松田敏子フラワーデザイン・徒然ローズガーデン

予定より長生きしている今を憂いながら、怒りながら、笑いながら楽しむ。

島田叡(あきら)氏

2015-08-15 17:48:43 | その他
沖縄本土は戦争の生々しさを突き付けられ
もう二度と行きたくない!などと思っていた自分・・・

今の今まで全く知り得ていなかった。

恥ずかしい・・・。

官選最後の沖縄県知事
米軍の沖縄上陸が予想された時期、なり手のない最後の官選知事として
敢然として沖縄に赴任。



在任期間は、5か月足らずであったが、
沖縄県民に鮮烈な印象を残して散った。

誇り高き内務官僚として、壮絶な殉職の道を選んだその生涯は
今でも語り伝えられている。

開業医の長男として神戸に生まれ
神戸二中、三高(現在の京大教養学部)、東京帝大と進んだ島田氏は
この間ずっと野球の名選手として鳴らしていた。

内務省に入った島田氏は、主に警察畑を歩んだが決して
エリートコースではなかった。

「愛される警察官になれ!」「セクト主義はなくせ」などと
強調したため、本省から煙たがられていた。
  
         ※セクト主義~縄張りや派閥を重んじる考え方


沖縄の厳しい現実に直面した内務省は、責任感と決断力に溢れ
非常時に民心をつかめる知事を必要とした。
そこで、島田氏に白羽の矢が立ったのだ。

逃げ腰の前任知事に悩まされ続けていた警察部長の荒井退造氏と共に
沖縄県民と運命を共にするという決意のもと
心ある行政手腕をふるい、
戦火の中、この二人の努力により命を救われた沖縄県民は
約20万人にも及んだという。

国中!玉砕主義の中、「命こそ 宝!!」
「生きなさい!決して軍と行動を共にするんじゃないよ」と
県民に言い続けた。



1945年(昭和20年)6月26日
荒井退造警察部長と共に摩文二の壕を出て、摩文二のどこかで
自決したと思われる。
享年43歳

島田氏と荒井氏の殉職の報に接し、内務大臣は
島田氏に「内務大臣賞詞」と顕功章
荒井氏にも顕功章を贈った。

そして「その志、その行動、真に官吏の亀鑑と言うべし」と称えた。




こんなことがあって、現実の総理たるや・・・
「真に官吏の亀鑑」は?

情けないやら、恥ずかしいやら、あきれ果てる・・・
まさかご存じないとは思えないし・・・。
誰のための政治をしているのか?
未来の日本を見極められない?
何をどうしたいのか?

その与党を選んだのは国民なのだから始末が悪い。

それにしても沖縄は今でも難儀を強いられてばかりだ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« スプリットとトロギール(ク... | トップ | 御岳渓谷 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

その他」カテゴリの最新記事