goo

教区研修旅行②

続いて静岡の記事です。今回の研修では、寺院の他に史跡も訪れました。十数年ぶりに訪れた登呂遺跡と、戦国の名城、掛川城です。

 登呂遺跡は、弥生時代の住居跡として教科書で学ぶ代表的な遺跡でしたが、それは早くから発掘されたからでして、現在では、ここ以上の遺跡が数多く発掘されています。
もともと、昭和18年に、軍需施設建設にあたって見つかったもののようです。本格的に調査した昭和22年に竪穴式住居の様子、水田の稲作の跡がわかる画期的な発見であったのです。この時、日本は戦後の混乱の中でしたが、国民の明るい希望への三大出来事のうちの一つであったと言えます。
   ①フジヤマのトビウオ、水泳陣の活躍
   ②湯川秀樹、ノーベル賞受賞
   ③登呂遺跡発見
 現在もなお、調査保存の活動が続けられているそうです。水田は、当時の赤米が栽培され、除草剤の代わりにカモが飼育されていました。蓮華の花も美しく咲いていました。
 
上の左のアップ写真は、いつも綺麗なフォトブログで情報を提供いただいておりますkamenoさんが、私のカメラで撮ってくれたものです。流石に機器ではなくてセンスなのだと脱帽しました。kamenoさんは、多くのフォトコンテストで受賞されています。
 
 現在、住居跡としては、青森の三内丸山遺跡が五千年も前のものとして平成9年に発掘されていますし、弥生時代の大掛かりな集落としてこの登呂遺跡をはるかにしのぐものとして佐賀県の吉野ヶ里遺跡が平成2年に明らかになっています。また、紀元前1000年とも言われる日本最古の水田として、佐賀県の菜畑遺跡が昭和55年に発掘されています。昨年は、鹿児島の水迫遺跡で縄文時代の竪穴式住居跡が見つかっています。
 私の住む近くの地下鉄路線工事の折には、登呂で見たものと同様な、竪穴住居跡がはっきり見えて、弥生式土器までが埋まっているのを目の当たりにしているだけに、この種の発見は全国規模で行われているものと思われますし、今後も様々な発見があるでしょう。
 しか~し、この登呂遺跡によって弥生人の知恵と勇気に励まされ、日本人に与えたインパクトが大きいことを、この現地で再認識しました。

コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
« 教区研修旅行① 教区研修旅行③ »
 
コメント
 
 
 
お疲れ (kenryu)
2006-04-26 09:20:42
こんにちは。研修旅行お疲れさまでした。登呂遺跡、かつて一度訪れたことがありますが、周辺が開発され、現地を探し当てるのに四苦八苦したことを思い出します。現在は案内板等が整備されているのでしょうね。

先週土曜日、臨寺の60歳代前半の和尚さんが、交通事故で急逝、月・火曜で大夜・本葬儀となり、知客兼都管でこの4日間があっという間に過ぎました。祖山の授戒会中で、貴師のご子息にも一瞬だけお会いできましたが、そこの随喜寺院、全国から法友が駆けつけてんてこ舞い。大遠忌の部長も一緒に勤め、当時の行者も裏方に力を発揮、無事送りました。やれやれ・・・。元気の良い豪放磊落、酒豪の和尚、無常とは言え、寂しい限りです。
 
 
 
登呂遺跡 (風月)
2006-04-26 13:31:22
弥生式文化と耳にすると、なんだか懐かしい気さえします。竪穴式住居に住んでいた頃の、人間はどんな日日を送っていたのでしょう。きっとteraさんもそんなことを思いながら、見学なさったのではないでしょうか。鴨は除草剤を蒔かなくて済むためのよいお手伝いのようです。私の友人の有機農法農家でも鴨式でやっています。

お写真いつも楽しませて頂いています。

研修旅行お疲れ様でした。
 
 
 
→kenryu兄 (tera)
2006-04-26 20:05:39
ご無沙汰しています。息子から、そちらの様子聞きました。大変なことでしたね。さぞかし、お山も貴地区もショッキングな出来事だったことでしょう。お役とは言え、やりきれないことですね。



ところで、M師徒弟、連休に瑞世とのことですね。
 
 
 
→風月さん (tera)
2006-04-26 20:16:25
>人間はどんな日日を送っていたのでしょう

はい、その通り考えていました。

よく、工夫して生活していたのだなぁと想像していました。あと、感じるのは家と家がかなり接近して集落を形成しているのですが、人と人との繋がりも今以上に密接だったのだなぁと思いました。今の人は、この時代の人に比べたら、創意工夫も辛抱も我慢も、そして思いやりもきっと劣っているかも知れません。そんなことを考えていました。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。