日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

菊池寛著『二千六百年史抄』奈良時代の文化と仏教~平安時代   

2024-05-18 23:58:37 | 歴史上の人物


    菊池寛著『二千六百年史抄』 

目次

   序  
    神武天皇の御創業 
    皇威の海外発展と支那文化の伝来   
    氏族制度と祭政一致


   聖徳太子と中大兄皇子  
   奈良時代の文化と仏教  
   平安時代  

    院政と武士の擡頭 
    鎌倉幕府と元寇   
    建武中興  
    吉野時代 
    足利時代と海外発展  
    戦国時代 
    信長、秀吉、家康 
    鎖国 
    江戸幕府の構成    
    尊皇思想の勃興  
    国学の興隆 
    江戸幕府の衰亡 
    勤皇思想の勃興  
    勤皇志士と薩長同盟  
    明治維新と国体観念  
    廃藩置県と征韓論 
    立憲政治  
    日露戦争以後


 

聖徳太子と中大兄皇子  


 上代に於けるわが日本国家の基礎を堅め、国民をして文化生活の恵沢に浴せしめた偉大なお二方(ふたかた)がある。
それは、聖徳太子と中大兄皇子(なかのおほえのわうじ)である。
  
 聖徳太子は、天成の御英才を以て、第三十三代推古天皇の摂政となり給うたが、
仏教思想と共に、鋭意隋唐の文物諸制度を輸入することに努力し給うた。


 是より先、欽明天皇の御代に伝へられた仏教に就いて、
崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏、中臣氏との間に凄じい争闘が展開した
  
 これは、仏教についての争ひといふよりは、氏族制度の弊害として、
段々強大になつた各氏族の巨頭が、各自権勢を専らにしようとして、
仏教の採否を廻(めぐ)つて、争つたと云うてもよいのである。


 が、聖徳太子の仏教御信仰は、崇仏派の勝利を決定的にし、
以後仏教は、広くわが国土に流布し、わが国民文化の発達に、精神的にも、物質的にも、多大の寄与をしたのである。

 
 推古天皇の二年に仏教興隆の詔が発せられ、
聖徳太子は、四天王寺、法隆寺、中宮寺、蜂岡寺(はちをかでら)などを建立された。

 当時の仏寺は、信仰の道場だけではなく、四天王寺の如きは、外交上の儀式にも用ゐられたし、学校でもあり、
又寺内に、悲田院(ひでんゐん)、療病院、施薬院があつて、社会事業的施設でもあつたのである。


 太子は、仏教の興隆を図られると共に、
仏寺の建立に附随する建築、絵画、彫刻、鋳金などの美術工芸などを奨励された。
されば、大工左官などの間に、太子が今もなほ守護神として崇敬されてゐるのを見ても、
太子の御遺徳の一端が、うかゞはれるわけである。


 又、太子は、推古天皇の十一年に十二階より成る冠位を定め給うた。
それまで、勢力のある氏族に属してゐないと、高い位置に上れなかつたが、
冠位の制定に依つて、人々は、才能に依つて、立身する道が開かれた。
十二年には、支那の暦を用ゐ、同年に十七条の憲法を制定された。


 これは、文章となつたわが国最初の法典であり、
仏教と儒教に基づいた道徳律でもあり、官民心得でもあるが、
その大意は、次の通りである。

 一、和を貴び、相争ふな。
 二、篤(あつ)く仏法を敬へ。
 三、詔(みことのり)は謹しんで承(う)けよ。
 四、群臣は礼を重んぜよ。
 五、私慾を棄て、訴訟を裁け。
 六、悪を匡(たゞ)し、善を勧めよ。
 七、官職は人を得なければならぬ。
 八、群臣百官は早く朝廷に上り、遅く退け。
 九、信は、義の本である。万事に信であれ。
 十、寛大であれ。
 十一、賞罰を明らかにせよ。
 十二、国に二君なく民に両主なし。国中の万民は、皆天皇を主とする。
    役人が勝手に人民から税を取り立てるのは不法である。
 十三、役人は、自分の任務をよくわきまへて遂行せよ。
 十四、役人は、互に嫉視反目するな。
 十五、私事を忘れて、公事につくのが臣たるの道である。
 十六、民を使役するには時を考へよ。
 十七、大事を決するには、衆と議せよ。


