昭和の恋物語り

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出雲大社参詣記 12月30日 (二十一) 出雲大社のお勉強

2015-03-12 08:53:06 | お出かけ
さあそれでは、いつものようにお勉強です。
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[概要]

正式名称は「いづもおおやしろ」であるが、一般には主に「いづもたいしゃ」と読まれる。
二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。
明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。

現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年(平成14年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。
また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。

紋様

現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。
約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。
2014年9月7日付で、千家国麿が権宮司に就任した。

[祭神]

大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。
1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。
神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり、神議が行われる。(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。

出雲へ行かず、村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない。
そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになった。

[創建]

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。
以下はその主なものである。

大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)

古代ご本殿模型

高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)

神魂命が「「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)

崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。
出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)

垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。
奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)

659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)

伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。
また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。
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お疲れ様でした。


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