今回は、半端でない超ガチ勢な当ブログの読者の方々にどストライクな内容となっている
山蔭神道の鎮魂行を続けられて、「瞬きの谷間」を既に体験された方なら、今回からの解説は実体験と照らし合わせて読んでゆくと、「ああ、そういうことだったのか」と合点がいくのだが、一度でも、鎮魂行や瞑想の体験がない方には、どうしても理解が難しいのではと思われる
だが、「未体験の人間にも何とか分かるような内容」を実体験からまとめてみようと試みた方がいる
そもそもこの本の生い立ちは、筆者パタンジャリが、旅をする様々な瞑想行者達から聞き取り調査した瞑想体験談の集大成を記したもののようである
本書p5 8行
深い森のなかにヨーガのアーシュラマ (僧院、道場)がありました。パタンジャリはそこの院長でした。王の庇護を受けるアーシュラマで、食糧には困りません。そのため、さまざまな思想と行法を有する漂泊のサードゥ (乞食こつじき行者)がしばし腰を休め、また旅立つてゆきます。
p6 9行
パタンジャリは、サードゥたちからの聞き取りを極度に簡潔化したスートラ調の文体に作りかえました。
では前回に引き続き、「ヨーガ・スートラ」について、参考になる部分を解説してゆく
この著書は、実践的な解説部分が大変参考になる、一方、仏教的な部分は参考にしない、人体の生成などではカタカムナの内容と異なる部分もある
神道は回りくどいことを嫌う、あまりに複雑すぎる概念は、集中には無用に思う
瞑想の種類は、沢山あり解説すれば切りがないが、「まずは、やってみる(実践)」、「やって、感じて、考える(正しいやり方に沿っているか)」、それには、最低限必要な知識でまずスタートする
太古神道の鎮魂法も瞑想法の一つといえる
あとは、「何か変」、「何かうまくいかない」と感じることを大切にし、内なる自分が感じている違和感に常に気をくばる、そしてそれは何が原因となっているのかを感じとり、原因を排除し、改善することで良いと思う
「何が正しい状態」かを知っているのは、自分の心、直観は自分の心の声、「感じたこと」を何より大切にする
「何が間違っている」かを知っているのは、自分の心、直観は自分の心の声、「感じたこと」を何より大切にする
「強力な集中」とは、太古神道の直日霊、神の分霊、カタカムナのアメノミナカヌシ、と言われる「自分の核になっている存在」が感じていることを、ダイレクトに感受するために必要なこと
現代人は、浅いレベルの思考を優先させてものを考える癖が付いてしまっている
それが、自分の心が発する声を受け取れなくしている
まずは、その癖を無くした状態を体験して、体得することを目指す
「自分の核になっている存在」は常に正しい判断を下している
あとは、そこにアクセスするために、「集中」すればよい
ヨーガスートラの解説の目的
「集中」をするための方法と、「集中の進行度合い」をはかる体感とはどうのようなものかを参考にする
ポイント
○ 著書の仏教的内容において「カルマ」の概念はあえて参考にしない
その概念は、太古神道の教えに反する、常に心身の「清明」な状態を保つためことが基本なので、無用な概念と思う
つまり、精神を暗くする概念は、当ブログでご紹介した、中村天風氏の完全積極精神、籐平光一氏の心身統一法、柳川昌弘氏の「見の目弱く、観の目強く」『五輪書』など、心身をリラックスさせ、不動心を確立させ、人間の最も強い状態をつくり、潜在能力をフル稼働させることの妨げになる
過去や未来に思考が縛られることを避け、今、今、現在に100%焦点を合わせて、自らを今ここに完全集中することが重要に思う
過去や未来に焦点を向けさせるカルマの概念は、「集中」の「障り」にしかならないと感じる
図解 ヨーガ・スートラ 著者・作図 伊藤武 (有)出帆新社
より敬意を持って引用させていただく
著書引用部分 茶色文字
中村天風 悲運に心悩ますな 著者 広岡達朗 幻冬舎
より敬意を持って引用させていただく
著書引用部分 青色文字
ブログ主解説部分 緑色文字
p115 3行
彼 (心の安定を得たヨーギン)の支配力は、極微のものから極大のものにまで[及ぶ]。
ヨーギンの心の支配力は、すべての現象界に及ぶ
p115 12行
心の安定を得たヨーギンは、元素や原子を操作して、この世を意のままに造形することができよう。このテーマは、三章「超能力ヴィブーティ」で展開される。
心が意志マナスの支配下に入ったとき、その心は、大宇宙の神秘を映しだし、行為カルマを駆り立てるサンスカーラ (記憶因子☞ P五三)そのものを含めた、心の微細な成分を探査するための道具ツールとして用いることができる。
この心のコントロール、この極微〜極大にフォーカスする能力は、ゴールの独存(解脱)そのものではない。ヨーギンが最終ゴールに達したことを意味するある種のパワーがもたらされた、というのではない。
むしろ、それは、心を道具として訓練した明確な証拠である。そして、心は、ツールとして、以前には想像もできなかった方法で使われる。ヴィヤーサは註している。
心は、最も微細なものパラマーヌに入るとき、原子パラマーヌのなかに確固たる地位を得る。
最も巨大なものパラママハトウに入るとき、確固たる精神の地位は大宇宙パラママハトウにまで達する。
彼の偉大なパワーは、極微・極大の双方に沿って延びる間、いかなるものにも妨害されることはない。このパワーに充ちたヨーギンの心は、習慣的な実践のための[権威づけなどの]精神的装飾の必要性のなかに、ふたたび立つことはない。
ヨーギンの心の支配力は、すべての現象界に及ぶ、しかも無敵らしい、だがここが最終ゴールではなく、さらにその先もあるという
道半ばでも、「覚醒したヨーギンの心」にあらがうものは、支配力発動により、問答無用!一網打尽! もはや、誰にも止められない!?
