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GODZILLA――其れは、全てを破壊し尽くす幻想の巨獣

2004年12月12日 23時28分42秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 「やっぱり、マグロ喰ってるよーな奴は駄目だな・・・次!」。
 これは12月4日から公開されている映画「ゴジラファイナルウォーズ」の中でX星人参謀/統制官(官と言うよりは「漢」と表現するのが正しいのかも知れない)が、シドニーでゴジラを迎え撃ったジラ(1997年の米国版ゴジラのゴジラではないかと言われる)が一撃の下に粉砕された時に発した台詞である。このシーンは、この映画において何も特別な部分であるから紹介している訳ではない。「マトリックス」張りのワイヤーワークに、シートベルトを着用してHONDAの軽トラの助手席に座るミニラ(警察庁が見たら涙を流しそうな情景だ)、そして全人類を家畜化すると公然と言い放つX星人参謀役の北村一輝の名演技・・・etc、これら全てがこのゴジラ最終作を最高のエンターティメントとして仕上げる道具となっている。無論、これは小生がゴジラ映画と言うものと無縁な位置にいる一介の映画観賞人だからかも知れない。その半面で、これらの部分はゴジラ映画と言うものを愛しつづけた怪獣映画ファンにとっては容認する事が出来ない情景なのかも知れない。この映画は本来ならば、ゴジラと共に主役を張る筈の怪獣達を次から次へと登場させてと言えば言葉が良いが、実際には使い捨てにしているようなものだからだ(冒頭の発言はその一部である)。しかし、これは批判すべき部分ではない。世間一般の人々にとってゴジラ映画とは怪獣のプロレスでしかなく、子供達にとっては多くの怪獣が登場すると言う事はそれだけで魅力的だからである。
 このゴジラについての詳細は今後、小生HPのG2分類における「キネマ雑記」において行う事にして、今回のBlogではこのゴジラのエンターティメント性という部分に焦点を合わせてみたい。ゴジラと言う映画は素人にはとっつき難い部分がある。特に何の関心もなかった人が旧に見ても面白いとはいえないだろう。それは言ってしまえば、ゴジラ世界観と言うべきものが根底に存在していたからだろう。ゴジラと言う世界を咀嚼しなければその面白さにはたどり着けないような部分があった。だからこそ世間一般ではその著名さの裏で怪獣のプロレスと揶揄されたのである。しかし、今回のゴジラには其れはない。何故ならば、現実と言うものをどうでも良いとでも言うかのように完全に投げ捨てているのである。つまり、ゴジラと言う存在が幻想の怪獣であるならば、世界そのものも幻想であっても良いではないかと言う訳である。その為に科学的講釈等は無視した上でのアクション映画になっているのである。怪獣映画と言う割には人間同士の格闘シーンが以上に多いのもその典型だ。しかし、これは何も批判すべきではない。このような今までのゴジラと言うものの観念を破壊し尽くした最終作が作られたのは評価すべき事なのだ。ゴジラは半世紀に渡る歴史がある為にゴジラ批評やゴジラ論と言ったゴジラへの解釈学がまかり通っていた。しかし、解釈学はそれを知りうるものの議論にしか過ぎない(学者同士の議論を普通の人が聞いても面白くないのと同じだ)。その点において今回の映画はこのようなゴジラの解釈学を完全に粉砕し尽くしてくれたと言えるのではないだろうか。

 GODZILLA――其れは、全てを破壊し尽くす幻想の巨獣である。

補足:ゴジラと自衛隊。それは「やるもの」と「やられるもの」の関係であると言っても過言ではない。ゴジラを知る者にとっては自衛隊とはやられ役である。しかし、その両者には密接な関連性がある。それは共に今年が50周年であると言う点である。だからか分からないが映画館の売店では平成16年版防衛白書のコンパクト版が発売されていた。一見すると関係のないような二つのコラボレーションは時代と言うもの、そして我が国の防衛と言うものを考える上で大変に興味深いと言えるのかも知れない。
 冷戦体制の崩壊から10年を経て自衛隊の仮想敵がまた一つ消えていった。
 
 その名はGODZILLAと言う。

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