Tomotubby’s Travel Blog

Tomotubby と Pet の奇妙な旅 Blog。
でもホントに旅 Blog なんだろうか?

民族音楽のおけいこ

2007-02-09 | Europe ところどころ
以前書いた「Senor Coconut and his orchestra 「Yellow Fever!」」の記事に LSTY さんから頂いたコメントのレスポンスを書いてみたんですが、ワールドミュージックという範疇について常々感じていることまで書いていたら随分長くなりました。コメント欄においておくのはちと勿体ないので記事に格上げすることにしました。

ケータイで書いたのでイマイチまとまってないかもしれませんが、構図的に以下のような感じです (崩れてないか心配)。


昔:
従来の都市音楽・大衆音楽
 ↓↑
 ↓↑⇒新しい大衆音楽
 ↓↑
民族音楽


今:
従来の都市音楽・大衆音楽
 ↓↑
――――壁のようなもの
 ↓↑
ワールドミュージック
(エスノポップ)
 ↑
 ↑ 洗練・大衆化
 ↑
民族音楽



以下が LSTY さんから頂いたコメントです。
=======================================
Unknown (LSTY)
2007-02-09 10:11:05

ふと思ったんですが、最近の歌手が歌ってる歌には全然「民族音楽の香り」が無いんですよね。フェイクでもいいからそういう香りがないと、なんだかつまらないような気がします。
かつて石野卓球が「テクノとは都市の民族音楽だ」と言ってみたり、テイトウワがガムランに凝ったりと、一部のアーティストは音楽のルーツとしての民族音楽に関心を寄せているのですが、いわゆるオーヴァーグラウンドにはそういうのが浸透しにくいのでしょうね。


以下は Tomotubby のコメントです。
=======================================
民族音楽は現地実況録音みたいなもので、いわゆる都市音楽、大衆音楽としてのポップスではないので、ポップス側が民族音楽を受け入れるには、いくつかのアプローチがあると思います。

一番自然なのは、いろいろな事情で多民族が接触する場所で、民族同士の音楽が混じり反応することで、南北アメリカの黒人大衆音楽はこうして出来上がったのだと思います。ロンドンやパリなんかは、今でも旧植民地からの移民が独自の音楽を携えて流入して同じような状況にあります。ヨーロッパでワールドミュージック(エスノポップ)が流行る所以はこのへんにあるのでしょう。でも、受け入れる側のヨーロッパもそういう音楽を全く初めて聞くわけでなくなって、インパクトというか新鮮味が下がってしまっています。それで混交・反応・生成が活発に進まないのではないかと思います。むしろ民族も音楽も混じり合わず、都市の中にリトル・インディアとかチャイナタウンとかを作るみたいに、個々に閉じこもってしまっている状況にあるのかもしれません。行ったことがないのでよく判りませんが、ブラジルが民族の混血が最も進んでいそうに思います。カルリーニョス・ブラウンみたいな凄い混血性が出てくるし。

時間が経つと、混血してできた音楽は大衆音楽として洗練が進み、民族音楽の側面が消えてしまいます。そうすると、移民の子孫たちはアイデンティティーの確立のため、祖先の民族音楽への回帰を始めます。ジャズでいえばかつてのドン・チェリー(ネネ父)やアート・アンサンブル・オブ・シカゴみたいな感じ。こういうのは結構好きでしたが、当事者ではないせいか、いったん成立したものに後から古色を付けているみたいにも思えました。アイデンティティー回復という意味では、ジャズとは違うけど、ネヴィル・ブラザーズなんかがうまくいってるような気がします。洗練されすぎかもしれないけど。

それから都市音楽側からのアプローチがあります。まずはサンプリング。音楽の搾取という批判もあります。昔は著作権なんてなかったろうし。音楽同士は反応まで進んでなくて、ぶつかって一過性の意外性を生んでいるだけのように思えます。(余談ですが、ブルンディドラムにポップをオーバーダブした魅力的なものを聞いたことがあって、ミュージシャンの名前が判らず今も涙を呑んでます。スネークマンショーでかかっていたという証言があるのですが、ご存知ないですか?) 先日、ピグミーの歌をサンプリングしたディープ・フォレストのことをブログに書きましたが、このような方法はかつてオフラ・ハザを使ったのとかホルガー・チューカイのやつとかいろいろありました。ある時期のブライアン・イーノとトーキング・ヘッズの音楽などは、サンプリングの域を超えてもう別の音楽(エスノ・ファンク?)を生み出していたと思います。