p241 3行
なお、最古層のヴェーダ文献では、プラーナやアートマンやアーユスは、「光 /エネルギー」をあらわすヴィラージ (ローマ字表記省略)とも渾然一体になっている。つまり、古代インド人にとって「呼吸、生命、霊魂、光」は切り離すことのできない、まとまった観念だったようだ。
ゆえに、ヨーガにおいて、「プラーナをイメージする」ときは「光を観じる」、ことが、秘義というかコツになってくる。
「呼吸、生命、霊魂、光」はまとまった観念
だから、「呼吸」のコントロールを完全に体得すること必要
p249 4行
制感プラティヤーハーラは、ほんらいの対象と離された諸感官が、あたかも心そのもののようになること。
p250 11行
もし、家 (身体)の住人が、開け放たれた窓からそそぎこむ風光や音や香りの刺激に屈するならば、彼は道を失ってしまうであろう。ぎゃくに、呼吸のコントロールがあれば、感覚は欲望の対象を追いかけまわすをやめて、内へ向かう。そして、人は感覚の圧政から解放される。
かくて生ずる感覚の完全なる統御が、「制感」だ。
そこでは、感覚が抑制される。それには、周囲の世界だけではなく、おのれの心や感覚がつくりだすものに対しても完全なる離欲が求められる。なぜなら、これらも内なる自己にとっては、外部の対象だからだ。
呼吸のコントロールにより、雑念を排除できる、雑念(外部の対象)の排除があと、感覚は内なる自己へと向かう
p251 9行
「制御」は、意志的努力によって感覚をねじ伏せること。
「統御」では、修行の結果、心が一定の状態ーおそらく八支則 NO.6「凝念」に達し、おのずから感覚の影響を脱するのだ。
ならば、制感は、感覚を抑制するという独自のプロセスを構成しているのではなく、むしろ、
ー「凝念」の結果
としたほうがよいのかもしれない。ゆえに、阿闇梨は前々経で、プラーナーヤーマにより意は、制感ではなく、「凝念に適合」としたのである。これは制感を凝念の後に配するいくつかのヨーガ文献によっても裏づけられる。
しかし、阿閣梨が制感を凝念の前に置いたのは、外的・内的という基準 (☞Ⅲー1) にしたがったためであろう。次章Ⅲー 1で「心がある処ところに結びつくこと」と定義される凝念においては、粗大な身体に属する感覚器官は参加しない。
かくして、心は外界の刺激に対しては不動になる。そして問題の焦点は、内心に移る。
「粗大な身体に属する感覚器官は参加しない」とある、下の図の「五感覚器官」は使わない、静止させているということ
p23 「(図1)サーンキヤの構造(プラクリティの転変)と25原理の教えかた」より引用
p254 3行
凝念ダーラナーは、心の[活動が][ある]処ところに結びつくこと。
p254 6行
この凝念→禅定→三昧のプロセスを経て、集中力が最大限に高められ、神通力を可能にする、
―サンヤマ (という魔法のカ シャクティ)
集中力の最大限発揮=神通力!!
