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「あるがままに生きる」 ネット坐禅会・49

道元禅師の和歌に、「いたずらに過ごす月日は多けれど、道を求むる時ぞ少なし」という句があります。当坐禅会も、次回の開催が心配されるところです。正に一期一会のこのひと時と、肝に銘じたいところでございます。

「有」から「空」へ… 空虚なるもの

 先日来、『般若心経』の解説を行ってきましたが、何名かの方から、質問や感想をいただきましたので、仏教理念と、禅の説く境地について関係の深い「空」について、補足してみたいと思います。

そもそも「空」という言葉は、お釈迦様の時代には無く、紀元ゼロ年の頃の『般若経』など、大乗仏教の成立とともに用いられてきた言葉です。その趣旨は、世の中の出来事は空虚なもので、苦に固執されずに、誰でもこの世の苦悩から救われるための考え方でした。その救世主として、「菩薩」という存在の慈悲の生き方を示したものです。

 しかし、その根本は、釈迦が到達した「無我」「縁起」の理念に立ったものであることには変わりありません。その理念として大切なことは、あらゆる存在には、確固たる「実体」がないことです。もともとインドの哲学として定着していた「アートマン」=自我、を否定する言葉として、我のない「非我」「無我」「無常」「無」というように表されてきました。

「空」から「有」への浮上・・・あるがまま

 実体のない「無」という智慧で、この世の中を見たときに、すべてがそのままに「あぁ、あるんだ」という「有」の浮上を理解する言葉として、「空」という概念が生まれたと考えられます。

実際には「有(色)」として現実に存在はしますが、実体は無く、現実の物事が膨張して、膨れ上がった風船の中のようなものとして「スーニャ」という言葉が使われ、漢訳して「空虚」「虚無」として「むなしい」という意味で表現されてきました。

このような「空」という仏教理念に基づいた実体の無い「空観」という智慧は、「無」や「空」を理解した上での「有」ですから深みは違います。どうにでも変化でき、過去に捉われない自由闊達な境涯のゼロからの出発であり、アクティブなプラス思考であり、希望の持てる「虚無」なのです。

これが、「すべてよし」「すべてあり」「あるがままに生きる」という、大乗的な無の解釈となり、特に禅思想に反映されてきました。この見方が、現実肯定、「すべてが悟っている」「すべてよし」として、「山川草木悉有仏性」という高度な現実理解の精神なのです。天台教学では「諸法実相」と呼んでいます。

「あるがまま」への批判

けれども、この考え方は、「なんでも仏様」「堕落した仏教」「やぶれ大乗」という批判を浴び、努力しなくていいんだ、楽をして救われるという誤解を生みやすいのです。現実に、人権差別に苦しむ人、理不尽な社会体制に苦しむ人たちにとって、「そのままでいい」「あるがままでいい」という言い方は注意する必要に直面します。

禅思想のあるがまま

 このような状況をふまえて、禅の考え方は、自我を越えて周囲と一体となる「非思量」の智慧と慈悲に生きる世界を教えています。この見地からは、コロナ禍でも、原発の汚染に直面したとしても「すべてよし」の現実直視の達観した見地として、高度な「あるがまま」の生き方なのです。『般若心経』では、原典を見る限り、そうは言い切っていません。あくまで天台教学、禅思想的な解釈なのです。

                   令和3年4月4日 参禅会資料

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