 第十二条の「国中の万民は、天皇を主とする」の一条は、
当時の大氏族の長が、人民を私有することを戒められたのである。

   
 太子は、内治に御心を用ゐられたばかりでなく、
欽明天皇の御世に亡(ほろ)んだ任那(みまな)日本府を復興せんとし、屡々新羅(しらぎ)を御征討になつたし、
又推古天皇の十五年小野妹子(おののいもこ)を隋に遣はされて対等の国際的関係を結ばれ、
(つ)いで高向玄理(たかむくのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしやうあん)などの留学生を送られたことも亦、著名な事件である。


 又、太子は始めて国史編纂の業を起され、天皇記、国記を編まれ、
その間に、卓抜なる御見識を以て仏典の註釈を完成された。
それが三経義疏(さんぎやうぎしよ)と呼ばれてゐるものである。

  
 十七条の憲法も、太子の御自作であるが、
詩経、書経、易など支那の古書を引用して書かれた漢文で、
わが国の漢文では最古のものであり、かつ御名文である。

  
 太子は、推古天皇の三十年に薨去されたが、
天皇をはじめ奉り、全国民に至るまで「日月輝(ひかり)を失ひ、天地既に崩れぬべし」と、嘆いたと云はれる。

 太子は、日本が生んだ偉大なる宗教家であり、政治家であり、
同時に日本文化の偉大なる建設者だと申上げてもよいであらう。

   
 この聖徳太子の御精神と御事業を継承して、大化の改新を断行されたのが、中大兄皇子である。
   
 是より先、氏族制度の頽廃の結果として、大氏族の長が、広大なる土地人民を私有し、
権勢を専らにせんとするものが生じてゐた。

 が、その内、大伴氏、物部氏は失脚して、蘇我氏のみが、強大なる勢力を擁してゐた。
蘇我馬子(そがのうまこ)は、太子と共に仏教の樹立に当つたのであるが、
太子もその強大を憎み給うたが、これを退くるに至らずして、世を終り給うた。

  
 馬子(うまこ)は、太子の御英明の前に、雌伏してゐる外なかつたが、
太子薨去後、その野心を現はし、不臣の振舞多く、
その子蝦夷(えみし)、孫入鹿(いるか)に至つては、馬子以上に専横を極め、
当然皇位に即(つ)き給ふべき御方である聖徳太子の御子たる山背大兄王(やましろのおほえわう)を斥け奉り、
入鹿は遂に大兄王の御即位は、蘇我氏の滅亡を意味するものと考へ、
皇極天皇の二年大兄王を襲ひ奉つた。
   
 王は、一度は生駒山に逃れ給うたが、
「自分は今、兵を起して入鹿を討つならば勝てるだらうが、
一身のため、人民を傷つけたくない。わが身は入鹿にやらう」と仰せられ、
一族の方々と御一緒に、御自殺になつた。

 が、蘇我氏のかゝる不臣が許されるわけはなく、
御英邁なる中大兄皇子を中心とする中臣鎌子(かまこ)(後の藤原鎌足)、蘇我倉山田(くらやまだ)石川麻呂、佐伯子麻呂(さへぎのこまろ)等の活躍に依つて、
皇極天皇の四年六月、入鹿は大極殿に於て、誅戮(ちゆうりく)を受けたのである。
    
 皇極天皇は、蘇我氏が滅んだ翌日、皇位を中大兄皇子に譲り給はうとしたが、
皇子は叔父君たる軽皇子(かるのみこ)を皇位に即け奉られた。
これが、三十六代孝徳(かうとく)天皇である。初めて、年号を立て、大化元年とされた。


 そして、皇子は皇太子として、中臣鎌足と共に、政治の改新に当り給うた。


 それまでの日本の政治は、臣(おみ)、連(むらじ)、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)など、
勢力のある氏の長(をさ)が、土地人民を私有してゐたので、
天皇は、氏の長を率ゐて居られるだけで、直接の御領地以外は、
人民全体から、税なども、お取り立てになることはなかつたのである。


 だから、臣、連など云はれる勢力のある氏の長は、土地人民を私有し、勢力を養ひ、
遂に蘇我氏の如く国政を紊(みだ)すものが生ずるに至つたのである。


 されば、大化の改新の一大眼目は、これらの氏の長の私有してゐた土地人民を悉く皇室に返上させ、
凡てを公地公民とし、天皇たゞ御一人が、君主として、支配されるやうにすることだつた。


