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昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

俺は、青年!(三)

2025-05-06 08:05:57 | きもち

 杉の大木はもう年だった。

その皮は、年老いた老婆のそれのごとくに、ひからび、今にも崩れ落ちそうな……。

 日当たりのよい縁側に、深く背を曲げて、ひなたぼっこを楽しむ老婆。

その背に漂う満足感。と共に、そこに悲しさを見る、この私。

 杉の大木を見上げる。私の背の何十倍もの高さ。

今また、新たな感動で見上げる。

「いつかきっと……」

 あすなろのこころをもってつぶやく。

スポーツの価値は、その無償性にある。そして、芸術も無償である。

シカゴシティの、シビックセンターにピカソの彫刻がある。

その代償が30万$というから、驚かされる。

そしてピカソの偉大さの評価は大だった。

が、私の感じる偉大さは、己の邸に、その作品を持ち帰りたい! とダダをこねたというエピソードにある。

決して、代償はに対する不服というのではなく、その作品のあまりのすばらしさに、すっかり魂を抜かれ、30万$という具象化された価値ではなく、大きく、どこまでも大きい無限の価値を、その作品に与えたのだ、ピカソは。

「この木、一本、30万円ぐらいかな?」

 そのことば、私は残念だった。杉の大木に対する賛辞がこれにとどまるとは。

ことばなき賛辞で終わらない。哀しみは大きい。

 

ことばはどこまでいってもことばであり、それ以上の何かをもっているわけではない。

だから、一般人の使うことばを文字にしたところで、やはり、言葉以上の役割は果たさない。

 一般人の描く風景画が、淡々と描かれるごとくに、文章も、淡々とつづられていく。

が、これがひとたびその道の大家にかかると、ことばはことば以上となり、風景画は生きてくる。

そこには常にアクセントがあり、コントラストも、バランスも生まれる。

 しかし、やはり“ことば”であり、絵画でしかない。

ことばによって、絵画によって描かれた現象の真の本質については、まったく想像の域を脱しない。

といって、ほかに現象の域を脱するものがあるというのではない。

ありえないであろう。

 それを強いて言うなら、永い、時の流れのみが脱しうる、時の流れ――つまり、歴史。

が、その歴史にしても、解釈者によって多少の誤差がある。

しかし、少なくとも、その誤差はほかの何物よりも少ないはず。

“愛の鞭”…………そう、相反するものを、同時に表現できたら、その本質の姿が、幾分かは見えるだろう。

陰と陽とを同時に使い分ける。それは、音楽や絵画のごときものでは表現できても、文章によってとなると、いささか難しい。

なぜなら、音楽は聞き、絵画は見、そして文章は読む、からである。

聞く――聞こえる、見る――見える、読む――読むである。

受と能の差がそこにあり、どうしても文章では、そこに時間のズレがでてくる。

しかし、そのズレは、そのまま残さずにはおけない。

そして、それを超えて表現し、伝える。それのみである。

現象と本質と、どちらかが、陰であり陽である。

そして、その交錯が、サイケデリックと考える。

その文章化、つまり、サイケデリック文学そのものである。

 

☆大上段に構えて、そのまま振り下ろした観のあるエッセイ? になっちゃってます。

こんなことを、十八歳前後には考えていたんですねえ。

我がことながら、ビックリです。

 


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