萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第31話 春隣act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-01-05 23:56:18 | 陽はまた昇るside story
2つの想いへの覚悟、




第31話 春隣act.2―side story「陽はまた昇る」

河辺駅10:58発の青梅線に乗り込んで英二は、ほっと息を吐いた。
雲取山から青梅署に戻ったのは8時半、それから武蔵野署へ射撃訓練に行って青梅署に戻ったのは10時半だった。
携行品返却と着替えを済ますと用意してあった鞄を持って、吉村医師の診察室に顔だけ出してから予定通りの電車に乗り込んだ。
まだ11時前だけれど随分と今日は充実したスケジュールだったな、すこし微笑んで英二は座席に座った。
座って眺める車窓は白銀の街と山脈が、冬晴れの青空にあかるく真白でいる。
こういう冬景色が英二は好きになった、けれど山岳レスキューの立場としては冬山の脅威を思わざるを得ない。

― そして冬山も、奥多摩と長野や富山では様相が違う

心に独りごちながら英二は鞄から一冊の本を出してページを開いた。
『レスキュー最前線 長野県警察山岳遭難救助隊』長野県警の山岳レスキュー実録書になる。
いまと同じようにクリスマスの朝には、富山県警山岳警備隊の実録書を読みながら電車に座っていた。
ふっと心裡へと思い出された山岳警備隊の言葉が低い呟きになって口をつく。

「…山岳警備隊は、華々しく世界の名峰に登頂するアルピニストにあらず。
 いついかなるときも、尽くして求めぬ山のレスキューでいよ。目立つ必要は一切ない」

この一文に最初はショックを受けた。
生粋の山ヤで最高のクライマーである国村には、そうした枠組みは当てはまらないだろう。
けれど自分は国村のような天才とは違う、それなのに国村と最高峰を登る約束をした自分が恥ずかしかった。

自分は天才じゃない、自分だけでは最高峰を本気で目指す発想すらない。
富山県警のプロフェッショナルなクライマーですら、山岳レスキューの誇りにかけて名峰の登頂を望まないのに。
それなのに自分が登頂を目指していいのだろうか?大逸れた約束を自分はしてしまったのだろうか?
そんなショックでこの一文を見つめながら英二は、クリスマスの朝の電車に揺られていた。
けれど見つめるうちに2つの言葉が、そっと心に寄りそって自分の想いとしっくり馴染んだ。

『尽くして求めぬ』 『目立つ必要は一切ない』

この2つの言葉が、自分が山岳救助隊を志願した想いと重なっていることに気がついた。
英二が山岳救助隊を目指したきっかけは、警察学校の山岳訓練で周太を救助したことだった。
救助した周太を背負った時は不慣れで肩も背中も痛んだ、けれど周太の生命と安心を背負える喜びの方が英二には大きかった。
もっと周太を背負える自分になりたい、周太の辛い運命を支えて救けるためのヒントが欲しい。
ただ「周太に尽くしたい」そんな想いが山岳救助隊への興味に繋がった。

そして帰寮してから警視庁山岳救助隊の資料を開いた英二を、一枚の写真が心をノックした。
白銀の雪山に立つスカイブルーのウィンドブレーカー、その背中は誇らかな自由と自信がまぶしかった。
そんな山岳救助隊の写真を見て英二は心から憧れを抱くようになった、この背中を自分も備えたいと願った。
そして向き合った山岳救助隊の姿は、英二が立ちたい生き方そのものだった。

職人気質のクライマーは「山ヤ」と呼ばれる。
そんな山ヤの警察官として山岳救助隊は、峻厳な山の掟に立つ危険と静謐に生きていく。
日々の任務に遭難者の人命救助と自殺者の遺志を抱きとめ、山に廻る生と死に向き合う穏やかな強さがそこにある。
ちいさな人間の範疇ではない世界「山」で、生死を超えて「人」の想いに尽くしていく山ヤの警察官の姿。
そういう生き方がまぶしくて自分もそう生きたいと心から想えた。

また山岳救助隊は警視庁山岳会の中核として、登山を愛して山岳会に所属する警察官たちとの紐帯も持つ。
そうした横の紐帯を築くことも可能な立場は、本来は縦社会の警察社会でも誇らかな自由を持たせてくれる。
この立場に立ったなら、警察社会の暗部へ向かわざるを得ない周太を救うことが出来るかもしれない。
そんな可能性に気がついて英二は、警視庁での山岳レスキューについて任務や所属などを調べた。