 それと同時に、新たに戸籍を作つて、公民の数を調べ、男女老幼に応じ、田地を分配し、
六年毎に調べ直して、死んだ者の土地は朝廷に収め、生れて六歳になつた者には、之を与へる法が設けられた。
これが、班田収授(はんでんしうじゆ)の法である。


 また八省百官の制を設け、地方に於ける国造、県主の世襲を禁じ、
新たに国司郡司を命じ、期限的に交替させることにした。


 又、聖徳太子の制定になつた十二階の冠に、改正を加へて、
最高の大織冠(たいしよくくわん)から最低の立身冠(りつしんくわん)まで、十九階として、
血統や家柄に依ることなく、官位を授けられた。


 中大兄皇子は、後に第三十八代天智天皇とならせ給うたが、
新政のために、新らしき都を選ばれる意味で、近江の志賀に都し給うた。
これが大津ノ宮である。

   
 鎌足は、天智天皇の仰せに依つて法令を制定した。近江令であり、
その中に定められてゐる官制や諸制度は、爾来千二百年間、明治十八年迄、用ゐられてゐたのである。
 
 明治維新の革新と並んで、日本の二大革新である大化の改新は、中大兄皇子に依つて成し遂げられたのである。

  
 当時としては、思ひ切つた改新であるから、大氏族や守旧派の反対は、さぞかし猛烈であつたらうと想像されるが、
それを押し切つての御断行は、一に、天皇の御英明に依るものだと思はれるのである。
  

* 欽明天皇の十三年(皇紀1212、西暦552年)百済の聖明王が、
 特使を我国に遣はして、仏像や経論を献じて来た。

  天皇は、百済王の上表を聴召(きこしめ)して、諸臣に勅して、仏教信仰の可否を諮(はか)り給うた。
 朝臣の内、物部氏・中臣氏は排仏を主張し、蘇我氏は崇仏を主張した。
  
 その理由とする所は、
 「一は我が国には古来神道があり天神地祇を祭つてあるから、
   蕃神を祭れば、神の怒りに触れる」と云ふのであり、
  一は、「他国が既に仏像を礼拝してゐるのに、我が国独り反対する要はない」と云ふのであつた。
  一は、守旧的な保守的思想であり、
  一は、開放的な進歩思想であつた。


 それは、中臣氏は、代々神祇祭祀を掌(つかさど)る家柄であり、物部氏は、代々武将であり、
これに反して、蘇我氏は、先祖武内宿禰(すくね)以来韓土と交渉を持ち、代々外交を司(つかさど)る家柄であつたから、
この対立が出て来たのであらう。


   奈良時代の文化と仏教

 

 第43代元明(げんみやう)天皇の御代、武蔵国秩父郡(ちゝぶのこほり)より和銅を献上せるものあり、
依って年号を和銅と改められたが、
その3年、都を大和の藤原京より平城京(奈良)に遷された。

 以後七代の間、光仁天皇迄、この地に都し給ひ、上古よりの歴代遷都の風が止んだ。
これは、唐の都城制が輸入せられ、政治と経済の中心が一元化し、住民も多く集り、
皇都は一大都会となり、遷都が容易でなくなったからである。

 

 此の時代初期の重要なる史実は、銭貨の鋳造と、国史及び風土記の撰修であらう。

 武蔵国よりの和銅献上に依つて、和銅と改元せられると共に、
鋳銭司(ちうせんし)を置いて、初めて銅銭を鋳せしめられたのが、和同開珎(かいほう)である。
  
 上古は、物々交換で、その方法も割合便利であったので、
国民の多数には銭貨の重要さが認められなかった。

 そこで朝廷では、田の売買には必ず銭貨を用ゐしめられ、
銭七貫以上を蓄ふるものは、初位に叙するなど、銭貨使用を奨励せられたのである。

 

 又和銅4年(711年)には、
勅命を承けて太安万侶(おほのやすまろ)が、稗田阿礼(ひえだのあれ)の口授に依つて、古事記を筆録し、
翌年これを完成して上(たてまつ)り、
又、元正(げんしやう)天皇の御代には、舎人親王(とねりしんわう)が勅を奉じて、日本書紀を撰せられてゐる。