p254 24行
まず知るべきは“ダーラナー”の意味。「凝念」のほか「集中」「執持しゅうじ」と訳されるこの語は√d h r .(支える/保持する)の派生語で、
ー(集中を)保持すること。
思念、集中、その状態に留まる
p255 11行
あるとき、王子たちの武術の師であるドローナは、弟子たちの弓の上達をテストするためにコンテス卜を催した。
彼らはじっさいに的 (木に据えつけた木彫りの鳥の目)を射る前に、各々、視界に映じているものすベてを説明するように命じられた。
木の子細について説明する者もいれば、鳥のことをいう者、景色の絵のような美しさを雄弁に語る者もいた。
アルジュナの番が来た。彼はドローナに告げた。
「鳥の目だけが見えます。ほかは何も見えません」
アルジュナの矢のみが的を貫いたことはいうまでもない。
「凝念」の境地では、「集中→対象」以外の心の作用(雑念)がまったくない。的(対象)だけが見えて、ほかは何も見えない。
「「凝念」の境地では、「集中→対象」以外の心の作用(雑念)がまったくない。」とは、「無念無想」の境地ではないだろうか
中村天風氏はインドの山中での出来事から、自分が「無念無想」なった時の体験を語っている
「それがインドの山の中でインド哲学を一生懸命研究してやっとわかった。三年は無駄ではなかった。一挙一動どんなささいな行動でも、みんなそれが自分の心のなかの思い方や考え方の表れであると、ピシャッと気づいた。
どんなことで気づいたかというと、きわめて小さな動機でねぇ、インドの山の中でした。
もう死にやしないかしらん。毎日山の中で座ってるだけで、このまま名も知れない山の中で死んじまうんだと思うと息苦しくなったり、脈が乱れたりした。
そのとき、フウッと膝頭のところに妙な感じがした。何か、軽石でこすられているような気持ちのね。ヒョイと目を開けたら大きな豹がね、目の前に腰を据えて私をジッと見てるんだよ。もう病の苦しさも、死にゃあしないかという気持ちも何にもなくなっちゃった。恐ろしい気持ちもないんだよ。ただ、その爛々らんらんとして光る豹の目をウッと見すえて、にらめっこしたわけだなあ。にらめっくらという気持ちはないんだよ。ハッと思って、ハッと見ただけだ。そうしたら、スーッと向こうへ行っちまいやがった。
無念無想に打たれたんだな、むこうが。おっかないと思たら、パッと来るだろうけと~」
このとき天風さんは、「すべては心の持ち方しだいだ」というカリアッパ師に学んだインド哲学の真理を実感したのだろう。それまでの病気や死への不安が、突然現れた豹と向き合ったとたんに吹き飛び、無念無想で見返したら豹はスーツと離れて行った。
この体験と発見が、のちに生まれる天風流人生哲学の根幹になる。
例えば、あなたが、「無念無想」状態の誰かに、まばたき一つせずに、じっと見られたら、こわくて逃げ出すだろう
その人物は、外界の現象に影響されたり、己の湧き上がる表層意識の波も無いのでそれらから解放されていて、何ものにも動じない状態(不動心)、己の純粋な意識のみをよりどころとしている
いいかえれば、太古神道の直日霊と同一の状態、カタカムナでいうところの潜象存在と同一の状態、自分の命の核であるアメノミナカヌシと同一の状態、カムからの分霊と同一の状態、ではないだろうか
私の実体験からすると、この状態は最も人間の強い状態となり、すべてのとらわれから解放されたて、カムの意識を全開させている状態と思われる
カムとは現象化前の潜象状態のチカラ、すべての現象化が発生する前段階である
その状態を感受するとは、現象に変化を起こすことを可能にする
さらに進んで、感受のみならず、そこに思念を持ち込めば、現象の変化を意図を持って起こせることになる
以下動画は、人間が観察することによって現象を変化させることが可能という実験
もしも、カムの意識を全開させている状態に留まり続けたら、あなたはどんな力が発揮されるだろうか?
