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私は、線香やお香が苦手である
臭いが服に、髪にあらゆるところに付いてしまう
そんな理由で、不要になった線香を近所の方にお譲りしようとしたとき
お一人目の方は、仏壇はあるが線香は焚かないという、理由は私と同じで臭いが嫌いという
しかし、お墓用にならとのことで、差し上げた
もうお二人目の方は、ご家族の方が線香の臭いが嫌いで、ごく稀に一本焚いても決まった銘柄で、かつ家中の窓を全開にしてとのことで、不要とのことだった
線香が嫌い派が多いことに驚いた
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それもそのはずで、和食においては、強い匂いや刺激の強い味覚のものは無い、あってもその程度は外国料理とは比べものにならない程低刺激だ
外資系の経営のホテルは、サービスのつもりだろうが、アロマの匂いがきつく髪、服とあらゆるところについてしまう
ホテル内の高級日本料理店へ行く前に変な匂いが付いたら料理は台無しだ
こんなホテルに行った後は、「早く一風呂浴びたい」と感じてしまう
匂い一つとっても、日本人の感覚は鋭い
自然であることと、不自然なことの差に敏感であるともいえる
自然な状態を完璧なこととする感性は、自然な状態に戻すことを良しとする
「祓い浄め」をしたくなるのは、「不自然がダメだから、自然にする」という感覚も含まれているように思える
人間も動物なのだから、不自然な環境は身体に良い訳はない
頭で考え出したことは、「信仰心」や「高級感」という理屈などを付ければ、一見説得力がありそうに思えるが、頭で考えた人工的な理屈は、自然な素直な感性からすれば、所詮、不自然なことであって、やはり長くは続かない
古代より続く太古神道がしっくりくるというのは、一言で言えば「無理がない」のである
日本人の感性からして自然なのである
「神道の生き方」は絶版、現時点で古本は存在するようだが、やはり数は少ないのでいつ入手困難になるかわからない
故山蔭基央氏は戦後の日本を憂慮しておられた
僭越ながら一助となるべく
山蔭神道家第79代故山蔭基央氏の著書「神道の生き方」学研パブリッシング社p ~
心より哀悼の意を表し、敬意を持って引用させていただく
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p250 3行
神道の極意は禊祓にある
正しい信仰という意味では、現在、世界を支配している宗教は、ことごとく正しい信仰であろうが、それを、より高次元の世界からながめるならば、どの段階・どの次元で正しいことなのかが問われることになる。したがって、すべての宗教に、高さのランク付けがされるわけで、きわめて差別的な結果をもたらすが、しかたのないことである。
中世日本の法律である『延喜式』の斎宮さいぐう(伊勢神宮斎主さいしゅの宮)の条においては、毎日の神事のなかで、次の言葉が忌むべきものとされ、言い替えられていた。
「仏を中子なかご(厨子ずしに入っているので)、経を染紙そめかみ(事実、黄土色の紙である)、塔を阿良良伎あららぎ、寺を瓦葺かわらぶき、僧を髪長かみなが、尼を女髪長めかみなが、斎食ときを方膳かたしき、死を奈保留なほる(直る)、病を夜順美やすみ(息み)、哭なく(泣く)を塩垂しおたれ、血を阿世あせ(汗)、打つ(鞭打刑)を憮なづ、宍ししひら(獣肉)を茵くさびら、墓を壌つちくれ」と言え、と。
この忌詞いみことばは、斎宮においてだけでなく、宮中神事のある期間は厳重に守るものとされていた。これが神道の感性であって、文化としての仏教は認めるものの、仏教を清浄なものとは認めないというものである。
これは、文化(哲理・人生訓・建築・造形芸術・絵画)としては、受け入れるものは多々あるが、感性としては受け入れられない霊性であるとの差別である。これはあまりにも鋭い峻別だが、人工宗教の霊性の位階とすれば、しかたもない。
峻別といえば、太古神道の禊と現代の神社神道の禊にも、大きな感性の差があり、このため、後生世界に入った人々(帰幽きゆうの人々)を祀るにあたっても、祓い浄めの作法が異なる。たとえが、山蔭神道などの太古神道の場合は、神葬祭で用いる祓麻はらいぬさは八本におよぶ。執物とりものである祓麻を使い捨てにする感性によって、祓麻は祓戸はらえど大神の憑代よりしろとされるのだ。祓麻は汚れを吸い取る物で、消耗品として何本でも使い捨てにしないといけない。このことは、神学や哲学が立てる倫理ではなく、事実にもとずく感性にある。
かつて、伊勢神宮の御師おんしたちは、参詣者の祈禱に用いた祓麻は、そのままお持ち帰りをさせて、他の人には用いなかった。その祓麻を祓はらい筥ばこに入れて持たせたのであって、もう二度と使用しないという意味をこめて「お祓い筥にする」という言葉が生まれた。このことも重要な事実で、参詣者たちは祓い筥を大切に扱い、伊勢大神宮のみしるしとしたのである。
こうした感性があるということは、神道は教祖がつくった人工的な哲学ではなく、きわめて自然なものであり、そのランク付けは高貴上品なものであることを示すものである。
かくて、太古神道の信仰心には、祓い浄むることの重要さを強調する面が強く、後生世界(死後世界)では光華明彩なる神霊に近侍きんじできる日を求めて修行するのが、神道人の後生とされる。
そして、それらの霊人たちは、意識を高め、感性を浄める修行を惜しまない後生の生活があるとしているわけで、後生の霊人は、霊神として崇められるまで浄化しないといけないといわれるわけである。
また、かくあるごとく祖霊祭祀(先祖供養)を行うのが、太古神道の方式であり、これが人の進化・向上をうながす祭祀とするものである。だが、今の神社祭式は、こうした感性を失っている。それは、明治以降の神道が、人工的な宗教に転落したからであろうと推測する。