「気を悪くなさらないでくださいな。お話が、実は来てたんです。
この間お出で頂いた折りに、ご一緒されていたお客さんが、お嫁さんに欲しいとおっしゃられて。
ああ、残念ですわ」と言いつつも、まるで残念がる風に感じられない。
そんな話など、実のところはないのではないか? 話を面白くする為の、作り話ではと思えてしまう。
「いえね。あたしはね、もう決まった方が見えますよ、って言ったんですけどね。
とにかく聞いてみてくれ、の一点張りで。そうですか、ご結婚されてるんですか。
ところで奥様、先ほどのシャンプーのことなんですけれども。
あたくしに回して頂くなんてことは、ご無理でしょうか?」
奥さま、という心地良い響きが、小夜子の胸をざわつかせる。
“ち、違うわよ。武蔵の妻だからじゃないわ。言葉の響きに、対してのものよ。
そ、そうよ。武蔵の妻だからじゃないわ”
「奥さま、奥さま」
頬をぽっと赤らめる小夜子に、「ご新婚なんですね。お幸せそうで、羨しいわ」と、からめ手からの話に切り換えた。
新婚? 式は挙げていない。もちろん入籍もしていない。ただ、同居をしている。
いやその前に、小夜子は妻となることを拒否している。
あくまで正三の妻となり、アナスターシアと世界を旅するのだ。
「こんにちわ。ちょっと早かったかしら?」
にこやかに微笑みながら、四十半ばの女だが入ってきた。
「いらっしゃいませ。少し待ってくださいね」
女は待合い用の椅子に腰掛け、
「ああ、いいわよ。ヒマな身だから、いつまでも、なんだったら、夜まででも待ちますわよ」と、快活に笑う。
思わず吹き出す小夜子に、「あら! どこかで会ったかしら?」と、鏡の中の小夜子に目をとめた。
「また始まったわ、松子さんの会った病が」
「うーん、、違うかなあ。人違いかな? ごめんなさいね。ところでさ、千夜子さん。
奈美ちやん、アナ何とかって言うモデルのファンだったわよね?」
「アナスターシアのこと?」
「そうそう、そのモデルさんよ」
思いもかけぬ名が耳に入りと、思わず聞き耳を立てる小夜子だった。
「デパート勤めの娘によるとね、どうも亡くなったらしいわ。
詳しいことはね、教えてくれないのよ。口止めされてるってことで、口がほんと重いのよね」
みるみる顔が青ざめ、わなわなと手が震える小夜子が鏡の中にいた。
「小夜子さん、どうされました? パーマ液に酔われましたかしら。大丈夫ですか?」
「ほんと。すごく顔色が悪いけど、大丈夫?」
「うそよ、うそよ、アーシアが死んだなんて。うそよ、大うそよ!
迎えに来てくれるんだから、きっと来てくれるんだから」
まるで抑揚のない念仏のように呟く小夜子だった。
「あっ!」。素頓狂な声が店に響いた。
「思い出した! あなた、さよこさんでしよ。
この人よ。ロシアのモデルさんと一緒だった、日本の女性は」
「ほんとなの? まあ、すごい偶然ね」
ふたりがかまびすしく話す中、相も変わらず呟き続けている。
「うそよ、うそよ、アーシアが死んだなんて。うそよ、大うそよ!」
この間お出で頂いた折りに、ご一緒されていたお客さんが、お嫁さんに欲しいとおっしゃられて。
ああ、残念ですわ」と言いつつも、まるで残念がる風に感じられない。
そんな話など、実のところはないのではないか? 話を面白くする為の、作り話ではと思えてしまう。
「いえね。あたしはね、もう決まった方が見えますよ、って言ったんですけどね。
とにかく聞いてみてくれ、の一点張りで。そうですか、ご結婚されてるんですか。
ところで奥様、先ほどのシャンプーのことなんですけれども。
あたくしに回して頂くなんてことは、ご無理でしょうか?」
奥さま、という心地良い響きが、小夜子の胸をざわつかせる。
“ち、違うわよ。武蔵の妻だからじゃないわ。言葉の響きに、対してのものよ。
そ、そうよ。武蔵の妻だからじゃないわ”
「奥さま、奥さま」
頬をぽっと赤らめる小夜子に、「ご新婚なんですね。お幸せそうで、羨しいわ」と、からめ手からの話に切り換えた。
新婚? 式は挙げていない。もちろん入籍もしていない。ただ、同居をしている。
いやその前に、小夜子は妻となることを拒否している。
あくまで正三の妻となり、アナスターシアと世界を旅するのだ。
「こんにちわ。ちょっと早かったかしら?」
にこやかに微笑みながら、四十半ばの女だが入ってきた。
「いらっしゃいませ。少し待ってくださいね」
女は待合い用の椅子に腰掛け、
「ああ、いいわよ。ヒマな身だから、いつまでも、なんだったら、夜まででも待ちますわよ」と、快活に笑う。
思わず吹き出す小夜子に、「あら! どこかで会ったかしら?」と、鏡の中の小夜子に目をとめた。
「また始まったわ、松子さんの会った病が」
「うーん、、違うかなあ。人違いかな? ごめんなさいね。ところでさ、千夜子さん。
奈美ちやん、アナ何とかって言うモデルのファンだったわよね?」
「アナスターシアのこと?」
「そうそう、そのモデルさんよ」
思いもかけぬ名が耳に入りと、思わず聞き耳を立てる小夜子だった。
「デパート勤めの娘によるとね、どうも亡くなったらしいわ。
詳しいことはね、教えてくれないのよ。口止めされてるってことで、口がほんと重いのよね」
みるみる顔が青ざめ、わなわなと手が震える小夜子が鏡の中にいた。
「小夜子さん、どうされました? パーマ液に酔われましたかしら。大丈夫ですか?」
「ほんと。すごく顔色が悪いけど、大丈夫?」
「うそよ、うそよ、アーシアが死んだなんて。うそよ、大うそよ!
迎えに来てくれるんだから、きっと来てくれるんだから」
まるで抑揚のない念仏のように呟く小夜子だった。
「あっ!」。素頓狂な声が店に響いた。
「思い出した! あなた、さよこさんでしよ。
この人よ。ロシアのモデルさんと一緒だった、日本の女性は」
「ほんとなの? まあ、すごい偶然ね」
ふたりがかまびすしく話す中、相も変わらず呟き続けている。
「うそよ、うそよ、アーシアが死んだなんて。うそよ、大うそよ!」
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