丘の上の、大きな木の下で、カナリヤ男は草の上に座っていた
木陰から差す日差しは、昔と少しも変わらなかった
まるであの時から時が流れていなかったかのように
遠くで小鳥がさえずっている
腕時計に目をやった、約束の時間はかなり過ぎている
遠いあの日ここで、私は妻を待っていた
何もこわいものはなかった
こわいものがあることすら知らず
普通に暮らすということが、どれほど難しいことかも知らなかった
もし妻が来なかったら
私は何をしてあげられるだろう
私に会うのが嫌になる程、傷付いてしまっているのだろうか
「かわいそうに・・・」
私は妻にとって、きっとひどい人間だ
別れたら、妻は身をすり減らすこともない
もうこれ以上、関わらず、そっとしておく方が良いのだろうか
「つぐなう、何をすれば」
離婚届を書いて渡し、残された自宅の土地をあげ
残った欲しいものは何もかもあげよう
日々戦闘に明け暮れ、古傷だらけになってガタが来出した身ひとつで
「他に出来ることは何か?」
そんな問答をして、出来ることの少なさに、自分の無力さを痛感していた
そして丘の下を眺めた
やはり、誰一人来ない
草原を渡る風が、新緑の草を波立たせ
まだ肌寒いその風は、私を世界から孤立させた
「遅すぎたのだ、何もかも」
初夏の日差しはとても強く
遠くの景色は白光の中で輪郭が溶け込んでぼやけて霞んでいた
丘の下で小さい白い点が霞んでいた
その白い点は、こちらに近づいて来ているようだ
輪郭が見え始めた
白い点は、日傘のようだった
やがて、近づく日傘の動きがピタリと止まった
日傘は右に、左に、と大きく何度も揺り動かされた
カナリヤ男は丘の下へと走り出した
改造人間炭鉱のカナリヤ男 終
解毒法はこちら「その1」からはじまる
鎮魂法は「その11」からはじまる