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待たれた未来への絶望

2004年11月28日 13時45分15秒 | 世情雑感(ムウビイ)
 宮崎駿監督の最新作「ハウルの動く城」の中でヒロインのソフィーは「待ってて、私、きっと行くから。未来で待ってて」と言うシーンがある。このシーンはハウルとソフィーの宿命的連関と言うものを表現する部分と解釈されるが、別の見方も可能ではないだろうか。この映画についての分析は近日中に小生のHP内のG2分類キネマ雑記内で詳細に行う事として、今回のBlogでは映画の感想に近いものを掲載してみたいと思う。
 「ハウル」の舞台は概ね産業革命以降だけれども、近代国家が必ずしも誕生したとは言い切れない状況を世界的な背景としている。其の中で「魔法」と「科学」が並存している。しかしながら、「魔法」は新しく登場してきた「科学」によって徐々に隅に追い遣られようとしてもいる世界である。この二つの存在で対照的に描かれるのが「火」である。「魔法」の火は火の悪魔カルシファーに象徴され、「科学」の火は都市を焼き払う巨大な飛行戦艦(戦略爆撃機)によって現される(ドゥーエの戦略爆撃論の影響からか飛行戦艦に護衛戦闘機は存在していない)。この作品を作った宮崎監督からすれば、この時期は一種の人間の選択であったという意味が存在しているのかも知れない。周知の通り、現在の我々が住む世界には魔法は存在していない。「科学」に象徴される火は核兵器に象徴されるこの世界を滅ぼす事が出来る規模にまで発展している。この映画の中でも巨大な飛行戦艦が都市を戦略爆撃するシーンがあるが、そのシーンはアフガニスタン空爆や第2次湾岸(イラク)戦争で大量な爆弾を投下していくB-1ランサーやB-2スピリットをあたかも想起させる(映画内のシーンで考える限り、報道映像等の其れに類するシーンを明らかに参考にしているようだ)。無論、戦略爆撃というものは日本人の潜在意識に強く意識されている。それは我が国が先の大戦に於いて日本本土を蹂躙したB-29スーパーフォートレスの空襲によって無条件降伏に追い込まれたという現実をその時代に生きたものでなくとも「記憶」として受け付いているからだ。だからこそ、「科学」の火は戦略爆撃という形で表されるのである(「科学」は使い方次第で人類に破壊も福音も与えるから、「科学」が人々の家を照らし出す無数の灯火であっても問題は無い筈なのである)。
 一方の「魔法」の火と言うものは、一種の伝承や神話と言ったものの延長線上にある。現実には、物質的に「魔法」は存在していないが、精神的に内在して存在しているものである。無論、この世界には魔法は存在していないが、「魔法使い」や「魔女」という言葉が未だに存在しつづけ、「ハリーポッター」やこの「ハウルの動く城」と言った「魔法」を題材にした作品が人気を集めつづける事自体が、人々の心の中に「魔法」が精神的に残りつづけている事を示している。
 この作品は、「科学」へ仮託された未来への期待というものが存在していた時代を舞台にしている。しかし、「科学」が万能とされた時代に現出したのは戦略爆撃そしてその延長線上に存在した互いの国が相手を殲滅するだけの核兵器を保有する事によって平和を維持しようとする相互確証破壊(MAD)という狂気の世界であった。我々が生きる現在と言うものは宮崎監督にしてみれば「絶望」的な世界でもある。だからこそ、人々の精神の中に存在しつづける「魔法」という存在へ訴える事による現実(世界、国家)への懐疑という側面が強調されてくるのである。宮崎監督の作品には束縛されない「個」という存在が多く存在している(「紅の豚」のポルコ・ロッソ等は其の代表だろう)。未来が絶望に染まらない為には「個」という存在を重視しなければならないというメッセージがこの「ハウルの動く城」には包括されていると言えるのではないだろうか。

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