杉の大木はもう年だった。
その皮は、年老いた老婆のそれのごとくに、ひからび、今にも崩れ落ちそうな……。
日当たりのよい縁側に、深く背を曲げて、ひなたぼっこを楽しむ老婆。
その背に漂う満足感。と共に、そこに悲しさを見る、この私。
杉の大木を見上げる。私の背の何十倍もの高さ。
今また、新たな感動で見上げる。
「いつかきっと……」
あすなろのこころをもってつぶやく。
スポーツの価値は、その無償性にある。そして、芸術も無償である。
シカゴシティの、シビックセンターにピカソの彫刻がある。
その代償が30万$というから、驚かされる。
そしてピカソの偉大さの評価は大だった。
が、私の感じる偉大さは、己の邸に、その作品を持ち帰りたい! とダダをこねたというエピソードにある。
決して、代償はに対する不服というのではなく、その作品のあまりのすばらしさに、すっかり魂を抜かれ、30万$という具象化された価値ではなく、大きく、どこまでも大きい無限の価値を、その作品に与えたのだ、ピカソは。
「この木、一本、30万円ぐらいかな?」
そのことば、私は残念だった。杉の大木に対する賛辞がこれにとどまるとは。
ことばなき賛辞で終わらない。哀しみは大きい。
ことばはどこまでいってもことばであり、それ以上の何かをもっているわけではない。
だから、一般人の使うことばを文字にしたところで、やはり、言葉以上の役割は果たさない。
一般人の描く風景画が、淡々と描かれるごとくに、文章も、淡々とつづられていく。
が、これがひとたびその道の大家にかかると、ことばはことば以上となり、風景画は生きてくる。
そこには常にアクセントがあり、コントラストも、バランスも生まれる。
しかし、やはり“ことば”であり、絵画でしかない。
ことばによって、絵画によって描かれた現象の真の本質については、まったく想像の域を脱しない。
といって、ほかに現象の域を脱するものがあるというのではない。
ありえないであろう。
それを強いて言うなら、永い、時の流れのみが脱しうる、時の流れ――つまり、歴史。
が、その歴史にしても、解釈者によって多少の誤差がある。
しかし、少なくとも、その誤差はほかの何物よりも少ないはず。
“愛の鞭”…………そう、相反するものを、同時に表現できたら、その本質の姿が、幾分かは見えるだろう。
陰と陽とを同時に使い分ける。それは、音楽や絵画のごときものでは表現できても、文章によってとなると、いささか難しい。
なぜなら、音楽は聞き、絵画は見、そして文章は読む、からである。
聞く――聞こえる、見る――見える、読む――読むである。
受と能の差がそこにあり、どうしても文章では、そこに時間のズレがでてくる。
しかし、そのズレは、そのまま残さずにはおけない。
そして、それを超えて表現し、伝える。それのみである。
現象と本質と、どちらかが、陰であり陽である。
そして、その交錯が、サイケデリックと考える。
その文章化、つまり、サイケデリック文学そのものである。
☆大上段に構えて、そのまま振り下ろした観のあるエッセイ? になっちゃってます。
こんなことを、十八歳前後には考えていたんですねえ。
我がことながら、ビックリです。
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