 

 是より先、天武天皇は、わが国の古伝の保存及び国史の編纂に大御心を注がせられ、
天皇おん自ら旧辞(きうじ)を稗田阿礼に勅語したまうたとあるから、
さうした御苦心が、古事記となつて実を結んだわけである。

  

 古事記は、漢字の音と訓とを交ぜ用ゐて、記されたものであるが、
日本書紀は、全く漢文に依つて書かれてゐる。
その書名に「日本」なる字を用ゐられた点より考へて、
当時の朝鮮及び唐に対して、独立国家たる威容を示すための修史であったのであらう。


 又、元明天皇は和銅6年(713年)、諸国に勅して、国、郡、郷、里の名は好字を選んで2字を定めしめられると共に、
それ/″\地方の物産、地勢、伝説を記して差出さしめられた。

 いはゆる風土記であって、その内、出雲風土記(完本)、播磨風土記、常陸風土記などが残つてゐる。
 かやうに、国史地誌の編纂が行はれた事は、わが国民の国家意識を高め、愛国心を培(つちか)つたことであらう。

 記紀、風土記の編述と共に、忘れてならないのは「万葉集」の存在であらう。

 その撰者は、橘諸兄(たちばなのもろえ)と云ひ、大伴家持(おほとものやかもち)と云はれ、明確ではないが、
長歌短歌およそ4500首、上は天皇より下は庶人に至るまで、あらゆる階級の人を含み、
宮廷歌集であると共に、民謡集である点に於て、わが国民の一大家族性を示した和歌集たるの観がある。


 その中には、上代国民の剛健素朴な日常生活や、純真無垢な忠君の精神や、
天真無縫の感情生活が脈々として流れてゐるのである。
「古代日本人を知らんと欲せば万葉集を読め」と云ひたいくらゐである。
現代の活字本の万葉集は、甚だ読み易くなった。何人も一読すべきだと思ふ。

 

 奈良時代は、大化改新後に於けるわが国の統一国家としての活動期であるが、
第45代聖武天皇の御代に至つて、その文化は「咲く花の匂ふが如く」燦然と光りかゞやいたのである。
 

 美術史では、この御代を天平期と名づけ、第一の黄金時代としてゐる。

 唐より伝来の文化と、仏教の興隆とにより、美術工芸は非常なる発達を遂げ、
単なる唐の模倣でない、新らしい芸術を産んでゐるのである。

 

 殊に彫刻は、前時代の生硬な技法を脱し、流麗典雅な手法を以て、あらゆる材料を駆使して、幾多の傑作を残してゐる。
東大寺の大仏、同じく銅(あかがね)燈籠扉のレリーフ、法華堂(三月堂)の諸仏像、当麻寺(たいまでら)の諸像、法隆寺の九面観音像、その他、優にエヂプト、ギリシャの彫刻にも匹敵するものが多いのである。

 

 建築に於ても、東大寺の法華堂、法隆寺東院の夢殿、新薬師寺、正倉院その他が、当時の俤(おもかげ)を伝へてゐる。
唐招提寺の金堂は、当時は第3流程度であつたと云はれるが、
現在では古今の傑作と嘆称されるのだから、当時いかに壮麗なる寺院、宮殿が多かつたかが想像されるのである。

 

 又、奈良に現存せる正倉院は、聖武天皇の御遺物を初め、当時の家具、楽器、武具、装飾品等三千点を、
千数百年後の今日まで、その儘伝へてゐるが、わが国工芸品の粋を集めてゐるばかりでなく、
唐、西域、印度、ペルシャ、東ローマあたりの品物まで網羅され、
その立派さは、世界に比を見ないと云ってもよいくらゐだ。

 

 かうしたわが国文化の発達は、仏教の好影響であるが、一方仏教流布に伴ふ悪影響もあつたのである。

 聖武天皇は仏教に依って、国家を治めようと思召し、天下泰平、国土安穏(あんのん)を祈らせ給うて、
国毎に国分寺を建てられ、総国分寺として奈良の東大寺を建立された。その本尊がいはゆる奈良の大仏である。

 

 皇后光明皇后も亦御信仰深く、
その御信仰に依る社会事業に、おん自ら活躍された事は、いろ/\の伝説さへ残つてゐるくらゐだ。

 

