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幻想の中の「青春」

2005年07月12日 21時49分36秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 ライトノベルズと呼ばれるジャンルの小説がある。所謂、10代半ば以降の青少年を対象としたファンタジー或いはSFに範を取った小説群の総称である。その中の作品には漫画化やアニメ化が行われた物も少なくない。本日のBlogで取り上げる「イリヤの空UFOの夏」もその一つだ。秋山瑞人原作の本作は駒都えーじのイラストと併せてライトノベルズ界において一世を風靡した。しかし、今日の主題は電撃文庫から刊行されている小説版ではない。アニメ界の大御所である東映アニメーションが製作したアニメ版の第2話「ラブレター」と第3話「十八時四十七分三十二秒」である(アニメーションの細かな描写には秀逸部分が多い)。
 最初に確認しておくべき事柄だが、ライトノベルズの登場人物は読者と想定される年代とほぼ同じくして設定されている。つまり、登場人物の大半は中学生から高校生と言う訳である。それは本作においても同様であり主人公の浅羽にせよイリヤにせよ14歳という設定になっている(14歳と言うと1995年の大ヒット作「新世紀エヴァンゲリオン」を想起させる)。これは書き手が読み手にストーリーへの没入を与える為に行っていると共に、自身の過去への追憶である場合が多い。無論、これらの小説と同様の事を書き手が行っている訳ではない。しかし、自身の体験の延長線上が描かれている場合は多いのではないだろうか(無論、そこには自身が当時夢見ていたものも含まれていよう)。
 今回分析対象としている部分において、その「青春」とでも呼べる部分は、第2話において浅場とイリヤの乗った原付を水前寺のカブが負い掛けて行くというシーンであろうし、第3話のマイムマイムのシーンに象徴されているだろう。無論、これはこの「イリヤの空UFOの夏」というストーリーの中ではまだ前半に属しているとも言え、少年(或いは少女)の夢の拡大期に存していると言える。書き手にとって「青春」が幻想の域に収まってしまったように、少年期の夢と言うものは挫折する為に存在している(極めて王道的な見方であるが、夢に破れる事によって少年は大人になるのである)。それは本作でも同じであり、それは話を追って明らかになってくる。そしてその結末が殉愛であったとしても、それは幻想の中の「青春」を構成するには十分なものなのである。
 しかし、逆説的に考えてみるならばこの構図は極めて不自然である。確かに書き手側には失われた「青春」を描き上げようとする原理が存在するのは理解できる。一方で、読み手の側は現在その幻想の「青春」の中に存在している以上、その幻想を現実へと転換する僅かばかりの可能性を有している事になる。しかし、ライトノベルズの市場は衰退の一途にあると言われている書籍産業の中においても市場を拡大している現実が存在している。これは、こう説明する事が可能なのではないだろうか。それは、少年期に体験すべき「青春」の背景が喪失しているという点である。少子化の急速な進展(以前は兄弟は2人が標準だったが、今では子供は一人が標準になりつつある)と都市部において「青春」とされるものを体験しやすい場所が急速に減少している点にあるのだろう。これは何も小生が何の裏づけも無く指摘している訳ではない。ライトノベルズが市場において橋頭堡を獲得したのは1980年代であり、この時代以降急速に少子高齢化と個化する子供の存在が教育界において指摘されるようになっているからである。幻想の中の「青春」としてのライトノベルズ。その先端に位置すると言われる本作は、まさに最良の「幻想」を青少年に提供していると言う事も出来るのかも知れない。

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