そして英二は山岳救助隊になることに2つの意味があると気がついた。
1つには周太を警察官として援けられる立場を得る、もう1つは「山ヤ」が自分らしい生き方になるかもしれない。
その2つを手に入れられたら、ひとりの男としても警察官としても、周太を背負うことが出来るかもしれない。
そう気がついて英二は山岳救助隊を志願し努力を重ねて、今の立場と日常を手に入れることが出来た。

だから英二が山岳救助隊である理由は、英二が名峰を目指すアルピニストだからではない。
ただ周太に尽くしたかった事がきっかけで、そして山で出会う誰かのために尽くしたいと思うようになった。
そんな生き方はただ「山ヤで山岳レスキュー」であるだけでいる。
こんなふうに自分の原点に気がついたとき英二は、自分が何を求めて国村と約束をしたのか気がつけた。

― あくまで自分はアイザイレンパートナーとして最高のクライマーに尽くしたい。
  自分の山ヤとしての夢も重ねて友人で最高のクライマーを支えて叶えたい、
  そのために自分は、最高の山岳レスキューになりたい。

最高のクライマーの無事を守るため、その専属レスキューとして共に最高峰へ登っていく。
だから自分は最高の山岳レスキューになる必要がある、そのためにはトップクライマーにだって自分はなっていく。
そんなふうに自分は山ヤと山岳レスキューの誇りを懸けて、国村の生涯のアイザイレンパートナーでいたい。
そうして最高のクライマーをサポートして最高峰へ登って、最高峰から周太へと想いを告げたい愛したい。
そんな最高の山岳レスキューとして立場と発言力を得たなら、周太の運命だって変えることがきっと出来る。

「…いついかなるときも、尽くして求めぬ山のレスキューでいよ。目立つ必要は一切ない」

そっと低く呟いて英二は微笑んだ。
自分は目立つ必要はない、ただ尽くしていく最高の山のレスキューになればいい。
それがきっと周太を救い幸せにできる、自分に可能な唯ひとつの道になる。
そして自分も幸せな生き方―山ヤの誇り、男としての夢、大切な友人と叶える夢、そして生きる意味。全てが手に入るだろう。
だから自分は努力を惜しみたくない、だって直情的な自分は本当に欲しいものは必ず手に入れたいから。
その「欲しいもの」を想いながら英二は、左腕のクライマーウォッチに穏やかに微笑んだ。

―俺がほんとに欲しいものはね、きっと、ひとつだけ

英二は良くも悪くも欲がない、そして地道な生き方を好んでしまう。
だから登頂する時すらも国村が一番乗りで英二は全く構わない、むしろ2番手のほうが満足と思ってしまう。
だから今朝も国村に言われた通り、欲がないから相手の期待に応えようとして変な遠慮もしてしまう。
けれど本気で欲しいものは絶対に掴んで離さない、傲慢なほどの直情が自分にはある。

きっと自分はその「欲しいもの」を離さない為になら、どんなことでも出来る。
その為になら自分は遠慮なんかしない、手に入れる為なら全てを懸けたって後悔なんか出来ない。
だってどんなに考えても否定しても、自分の「欲しいもの」への想いを誤魔化すことは少しも出来なかった。
いつだって気がつけば願ってしまっていた、唯ひとりの隣を自分の居場所にしていたい、それだけが欲しい。
だって自分は実直で直情的で思ったことしか言えない出来ない、だから本気で欲しかったら諦められる訳がない。
そんな想いに英二は、左腕のクライマーウォッチを見つめて微笑んだ。

―ね、周太?俺はね、本気で周太が欲しいんだ

このクライマーウォッチはクリスマスに周太が贈ってくれた大切な腕時計。
これを贈ってもらった英二は、元の自分のクライマーウォッチを周太の左腕に嵌めた。
それは山岳救助隊志願を決めてからずっと身に付けていた、英二の大切な時間を刻んだ腕時計だった。
そのクライマーウォッチを周太から望んで「欲しい」と言ってくれた、そして英二の時間を欲しいと望んでくれた。
そんな周太の行動と言葉は「婚約」の通りで、英二は周太に「これは婚約だよ」と告げて入籍の約束を求めた。

―入籍、

開いたページを読みながら心裡に呟いてみる。
男同士でも養子縁組の形で入籍をして、事実上の結婚をすることが日本でも許されている。
まだ卒業配置の立場である今は、そうした手続きを進めることは難しい。けれどいつか時が来たら自分は必ず周太と結婚する。
だって自分はその「いつか」のために努力して全て懸けている、だから諦めることは絶対にもう出来ない。
その「いつか」の許しを今日は周太の母に求めるためにも、英二は川崎の家に行く。