 が、かうした朝廷の仏教御信仰に依って、僧侶の位置は向上し、
上下の尊信厚きに誇り、遂には僧侶の分を忘れ、政治に関与せんとする者をも輩出した。

 その巨魁は、弓削道鏡(ゆげのだうきやう)である。
道鏡は、称徳(しようとく)天皇の御信頼に依って太政大臣禅師よりすゝんで法王の位を授けられ、
遂に皇位に対して、非望を懐(いだ)いたと云はれる。

 

 が、妖雲が、天日を掩(おほ)はんとするとき、却って天日の光が、冴え渡るやうに、
和気清麻呂(わけのきよまろ)が、
宇佐八幡から、
「我が国家開闢(かいびやく)より以来(このかた)、君臣の分定まりぬ。
 臣を以て君と為(す)ること未(いま)だ之(こ)れ有(あ)らざるなり。
 天(あま)ツ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(はらひのぞ)くべし。」 

 と神託を受け、奏上したことは、当時儒教思想や仏教思想の伝来に依って、多少の影響を受けてゐたかとも想像される、
わが国体観念の確立に対する一大声明であって、爾後非望の輩が、長く根絶するに至ったことは、誠に欣ばしいことである。

 

   平安時代     
 紀元1454年(西暦794年)、第50代桓武天皇は、山城国葛野(かどの)郡宇太野(うだの)に都を奠(さだ)められた。
これが平安京、現在の京都である。
左右両京の制、条坊の区劃などは、広大なること奈良以上である。
今の京都は、左京から東部と北部とに発展したのである。

 爾来、平安京は明治元年(1868年)まで、1075年間の帝都であり、
源頼朝が幕府を開くまで、凡そ400年間政治の中心であったので、その間を平安時代と云ふのである。

 

 平安京への遷都は、国運の進展に伴ひ、交通至便な土地を求められた意味もあるが、
奈良時代末期に於ける仏教の政治に及ぼす弊害を避けられる意味もあつたと云はれる。

 

 されば、桓武天皇は、仏教の改革に御心を用ゐられてゐたが、あたかもよし、
この時代に空海(弘法大師)最澄(さいちよう)(伝教大師)の二傑僧が現はれ、仏教自身、その宿弊を一掃した。

 最澄も空海も、政権の地を離れて、山林の地にその本寺を置いたことと、
仏教と日本固有の神祇崇拝との調和を図ったことと、
また彼等の創始した天台宗及び真言宗が、必ずしも唐土伝来のものでなく、
日本人的思索が、十分加味せられてゐた点に於て、この二人は日本仏教の危機を救ひ、
その宗教的基礎を確立した人と云ってもよい。

  

 たゞ叡山は、あまりに京都に近かったため、以後屡々政争の渦中に入ったことは、やむを得ないことだった。

 空海は、宗教界の偉人であるばかりでなく、
わづか1年9箇月余の唐土留学に於て、絵画、彫刻、詩文、書法、音韻学、医道、薬物、その他土木、造筆、製墨、製紙の諸技術など、あらゆる唐土文化の芸能技術を習得して伝来した点に於て、
その才能努力は殆んど超人的である。

 弘法大師について、いろ/\の奇蹟が伝はつてゐるのは、その功績に対する当時の讃嘆から生れたものであらう。

 

 平安時代の初期に於て、その武功の伝ふべきは、坂上田村麻呂(さかのうへのたむらまろ)であらう。

 延暦16年(797年)、田村麻呂を征夷大将軍として、東北の蝦夷(えぞ)(アイヌ)を征せしめられたが、
田村麻呂の武威は精悍な蝦夷を各地に破り、胆沢城(いざはじょう)(岩手市南部)、志波城(しばじょう)(盛岡県南方)を築いて、大いに皇威を輝かした。

 以後多少の波瀾はあったが、平安の基(もとゐ)こゝに定まり、
史上に殆んど蝦夷の名を止めないところを見ても、その武功を想見することが出来る。


 平安時代の御世に於て、第60代醍醐天皇、第62代村上天皇は、英明の質を以て、親しく政(まつりごと)を聞し召され、
御世は泰平で文化はいよ/\栄えた。
世に、延喜、天暦の治(ち)と申し上げるのであるが、この頃漸く萌したのは、藤原氏の横暴であった。


