「旅館の女将さんですか? そりゃ助かる。初めての地なんで、宿はさっぱりです。
食堂かどこかで紹介してもらおうと考えてはいたのですが。いやいや、助かります。
しかし何ですね、得体の知れぬこんな男に声をかけられるとは、女将も豪気ですね」と、探りを入れてみた。
「何をおっしゃいますか、得体の知れぬ男だなどとは。
その身なりを拝見させていただければ、しっかりとした会社の方・・。
ひょっとしまして、間違っておりましたらごめんなさい。
社長さまだとお見受けいたしますが?」
これには武蔵も驚いた、世辞での社長呼ばわりではない。確信を持ってのことばのようだ。
“この女、案外かもしれんな。これは面白い。深入りしてみるかな、ひとつ”
「いやいや、これは驚いた。確かに小さな会社ではありますが、社長職を勤めています。
私も多々出張で宿を取りますが、ずばり当てられたことはありませんよ。
高野屋さんですか。うん? ひょっとして、蘭学者の高野長英のご子孫だったりしますかね? ハハハ」
「あらあら、ありがとうございます。ご高名な高野長英先生のお血筋だなんて、光栄の至りですわ。
社長様のお洋服、この辺りではついぞ見ませんお仕立物ですもの。
誰でも、分かりますわ。あたくしは、この通りの女ですから。
思ったとおりのことを、すぐに口にしてしまうのですよ。
でも気持ちの良いお方で、幸いです。
お客さまにお声を掛けるなど、思いも寄らぬことなのですが。
旅館業など素人同然のあたくしですので、なかなかに」と、軽く受け流された。
熱海の女将光子とは違った雰囲気を醸し出している、女将のぬい。
武蔵の虫が、ざわざわと騒ぎ立てている。しかし新婚十日目の武蔵だ。
いかな武蔵でも、しばらくは大人しくしていようと思う。
思いはするのだが、むくむくと“戸籍上は新婚だが、実体は長いからなぁあ小夜子が転がり込んでから、何年になるんだ?”と、一、二、と指を折り始めた。
「着きましたわ、旦那さま。あらあら? 何を数えていらっしゃるのです?」と、女将が声をかけた。
「え? いや、なんでもない。女将のね、年勘定をちょっとね」
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