昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第一部~ (六十六)

2021-02-02 08:00:49 | 物語り
「どうしたの? 足でもくじいたの?」と、足元を見つめている小夜子に、声をかけた。
「もう! 正三さんが悪いのよ。見て、これ」と、足元を指差した。
正三が見ても、特段変わった様子もない。
細かい石ころが転がってはいるが、その場所が特に多いわけでもない。
中心街から外れた場所では、舗装が行き届いていないのは当たり前のことに思える。
首をかしげている正三に対し、小夜子がそっと足を上げた。

「犬の糞を踏んじゃったの! この靴、おニューなのに」
 憤慨する小夜子に、「ああ、こりゃひどい。ちょっと、待って」と、その場に腰を屈めた。
真新しいハンカチを取り出すと、赤い靴の汚れた部分を拭き取った。
「嫌だわ、もう。田舎じゃあるまいし、キチンと始末しておいて欲しいわ!」
 小夜子の元に集まった人々を、キッと睨み付けた。

「ごめんなさいねえ、おじょうちゃん。のら犬のしわざでしょう、きっと」
「さいなんだったねえ、まったく」
 口々に慰めの言葉を掛けてくれるが、小夜子の険しい表情は緩むことはなかった。
「ものは考えようさね、じょうちゃん。運が付いたと、思いねえ」
「そりゃそうだ。犬のウンコが付いて、運がひらけるかもねえ」

 どっと笑いが起きたが、小夜子は気色ばんで金切り声を上げた。
「冗談じゃないわ! なんて失礼な人たちなのよ、もう!」
「小夜子さん、そう目くじらを立てなくても。悪気があっての言葉じゃないんだから」
 正三は、集まった人に頭を下げながら、ハンカチの始末を頼んだ。
「はいはい。お兄さん、わたしがすてておきますよ」と、お婆さんが受け取ってくれた。

 小夜子は正三に目もくれずに、さっさと歩き出した。
慌てて正三は追いかけたが、早足で歩く小夜子に、中々追いつけなかった。
“こんなに気の強い女性だとは。ほんとに、新時代の女性なんだな”
 肩で風を切るが如くに歩く小夜子の後姿を見ながら、正三はため息を付きながら、
“優柔不断な面のある僕には、案外お似合いかもしれんな”と、妙に納得させられた。
また突然に小夜子が立ち止まると、空を見上げながら叫んだ。

「もう、だめ! 明日にでも、行くわ! もう、田舎はイヤ! 一分一秒も、我慢できない!」
 正三に対する言葉というよりは、小夜子自身を鼓舞する叫びだった。
唖然とする正三の元に駆け寄った小夜子は、正三の首に手を回して、軽く唇を重ねた。
「約束の接吻。東京で逢いましょう、きっとよ!」



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