あと、都市側のミュージシャンが民俗音楽やワールドミュージックの愛好家で、これらを紹介するだけにとどまらず自分の音楽に取り込んでいくというもの。そこには愛があります。例えば、ピーター・ガブリエルや最近のデヴィッド・バーン。こういう音楽は作り手だけでなく聞き手にも偏見のない純粋さのようなものを求めるような気がします。実際、別け隔てなく相当量の音楽を聞いてないときついのかも。ウォーマッドのように、民族音楽とワールドミュージックとロックを同じ土俵で演じる場も必要なのでしょう。

既に民族音楽側現地においても都市化が進んで、各地で民族音楽を昇華した新しいポップスが生まれています。今はそれらがワールドミュージックの名で世界に流通していきます。現地では大御所の、ユッスー・ンドゥール、サリフ・ケイタ、ハレド.....彼らも十把ひとからげでワールドミュージックにカテゴライズされています。しかし市場はあくまでも小さいようです。かつてアイランドがボブ・マーレーであてたときのような、大資本による大規模なプロモーションは、もはや期待できません。その後アイランドも、二匹目のドジョウを見つけられず、キング・サニー・アデで失敗しています。(ボブの音楽性が特別受容されやすいものだったのでしょう) 

ロックなど従来の都市音楽側とすると、直に民族音楽に向かい合ってた頃と違って、間にこのワールドミュージックという把握の難しい大衆音楽のカテゴリーが緩衝地帯のように挟まったことで、新しい混血をやりにくくしてるんじゃないかと思います。




文中に載せたミュージシャンの比較的入手しやすそうなお気に入りCDを選んでみました。ブクログのTomotubby's Bookshelf にも入れておきましたので、詳細についてご関心ある方はご覧ください。ただし評はつけてません。

デヴィッド・バーン絡みが三枚も入っているのはご容赦。カルリーニョスはアート・リンゼイ人脈でバーンと繋がっています。ウォーマッド主宰者のピーター・ガブリエルがユッスーやサリフと繋がっているのは当たり前ですが、ユッスーのアルバムにネネ・チェリーが出ていたりしています。それからアーロン・ネヴィルとオフラ・ハザとシェブ・ハレド(とボブ・マーレーの息子ジギー)は、わがドン・ウォズがプロデュースしてました。


最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ブルンディドラム (OZ)
2007-02-10 14:40:22
たぶん“ブルンディ・ブラック”というレコードでしょ。手に入ると思います。
返信する
情報ありがとうございます (tomotubby)
2007-02-11 01:13:53
諦めていたんですが探してみます。
返信する
Unknown (LSTY)
2007-02-13 08:57:55
>ブルンディドラムにポップをオーバーダブした魅力的なものを

 「ブルンディドラム」自体知らないんですが、股に挟んで叩く奴でしょうか?サウンドストリートでかかったみたいですね。

http://blog.goo.ne.jp/ko-ji-1966/e/84f8fa49c85613cb647f3045997a95c1

 ワールドミュージックっていうのは「民族音楽寄り」に見えるんですけど、本質的な部分では全く違いますね。単純化して言ってしまうと、ワールドミュージックっていうのは、民族楽器の音をサンプリングして、シーケンサーを使ってジャストなリズムで鳴らすような物だと。「オルゴールで聴くビートルズ」とかと同じにおいを感じます。
 
