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教区研修旅行③

 続いて掛川城について記します。掛川城は「東海の名城」と呼ばれて、戦国時代の典型的な拠点としての役割を持つ城として機能してきました。日本一、城主が入れ替わったことでも知られています。城跡のあちこちに、大河ドラマ宣伝の横断幕や幡がはためいていました。

 築城は今川家によってなされた。桶狭間で信長に敗れた後も、子の氏真は武田、徳川らに攻められながらも駿府周辺にいて、桶狭間から9年後に、ここ掛川城を家康に包囲されて、和議降伏をしたと伝えられている。別名「雲霧城」と言われるのは、天守閣下に、深さ30メートルを超える「霧吹きの井戸」と呼ばれる城内井戸としては日本最大級の井戸(現存)があり、家康攻めのときに、この井戸から出た霧が城を覆い、攻撃を防いだことに因るという。

 やがて、小田原城攻めにより秀吉の天下統一が成ると、家康は関東に国替えとなり、関東と関西の間の拠点の地には、秀吉の重臣が配置された。当掛川城には、今年の大河ドラマの山内一豊が配された。一豊は、次々と城郭と城下町を整備して、コンパクトでありながら、守りにも強く機能的な戦国の名城を構築し、各城のモデルになったと言われている。
         
 秀吉の死後、豊臣と家康との天下を二分する選択で、一豊は家康方につき、関が原の戦いで出陣の折には、徳川軍に城を開放して全面的な支援を表明した。これによって、豊臣古来の家臣は東軍味方の決断をしたとも言われ、東軍勝利の貢献者と評価された。この一豊の決断は、千代のアドバイスであったとも言われ、内助の功伝説の要因となったとされている。
 実際、家康によって一豊は、土佐24万石の大大名となった。高知城築城にも、掛川のノウハウが導入され、似た作りになっているとも・・・。また、現在も有名な高知の酒造会社の先祖が掛川出身であることも、密接な関係を裏付けてくれている。
 
天守閣は10年ほど前に、当時を再現するかのように、木造で復元されている。天守閣から見る市内は360度のパノラマ。当時も絶景の場所であったことであろう。富士山も綺麗に見えるそうだが、あいにく雲で隠れてしまっていた。

 歴史好きの私にとっては、おおいにロマンをかきたてられるところでした。個人的には四国に行ったことが無いので、是非とも機会があったら高知城を見て、検証してみたいものだと思いました。それにしても、重要な決断の良きアドバイザー、たのもしい限りですね。

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コメント
 
 
 
3~5日で (kenryu)
2006-04-27 07:33:39
こんにちは、4月末なのにこちらは寒いです。

M師の長男・次男が揃って瑞世だそうです。

こちらへは三人で来県しE寺で宿泊。4日朝に瑞世し、その足で彼が米原まで送り届け、本人たちだけ新幹線に乗せ、自身は自家用車で入るようです。5日朝には帰路につく予定だと言っています。
 
 
 
→kenryu兄 (tera)
2006-04-27 09:33:18
予定有難うございます。相変わらず緻密な計画ですね。米原は、私との待ち合わせでも使っていますし、土地勘があるのですね(笑)。

ということは、S寺に4日宿泊の5日早朝瑞世ということですね。帰りに寄るのですね。楽しみです。
 
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