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ネット坐禅会・44 もう一つの『般若心経』

 コロナ禍には、いろいろなことを学ばせていただいていますが、『般若心経』についても、改めて気づいたことがありました。

 この世の中を正しく見極める「智慧(般若)」を実践することに拠って、すべてが実体が無く、空虚な存在として成り立つことが判り、苦悩から脱することが出来る・・・と説くのが『般若心経』の趣旨であります。また、そのように理解すれば、仏教の教えの数々そのものが、すべて「無」であり、存在の必要が無くなる訳です。これらのことは十分に承知していることですが、あらためて、ネット坐禅会として読み解いていく中で、本文の中盤の多くの紙面を使って、お釈迦様の時代から説かれてきた主要の教義、五蘊、六根、六境、六識、十二縁起、四諦・・・などを個々にあげて、空相の立場からは不要なのだということを繰り返し、繰り返し述べていることを、「よくここまで、せっかくの教理を、打ち消すような説明をするなぁ」と思い、「そこまで徹底して、空の原理を説いているのだなぁ」と理解し、多くの解説書もそう説明していたのですが、私なりに、もう一つの『般若心経』のメッセージを読み取ってみました。

 それは、「空」や「無」と呼ぶ真理はあるものの、現実の私たちが直面することは、無明から始まる迷いと負への連鎖と、根深い過ちの危険性を帯びて毎日が展開しているという事実です。この人間が抱える「性(さが)」をとことんに解明し、脱するための手立てが、お釈迦様が中心となって説かれてきた仏教という教理なのです。ともすると、この『般若心経』は、「空」である、「無、無、無・・・・」と、現実の迷い苦しむ様相からの打ち消し、否定の方向性に目が行きがちでした。しかし、このコロナ禍で、先が見通せずに不安が募る中、むしろ、『般若心経』は、「無、無、無・・・・」と否定しながらも、実は、苦悩多きこの現実の「有、有、有・・・・」の実態、迷い苦しむ原理の奥深さを思い知らしめてくれているのでは・・・・と、読み取れる経文であるとも思い至るようになりました。(確かにこのように解説された書面を見たこともありました。)

 こう思うと、改めて苦悩多き人生であることを認識しますし、さらに、その背景にある「空」というしがらみを離れることができる世界があることに、「安らぎ」を期待する光が見えるようにも思えます。つまり、『般若心経』本文の後半の祈りの部分の重要性です。何か、もう一つの『般若心経』に出会えた気がいたします。

 

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