 坂本龍一が「ロックは白人が黒人の音楽をかっぱらった物」とか「民族音楽のサンプリングとして最も悪い例の一つがディープフォレスト」とか、そういう事を言っていて、なんとなく分かるのは、同一化しようという意識とか尊敬ではなくて、飽くまでも外から見て表層を真似ようというのが嫌なんでしょうね。
 サンプリング文化にも言えることですが、そこら辺が、言葉で表現するのは難しいのですが、そういう所が肝心なのだというのはなんとなく同調できます。
返信する
Unknown (LSTY)
2007-02-13 11:21:32
 すいません、追記です。上のコメントで使っている「ワールドミュージック」というのは、純正の民族音楽ではなくて「民族音楽を取り入れたスタイルを売りにしているポップやイージーリスニング」のことです。それこそユッスンドゥールとか、女子十二楽坊とか、あと東儀秀樹なんかも僕の中では同じですが。
返信する
民族音楽の定義 (tomotubby)
2007-02-13 13:00:38
ブルンディ・ドラムのライブ演奏を見たことがないのですが、木の椀状のものに皮を張ってある太鼓を地べたにおいて、和太鼓みたく両手にバチで叩いていたような気がします。トーキングドラムみたいに体の脇にぶら下げるのもあるみたい。また素手で叩くのもあるみたい。探している音源は多分太鼓を置いてバチだと思います。テープ回転数を上げているかもしれません。

民族音楽の定義についてですが、民族学や人類学のような学問的な定義だと、多分、民族や社会的文化的宗教的な集団の中で共有され継承されることによってアイデンティティーを確立した音楽。ということなんでしょうが、こと日本においては、欧米以外の国の土俗的な現地音楽、中でも馴染みの薄いもの、みたいなニュアンスで語られてきたと思います。つまりシャンソンやフラメンコやカントリーなんか欧米のものは入ってないという理解。また西欧発で伝わった馴染みの濃いレゲエや一部のラテン音楽も意識的に外されていたような気がします。

このブログでは上の二つの定義がまぜこぜになってたかもしれません。欧米以外の国の、民族や一定集団の中で共有されてきた音楽というようなニュアンスです。

本来民族音楽ありきでワールドミュージックを論じるべきなんでしょうが、今ではワールドミュージックというCDショップの棚割りが確立されてしまい、覗いてみると、シャンソン、ブラジル、ハワイアン、さらにはアジア発のポップスまで、ショップの論理で少数派音楽はみんなそこに突っ込まれています。ここでは、ワールドミュージックを世界各地の都市音楽・大衆音楽、現地で商業化されたポピュラーミュージックという、もっと狭義のニュアンスで書いてみました。それが西欧資本主義によりお金儲けに利用されるかどうかは別にして。
 
それから、西欧あるいはYMOの人たちが民族音楽を引用して曲づくりしたものは、ワールドミュージックから除かれているという認識です。あくまで現地発、です。80年代後半から90年代初頭、YMOの音楽をワールドミュージックの座標に位置付ける動きもあったようですが。

私自身、ダブ・ミュージックは好きだったし、サンプリングされたものも嫌いではないですが、ブルンディ・ドラムをサンプリングした音楽は、欧米資本主義による非欧米音楽の搾取のような捉え方で随分批判的に語られたようです。その音楽をラジオ番組で好んでかけていたらしいYMOの面々も、当時アジア音楽を搾取する日本商社マンのようなイメージを持たれていたと聞きます。なので坂本龍一のディープ・フォレスト批判はちょっとどうかな。と思います。二十年以上前から民族音楽に関心を持って取り組んでいたからといっても、それは程度の差でしかなく、アプローチはディープ・フォレストと似ているような気がします。細野さんはもう少しリスペクトを感じますが。

ジョージ・クリントンもサンプリング歓迎みたいなことを言ってました。彼の場合、お金が入るからでしょうが、コールドカットがイム二アルを使ったことでオフラ・ハザが注目されたように、サンプリングされることによって元曲までが関心を持たれることもあるし、たとえそこにリスペクトがなくても、いい影響もあるのかな。と思えてきました。
返信する
BURUNDI BLACK (tomotubby)
2007-02-13 20:21:10
これこれ~めっけました♪
海外の業者には結構在庫ありますね。
日本の業者は高すぎ。↓試聴可

http://www.cdandlp.com/liste/index.cfm?lng=2&poch=&bargain=&news=&chunksize=48&currency=5&stringt=&spop_id=&exact_search=0&pagination_easy_mode=0&n_ref_list=&general_state=&search_mode=2&srt=3&list_index=2&tete=burundi%20black&stringa=&what=artiste&fmt=0&seller=0&categ_rech=0

http://cisumrecords.com/cgi-bin/search/index.cgi?page=2&cat=dc
返信する

コメントを投稿