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坐禅会再開

3月21日より、坐禅会を再開します。

当寺では、毎月、第一・第三日曜日の朝、参禅会を行っています。開始時間は、10月~3月までは7時、4月からが6時からです。30分ほどの坐禅の中で、ミニ講話と般若心経の読誦を、密を避けてコンパクトに行っています。

 

3月21日の講話の内容をお知らせします。

「仏の物差し」

行もまた禅、坐もまた禅

行亦禅坐亦禅  行もまた禅、座もまた禅
語黙動静體安然 語黙(ごもく)動静(どうじょう)、体(たい)安然(あんねん)
縦鋒刀遇常坦坦 縦(たと)え鋒(ほう)刀(とう)に遇うとも常に坦坦(たんたん)
假饒毒薬亦閒閒 假饒(たとえ)、毒薬もまた閒閒(かんかん)
              (永嘉大師  『証道歌』

 語ることも黙っていることも、動くことも静かにしている時も常に心は平静で、どんな災難危害に逢うとも冷静沈着という禅の奥深い境地を表す言葉です。動静一如、剣禅一如、茶禅一味などと言って、日常のあらゆる場面に禅の精神を生かすべき重要性を示す言葉として、禅文化を作って参りました。

 しかし、この禅の考えを、道元禅師は強く警戒し戒めています。本来の「禅」と言う、自我を離れて周囲と一体となるという「行」を置き去りにして、精神だけで禅を表明するのは、禅を目的にする「習禅」となることを警鐘しているのです。この言葉の背景には、しっかりとした禅体験による禅精神の裏付けが不可欠なのです。

 

只管打坐

 道元禅師、そしてその教えを継承し、広く伝えている瑩山禅師が唱える曹洞宗の禅解釈は、只管打坐で、自我による思い計らいを離れる「非思量」の実体験の境地を目指すもので、それには、身・息・心を静かに整えることが大前提であり、それには「ただ坐る」ということのみに価値を重んじる最善な道であるのです。

 また、この「坐る」という作法は、寺で坐ろうが、家で坐ろうが同じですから、何処ででもいいのですが、自我そのものや、自己にまつわるすべてのしがらみから離れて、すべてを放ち、心をゆだねる場としての道場の存在が大切です。そこには、禅にすべてをゆだねる人を護る役割を担う仏様(聖僧様)と、直接、禅の作法・精神を導く使命を持った道場主が控えています。さらには、同じ志を持った人々とが一時を共有するところにも意味があり、この道場での坐禅を「参禅」と呼びます。参禅こそが坐禅であるとも言われる所以です。

 

禅精神の展開

実際に坐っていないと、禅とは言えないかというとそうでもありません。大切なことは、自分中心の思い計らいを離れて、身心ともに非思量の経験を体現しているかということです。ですから、この感覚を忘れずに生活に活かすことは大切で、そのような心構えを「禅精神」と名付けられています。「行亦禅」ということも、このように解釈すべきです。

 また、実際に坐禅の体験がなくても、禅精神の熟達者による指導にゆだねた生き方も、禅精神を反映したものと考えられます。曹洞宗では、このような、禅の生き方を「戒」として条文化して、正しく教えを受け継いだ僧より授ける「受戒」をすすめています。

 

禅と利他の精神 = 仏の物差し

 自己の物差しから離れて、自分を取り巻く環境とすべての広い視野に立った禅の精神の判断の基準を「仏の物差し」と呼んでいます。この視野に立つと、自ずと、他を思いやる慈悲の精神が芽生えると言います。

「坐禅、無量の功徳、一切衆生に回向せよ」

と、瑩山禅師の『坐禅用心記』に記されています。坐禅によって身に付く智慧は、計り知れない慈悲の心として備わるはずです。この思いを何らかの形で還元していきたいものです。

コロナ禍は、自己の思い計らいが、儘ならないことを思い知らせてくれています。今こそ、禅の精神を広げるべき時かも知れません。

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