  あの子の最期の一瞬を、あなたのきれいな笑顔で包んで、幸福なままに眠らせて
  そして最後には生まれてきて良かったと、息子が心から微笑んで、幸福な人生だと眠りにつかせてあげて欲しい

周太の誕生日に彼女はそう告げて、英二に息子を託してくれた。
そんな彼女は息子が幸せならと入籍も許したいだろう、けれど英二には気懸りなことが1つだけあった。
その気懸りが彼女を「入籍」に頷かせることを躊躇させるかもしれない。
もし彼女にNoと言われたら、自分はどうすればいいのだろう?
そして自分が入籍の許しを乞うこと自体が、彼女にまた1つ重荷を背負わせることになるかもしれない。

―今日この話を彼女にすることは、本当に正しいことだろうか?

ずっとそのことを考えているうちに、今日になってしまった。
きっと周太は自分が英二と入籍することに伴う問題には、何も気がついてはいない。
その問題を周太自身に話していいのかすら英二は、まだ答えを見つけられないでいる。
あの純粋で端正な親子に自分は重荷を背をわせるかもしれない、いったいどうしたらいいのだろう?
こんなふうに考え込んでいる自分は真面目すぎるのかな?ふと英二は今朝の国村の言葉を思い出した。

  おまえならさ、我儘もきっと正しいよ

周太との「入籍」を望むこと、これもきっと我儘だ。
欲しいものを手に入れたくて自分は我儘を言いたくて仕方ない。
この我儘を自分は周太と彼女に告げてみたい、そして受け留めて欲しくて仕方なくている。
いつも周太は英二の全てを受け留めてくれる、そんな周太の深い想いは英二を安らがせてくれる。
その安らぎを今すぐ欲しくて仕方ない、やっぱり今日話しておきたいと願っている。ページを捲りながら英二は呟いた。

「…うん、富士の前に話したいよな」

再来週には2泊3日で、富士山の雪上訓練と登頂をする予定になっている。
標高2,000mを超える登山は英二には初、本格的な雪渓も初めてだった。
そして国村と高山でのアイザイレンパートナーを組むことも初めてになる。
この富士山での訓練は、英二が国村と最高峰を踏破する可能性への試金石にもなっていく。
英二にとって未踏の標高2,000m超、森林限界を超えた雪山の世界が富士登山訓練になる。

森林限界を超えると風雪を遮るものが無くなり、直接の風雪に煽られ転落や滑落の危険が増してしまう。
そして岩の露出も多くなるために的確なアイゼンワークが求められる。
富士山は日本の最高峰だけれど冬山のレベルとしては比較的ハイグレードではない。
けれどベテランクライマーでも特有の突風に煽られて滑落死している。
山はどんな低山でも危険がある、そのことは3ヶ月超の山岳救助隊員としての日々から身に染みている。
だから今回の富士登山訓練は英二にとって、未踏の経験としても心構えが必要だった。

―それでも、楽しみな気持ちのが大きいな

森林限界を超えた雪山の世界。
警察学校の学習室で見た資料、青梅署独身寮で借りた資料、そして御岳のクライマーだった田中が撮った写真。
どの写真でも写っているのは、雪と氷が支配する世界の峻厳と白銀の荘厳な美しさだった。
人間の力など及ばない世界、今いる場所よりも遥かに空へと近い場所。

―そこへ立った時、自分は何を想うのだろう?

左腕のクライマーウォッチを見て英二は微笑んだ。
日本最高峰の富士山、そこで自分はきっと周太のことを想うだろう。
それから何を想うだろう?きっと森林限界を超えた高山での山岳レスキューについても考えるだろう。
いま開いているページはそんな現場に立つ、長野県警察山岳遭難救助隊の実録が綴られている。

警視庁山岳救助隊の英二は管轄の奥多摩が標高2,000m以下のために、こうした高山の現場に立つことは無い。
けれど国村とアイザイレンパートナーを組むための登山訓練で、これから高峰へと登っていく。
それら高峰ではどんな遭難事故が発生する可能性があるのか、そして最適の対応はどうするべきか。
そんなヒントを少しでも欲しくて英二は、他管轄の山岳レスキューの資料を求めては読んでいる。
こうした国内の高峰での訓練が今シーズンは積まれていく。
そして英二の卒配期間が終わり本配属となり次第、国村と世界の高峰への踏破が始まる。