「ええっ!そんなことあるのか!?」とあなたは思われるかもしれない、だがインドの行者達は、「それ、常識」と返答するだろう
ヨーガ・スートラでは具体的にそれらの超人ぶりを当たり前に解説している、これは後日掲載予定
だから、以下動画の「ヨーダ先生のフォース(=ヨーギンの心の支配力)は、現実に存在して、鍛錬も出来るんだよね、インド人嘘つかない」ということらしい
合気道の創始者、植芝盛平氏は著書「合気道技法」の道主言志録(p264~)において、こう語っている
「植芝の合気道には、敵がないのだ。相手があり敵があって、それより強くなりそれより強くなりそれを倒すのが武道であると思ったらそれは間違いです。真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは宇宙そのものと一つになることだ、宇宙の中心に帰一することです。」
「神業といわれた昇神直前の技」と解説されているこちらの動画、ヨーダ先生のように、植芝盛平氏が触れずに人を吹っ飛ばしています
p255 図 より引用
p256 29行
ダーラナーとは、一点に集中すること。言葉を換えれば、心中に断片的に明減する思考のかけらをすべて静めること。それは容易ではない。心を、長いあいだの精進によって、じょじょに清澄な水晶の状態に磨きあげてゆく。
ほんの数秒のダーラナーであっても成功だ。ダーラナーもまた記憶因子サンスカーラを生む。そのダーラナーの種子ビージャが、ダーラナーを増殖させるからである。それが稽古けいこというものだ。
ダーラナー(一点集中)を数秒間でも成功させたら、あとはくり返し練習して、定着させることが可能になる
p257 3行
禅定ディヤーナとは、そこ(凝念ダーラナー)において、想念が一点に集中しつくす状態。
八支則 N o. 7、サンヤマへの第二歩が「ディヤーナ」。
英訳はメディテーション (meditation) 、つまりは瞑想だ。
p257 12行
「禅那」は略して「禅ぜん」。また、この「禅」にディヤーナの意味を取った「定」を重ねて、「禅定ぜんじょう」。本書ではこれを訳語に選んだ。それでは、ディヤーナでは、何を「定」めるのだろう?
ディヤーナは√dhyai(想う)が語根。つまり、想いを定める。
p258 18行
「禅定ディヤーナ」は、前経の「凝念ダーラナー」の発展形である。
ダーラナーでは、心を対象にバンダする(結びつける)。
意がー〇〇 %対象に注がれ、それ以外の思考のかけら、雑念がまったくないときに、
― ダーラナーの瞬間
がある。が、つぎに、注意散漫の瞬間が来る。意は、雑念を離はなち、念を凝こらす対象に戻る。
・・・・・・雑念・凝念・雑念・凝念・雑念・・・・・・
これが、何度も何度もくり返される。だが、その注意散漫、雑念が起こらず、
・・・・・・凝念・凝念・凝念・凝念・凝念・・・・・・
と毎瞬毎瞬の心の活動がダーラナーに占有され、唯一の対象に集中が途切れることなく続けられるとき、ディヤーナと呼ばれる。
p258 13行
三昧サマーディとは、それ(禅定ディヤーナ)において、じつに対象のみが光り輝き、おのれ自身は空シューニャのごとくなること。
八支則のラストが「サマーディ」。「三昧ざんまい」と音訳される。
p258 17行
すなわち、「瞑想の対象に心をしっかりと置くこと」。
前経の「禅定ディヤーナ」では、<対象>に集中する<自分>がいる。
心を集中するための意志=努力の意識が、いまだ、ある。
<自分>が<対象>に集中することに没入するとき・・・・・・
自我意識は消滅する
<自分>が<対象>の対立、ないしは二元性は融解し、《対象》だけがある。これが、ディヤーナがサマーディになるとき。
― <対象かれ>は<自分われ>。<われ>は<かれ>。
もはや、<対象>と<自分>を隔かくするものは何もない。
これが、彼我不二ひがふじの、サマーディの境地。これは「すぐれた知プラマーナ」(Ⅰー7)の極まった相すがただ。
般若ブラジュニャーの出現は、このサマーディを前提とする。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仏教用語の般若(はんにゃ)とは、サンスクリット語: प्रज्ञा, prajñā(プラジュニャー)、パーリ語: पञ्ञा, paññā(パンニャー)に由来し、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧のこと[1]。
ここまでお読みいただいて、「わたしも覚醒して、現象を実際変えられるかやってみようかな?」という方へ
瞑想ではなく、覚醒するなら日本にある鎮魂法でという方へ
本を買わなくてだいじょうぶ!無料!
鎮魂法は「その11」からはじまる
鎮魂行って何がどうスゴイの?
いったん頭の整理、鎮魂法のおさらい
なぜ鎮魂法、丹田呼吸が脳細胞に変化をもたらすのか、科学的に解説
日本の上古代文明カタカムナがぶっちゃける、「感受」するって何?ぶっ飛ぶ内容
植芝盛平氏の直弟子、心身統一合氣道の籐平光一氏の氣の呼吸法、心身最強になって「天地と一体」になれる
神様のエネルギーは渦、そして山蔭神道の鎮魂法はそのエネルギーを
この回の記事の内容をお読みになり、実行すれば覚醒できるのに、まだ覚醒の先があるので
次回に続く