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「仏のものさし」 ネット坐禅会・48

行もまた禅、坐もまた禅

行亦禅坐亦禅 (行もまた禅、坐もまた禅)
語黙動静體安然 (語黙ごもく動静どうじょう、体たい安然あんねん)
縦鋒刀遇常坦坦(縦たとえ鋒刀ほうとうにうとも坦坦たんたん)
假饒毒薬亦閒閒 (假饒たとえ、毒薬もまた閒閒かんかん)
              永嘉大師(ようかだいし)   証道歌(しょうどうか)

 語ることも黙っていることも、動くことも静かにしている時も、常に心は平静で、どんな災難危害に逢うとも、冷静沈着でいるという禅の奥深い境地を表す言葉です。動静一如、剣禅一如、茶禅一味などと言って、日常の様々な活動の場に、禅の精神を生かすべき重要性を示す言葉として、禅文化を作って参りました。

 しかし、この禅の考え方を、道元禅師は強く警戒し戒めています。本来の「禅」と言う、自我を離れて周囲と一体となるという「行」を置き去りにして、精神だけで禅を表明するのは、禅を目的にする「習禅」となることを警鐘しているのです。この言葉の背景には、しっかりとした無目的の禅体験による、禅精神の裏付けが不可欠なのです。 

只管打坐

 道元禅師、そしてその教えを継承した瑩山禅師が唱える曹洞宗の禅解釈は、只管打坐で、自我による思い計らいを離れる「非思量」の実体験の境地を目指すものです。それには、身・息・心を静かに整えることが不可欠で、そのためにも「ただ坐る」という坐禅の形が最善な道なのです。

 また、この「坐る」という作法は、寺で坐ろうが、家で坐ろうが同じですから、何処でもいいのですが、自我や、自己にまつわるしがらみから離れて、すべてを放ち、心をゆだねる場としての道場の存在は大切です。そこには、参禅者を護る役割を担う仏様(聖僧様)と、直接、禅の作法・精神を導く使命を持った道場主が控えています。さらには、同じ志を持った人々とが一時を共有するところにも意味があり、この道場での坐禅を「参禅」と呼びます。参禅こそが坐禅であるとも言われる所以です。

禅精神の展開

実際に坐っていないと、禅とは言えないかというとそうでもありません。大切なことは、自分中心の思い計らいを離れて、身心ともに非思量の経験を体現しているかということです。ですから、この感覚を忘れずに生活に活かすことは大切で、そのような心構えを「禅精神」と名付けられています。「行亦禅」ということも、このように解釈すべきです。

 また、実際に坐禅の体験がなくても、禅精神の熟達者による指導にゆだねた生き方も、禅精神を反映したものと考えられます。曹洞宗では、このような、禅の生き方を「戒」として条文化して、正しく教えを受け継いだ僧より授ける「受戒」をすすめています。

禅と利他の精神 = 仏の物差し

 自己の物差しから離れて、自分を取り巻く環境すべてに対して、広い視野からの判断の基準を「仏の物差し」と呼んでいます。禅の精神こそがこれです。この視野に立つと、自ずと、他を思いやる慈悲の精神が芽生えると言います。

「坐禅、無量の功徳、一切衆生に回向せよ」

と、瑩山禅師の『坐禅用心記』に記されています。坐禅によって身に付く智慧は、計り知れない慈悲の心として備わるはずです。この思いを何らかの形で還元していきたいものです。

コロナ禍は、自己の思い計らいが、儘ならないことを思い知らせてくれています。今こそ、禅の精神を広げるべき時かも知れません。

                                                                  令和3年3月21日 参禅会資料

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