世界の高峰への踏破、その時には標高8,000m超の現場に立つことになる。
そこでは簡単に救助要請など出来はしない、登山の大原則「登山は自己責任」が当然のルールとなる。
そして国村は生粋の山ヤとして誇り高く、自身が選んだ英二以外とはアイザイレンを組むつもりが全く無い。
だから国村のレスキューはアイザイレンパートナーの英二が務めるしかない。
最高のクライマーで大切な友人の国村、その生命と山ヤの夢を守れるのは自分しかいない。
そうして国村を守ることが自分に立場と発言力を与えてくれることにもなる、そして周太を援けることも出来るだろう。

そんな世界への第一歩が再来週の富士登山訓練になる。
きっと周太とは富士登山前に会えるのは今日が最後になる、だから今日は周太とその母にきちんと許しを乞いたい。
そして心にも1つ決着をつけてから、その第一歩へと踏み出せたらいい。
そんな想いで英二は本を閉じると、中央特快に乗り換えるために立川駅で降りた。


新宿駅で中央特快を降りると、いつものとおり南口改札を抜ける。
左腕のクライマーウォッチを見ると、ちょうど約束の12時だった。
まだ周太は来ていない、きっと射撃特練が長引いたのだろう。ブラックグレーのコート姿で英二は駅前通りへ出てみた。
眺める街には雪の跡は無いけれど寒い、きっと昨夜の新宿はすこし雪が舞っても積もらなかったのだろう。
けれど奥多摩は雪が積もっていた。やはり新宿と奥多摩では気候が違うのだな、そんな違いも楽しくて英二は微笑んだ。
通りから待合せ場所を振向くと周太はまだ来ていない、ふと振動を感じて英二は携帯を開くと耳に当てた。

「周太、おつかれさま」
「ごめん英二。俺、遅くなった…いま新宿に着いたんだ」

すこし焦ったような困ったような声がなんだか可愛い。
きっと約束に遅れるなんて、いつもは無いことに困っている。微笑んで英二は答えた。

「じゃあさ、周太?寮の近くの街路樹で待合わせしよう。20分くらい後に着くけどいい?」
「ん。…ありがとう、英二。急いで仕度する」
「周太、早く逢いたいな。でも焦らなくていい、気をつけておいで?」

短い会話のあとで携帯を閉じると改札の方を振向いた。
そう振り向いた視界の端いつもの花屋が映り込んで、思いついて英二は店先に立った。

「こんにちは、花束をお願いできますか?」

微笑んで声をかけると、いつもの売り子の女性が気がついてくれる。
カウンターの奥から出てくると微笑んで、英二に訊いてくれた。

「いつもありがとうございます、今日はどういった花束をお求めですか?」
「この前と同じひとへ、感謝の花束をお願いできますか?」
「かしこまりました、あわいお色のブーケがよろしいですね」

いつものようにパステルカラーの花を選んで、手際よく美しい花束を作ってくれる。
周太の母への花束をお願いしながら、もう一つの花束のため英二は花を見渡していく。
どんな花が良いのだろう?こういうことは初めてでよく解らない、けれど選んであげたいな。
そう見回していくうち思いついて、売り子の女性に英二は訊いてみた。

「すみません。花言葉で花束を作ってもらうことは出来ますか?」
「はい、大丈夫ですよ?…もう一つ花束をお作りいたしますか?」
「ええ、お願いします」

答えながら英二は、手帳からメモを1枚切りとるとペンでいくつかの言葉を綴った。
それを売り子の女性に渡しながら英二は微笑んだ。

「この言葉に合うような花をね、まとめてみて頂けますか?」
「はい…どんな方に差し上げる花束でしょう?」

訊かれながら見つめられて、英二は少し考えた。
それから軽く頷くと幸せそうに、きれいに笑って答えた

「瞳がきれいで、すぐ赤くなるくらい純情で、笑うと最高に可愛い。俺の、いちばん大切なひとです」

そんな英二を彼女は見つめていた。
けれどすぐに笑ってPC画面を英二へと見せながら、花言葉のHPを出してくれた。

「こちらの言葉ですと、このお花になります。いかがですか」
「きれいですね、店頭にありますか?」
「はい、こちらになります」

話しながら彼女は、きれいに花束をまとめてくれる。
あわい赤、深紅、白、それからグリーン。可愛くて初々しい艶ふくんだ清楚なトーン。
イメージに合うなと眺めながら英二は微笑んだ。
リボンをかけて仕上げると、彼女はカードを添えて英二に花束を渡してくれた。