 大化改新の功臣たる藤原鎌足の子孫が、朝廷に勢力を占むるは、当然の勢ひではあらうが、
彼等は他の名門、旧家を排斥し、皇室の外戚として、摂政関白、その他の高位高官を独占する傾向を生じてゐた。
橘広相(たちばなのひろみ)(註)、菅原道真、橘逸勢(たちばなのはやなり)などは、藤原氏専制の犠牲者の最も大なるものである。

 

 藤原道長の如きは、一條、三條、後一條天皇の御代、30余年にわたつて、政治の最高枢機に与(あづか)り、
その子、頼通(よりみち)も、父についで、摂政または関白たること50余年であった。


 かうした藤原氏の政権壟断(ろうだん)は、やがて平清盛の模倣するところとなり、
ひいては、源頼朝の幕府思想の萌芽となつたのではあるまいか。
その点に於て、藤原氏罪有りと思はれる。

 

 聖徳太子の飛鳥時代以来、平安初期にかけての支那文物の渡来は、
(おびたゞ)しいものがあり、日本の美術、工芸、文物制度は、
殆んど唐に劣らない程度に達してゐたのではないかと思はれる。

 されば、宇多天皇の寛平6年に、菅原道真が遣唐大使に任ぜらるゝや、
道真は、唐が既に衰世であり、危険なる航海を冒してまで、彼の文化を輸入する必要がないことを奏上して、
遣唐使は爾後長く廃止になった。


 支那の文化は、その後、それほど発達してゐたわけでもないから、
この遣唐使の廃止は、かへって時宜的であつて、支那よりの影響が中断したため、
支那伝来の文化は、以後いよ/\日本化され、わが国独得の文化を産むに至ったのである。


 唐風を真似てゐた住宅、衣服等も、日本化して行ったし、
漢文学の盛んであったため、国語を写すにも漢字を用ゐてゐた習慣が打破され、
誰発明するともなく、平仮名や片仮名が自然に案出され、短歌、ひいては国文学の発達を促した。   


「古今和歌集」、「後撰和歌集」に依って、男女の歌人が輩出したし、
国文学に於ては、清少納言の「枕草子」、紫式部の「源氏物語」などが出た。


 源氏物語は、欧洲に於ける写実小説の元祖であるボッカチオの「十日物語(デカメロン)」よりも、
尚ほ350年前に書かれて居り、支那小説「水滸伝」よりも、一世紀先に書かれてゐる。

 その他「土佐日記」、「伊勢物語」、「竹取物語」、「今昔物語」など注目すべき作品は頗る多い。
 又、漢文学に於ても、菅原道真、紀長谷雄(きのはせを)、三善清行(みよしきよゆき)などは、
支那人に劣らないくらゐ、立派な漢文を書いてゐる。

 書道に於ても、空海、道真と、次第に唐風を捨てて日本風となり、道風(どうふう)に至って、
上代風といふわが国独得の書風が完成された。  

 一方、草仮名(そうがな)といつて草書を思ひ切つて崩した平仮名が出来、日本独得の美術的な書体を作った。
 建築も、彫刻も良く、日本趣味のものとなった絵画も、
巨勢金岡(こせのかなをか)が、宗教と離れ、倭絵(やまとゑ)を創始した。
更に、藤原基光(もとみつ)が、最も日本的な土佐派を起した。 

 又、刀剣鍛冶(かぢ)も、唐伝来の技術を多少受けたかも知れないが、
早くも世界独得の日本刀を造り始めた。
 備前鍛冶(びぜんかぢ)、三條小鍛冶(こかぢ)などがそれである。

 又、官制の上に於ても国司の治績を監督する勘解由使(かげゆし)
宮中に於ける機密の文書を司る蔵人所(くらうどどころ)、京都の治安裁判に当る検非違使(けびゐし)など、
大宝令にない純日本的な職制が設けられたことも、此の時代に於てである。

 

 (註)
  道真の著書には、「三代実録」、「菅家文草」、「菅家詩集」、「新撰万葉集」、「類聚国史」等の編著があり、
  何れも、彼の非凡な学識才能を窺ふことが出来る。
  中でも、「類聚国史」の如きは、我史学史の中でも最も重要な名著であり、
  且つ、道真の醇乎たる国体観を知ることが出来る。