世の中が何んなにならうと、自分の関知の知したことではない』と云ふやうな、
絶對個人本位の態度を、明らかに表示して居る。 

 荘氏に至りては、無用説を称へて、何等世のなかに役立たないものが、
最もよく天命を完うすることが出來る。 
 
 橘(たちばな)、梨の如きは、食用になるが爲めに手折られるけれども、
樗(註、ウルシ科の落葉高木)、櫟の如きは、無用であるから、
天命を完うすることが出来る。

 吾人もまた世に処するには、無役無用であることが、大切であると云って居るが、
荘氏の説、老子楊子とは異る點が多い。

以下老、楊に就いて、少しく達べて見よう。

 老子は、秋時時代、孔子より先きに生れた人であるが、
彼れは自然の道、赤裸々の人たることを説いたので、
一に清浄寡欲を説き、欲望は罪悪邪心の基因である。 
 
二に人爲を去り、天眞であれ、禧法繁くして智智好偽飾あり、
大道廃れて仁義あり、一切の人爲を去りて、自然の純眞を保ち、忠信の人たれ。

 三に自謙の柔徳をへ唱へ、水は卑をに就きて、浄はざるも萬物を利す、
柔よく剛に勝ると、驕慢を排斥し、
消極に謙徳の重んずベきを教へたが、
『我に三寶あり、一、慈、二、儉、三、不敢為天下先』と云って、
寡欲、天眞、自謙の線合を説いて居る。

 この内で、柔徳、無抵抗主義の如きは、消極一途のものと見られ易いため、
却って後人から、謬って見られた鮎もある。
 
 荘子は、老子のことを至人、眞人などと云って、これを神仙化し、
後漢の張道陵に至りては老子を神仙三尊の一に祀り上げ、
トウトウ、道教の祖神に舁ぎ上げたのである。

 楊朱(楊子)の説は、老子の獨善、獨全思想、自然思想の足らざる他の半面を補うたもので、
その説を補充したものである。

『禧文虚偽をカナぐり棄てよ、仁者必らずしも壽ならず、義者必らすしも富ます』
『實に名なく、名に實なし、名とは偽のみ』
『得難き人生を、名誉や、富貴に空費するのは愚である。
宜しく自然欲に盾ひて、悦楽すべし』と云ふのが、
その根本である。

 掲朱は、他人のめに、一毛を抜くことを欲せず、
天下の物を盡して我れに奉ずるも、
自己を束縛するものは、我れ之を採らずと云ったのは、  
有名な話であるが、彼れが個人の利己的享楽主義を、
能くまで透徹せしめようとしたこの態度は、
墨子などの犠牲的奉他思想と、兩立しない鮎がある。

 これを討究するには、
楊朱と、墨子の弟子禽子との対談を、對談を、述べるのが捷徑であらう。

 禽子曰く『アナタの一毛を被いて、一世を済むべくん如何に』。
 楊朱曰く『世は固より一毛の能く済ふとこらにあらず』。
     『「済へたとしたら如何に』と遣ったところが、楊朱応へず。

 禽子出でてこれを孟孫陽に語る。
そこで猛がヒヤヒかして曰く
『子、夫子の心に達せざるなり。若(なんじ)の肌膚をして、
   萬金を獲るとしたら如何に』。

 禽子曰く『我之を爲さん』。
孟孫楊『若の一節を断ちて、一國を得るとしたら如何』。禽子黙然たり。
孟の曰く『一毛は肌膚より微に、肌膚は一節より微なること省(あきらか)なり。

 一毛は固より一體萬分中の一ではないか、
禽子が困って仕舞って 
『何と答へて善いか分らないが、子の説は、老聘(老子)、
關子(西蘭の尹喜びは老子隠遁の際老子に道を求めた人、)に聞けば分るだらうし、

 私の説は大禹、墨翟(墨子)に聞けば、分かるだろう』と答へて、
別れたさうであるが、
この問答は、楊子と、墨子の思想の違いを示して居る。

 支那人仲間では、その社会状態から、個人的的科己的心理が、昔から發達し過ぎて居たし、
これを助長し、これに理屈づけたものは、老荘の學と、道教あたりの俗教が、
やはり多くの責任がある。

墨子の兼愛説
 老楊の個人主義と対立するものに、墨子の兼愛説がある。

 墨子(墨翟)の兼愛説は、彼れ自から云ふが知く、
利己主義、實利主義の時弊を救済せんが為めの、
對症薬と考へられたのでもあらうが、
この教義は、他人の親を視ること、我が親の知く、
他人の身を視ること、我が身の如く兼ね相愛し、
兼ね相利すると云ふ、平等無差別を、強調するところにあり。

 學事の根拠を理論に措かす、天神、天意を採用し、
鬼神の存在を信じて『上は天を尊び、中は鬼神に事へ、下は人を愛す』と、
古賢の事蹟よ帰納して、宗教的信念によって、兼愛公利を図ったのである。

 ところが徹底的に個人主義である支那人仲間に、
この説が實行される筈はないので、
却って彼の唱へた非戰的平和主張のみが、
支那人一部の人心を支配して居るのみで、
昨今の支那に兼愛なるものはない。
  


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