「こちらに花束に使ったお花の、花言葉を書いてあります。添えて贈られてもいいかと思います」
「ありがとう、こういうカード良いですね。きっと喜びます」

2つの花束とカードを受けとって英二は、きれいに笑った。
そんな英二の笑顔を見つめて、そっと彼女は微笑んだ。

「どうぞ、お幸せに。…また、いらしてくださいね?」
「はい。今日は本当に良い花束を、ありがとう」

幸せに笑って英二は2つの花束を抱えて花屋を後にした。
そう歩きだした背中に、ふと視線が感じられる。けれど英二は振り返らないで西口に繋がる道に入った。
たぶん自分が感じることは当たっているだろうな。そんな感じに尚更に英二は振り返りたくなかった。
だってもう自分は全て周太のもの、だから誰にも欠片も自分をあげられない。

ごめんね、でも大丈夫。あなたに相応しい人が、きっといるから

そんなふうに背中の向こうの視線に問いながら、英二は久しぶりの通りを眺めた。
この通りはクリスマスの朝に周太と歩いて、雪の中のカフェで朝食をとった。
そのカフェの前を通りながら幸せな朝の記憶に英二は微笑んだ。
これから今日は川崎へと向かう、たぶん川崎の家に着いてから遅い昼食をとるだろう。
きっと訓練が長引いて周太は疲れたはず、仕度を簡単に済まさせてあげたいな。
考えながら歩いているうちに、いつもの街路樹に着いていた。

「英二、」

名前を呼ばれて英二は街路樹の下を見つめた。
見つめる木の下闇から穏やかな気配が動くと、あわいブルーグレーのダッフルコート姿が微笑んだ。
クリスマスに贈ったコートを着てくれている、うれしくて英二はきれいに笑った。

「周太、」

名前を呼んで隣に立つと英二は、抱えた花束ごと周太をそっと抱きしめた。
抱きしめた花束とやわらかな髪からの香が頬にふれる、ふれる香の記憶が幸せな想いを重ねてくれる。
すこしだけ体を傾けると英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「逢いたかった、周太」

きれいに笑って英二は抱えた花束の翳で、静かに周太にキスをした。
ふれる温もりが穏やかで、かすかなオレンジの香と甘さが懐かしい。
うれしくて幸せな想いが温かい、花束ごと英二は自分の幸せを腕いっぱいに抱えて佇んだ。

「…英二、遅くなってごめんね?特練が長引いたんだ、…もっと早く終わると思ったんだ、俺」

しずかに離れて見上げながら周太が謝ってくれる。
そんな謝らなくていいのに?そう目で言いながら英二は周太の右掌をとって笑った。

「うん、周太。早く逢いたかったから、ちょっと寂しかったな。でも俺もね、電車の時間あぶなかったんだ」
「そうなの?」

話しながら英二は周太の右掌を自分の左掌と繋いで、自分のコートのポケットにしまい込んだ。
そんな英二の様子に、すこしだけ黒目がちの瞳が困ったように瞬いた。
やっぱり日中に新宿署の近くでは拙いかな?隣の顔を英二は覗きこんだ。

「周太?やっぱここだと困る?」
「ん、…見られたら困る、かも…でもね、俺も手を繋ぎたかったから…うれしい」

気恥ずかしそうに微笑んで周太が答えてくれた。
こういうのは嬉しい。そう素直に英二は思ってしまう。求めてもらえて恥じないでもらえる態度が嬉しい。
それは周太にとって勇気がいることだと知っている、そんな周太の想いが英二は嬉しかった。
きれいに笑って英二は、そっと左掌に繋いだ周太の右掌をやわらかく握りこんだ。

「ありがとう、俺の婚約者さん。そういうのってさ、ほんと俺、うれしいよ」
「ん、…俺もね、…ほんとうはいつも、英二のね…うれしいんだ」

穏やかに微笑んでくれる黒目がちの瞳が、クリスマスの翌日に別れた時より深く静かに澄んでいる。
この隣はまたきれいになった、一緒に歩きながら英二は自分の想い人が不思議で愛しかった。
どうしてこんなふうに周太は逢う度ごと、きれいになってしまうのだろう?
こういう人に出会ったことは今までになかった、男でも女でも周太のような人を英二は知らない。
本当に出会えて良かったと素直に思えてしまう。

「英二、…今朝のメール。写真きれいだった、ありがとう…今朝も早かった?」
「うん、今朝は3時かな?でも昨夜早く寝たから大丈夫だよ、周太」
「あ、…昼ごはんだけど、途中でパン屋に寄ってもいい?あとはね、簡単なスープ作るつもりだけど…足りないかな?」
「大丈夫だよ、周太。周太こそ疲れただろ?夕飯とかも簡単でいいよ?」

話しながら改札を通って山手線に乗り込んだ。
金曜日の日中で混雑はしていないけれど、座らずに窓際に並んで立った。
扉が閉まると隣から見上げて周太が微笑んだ。

「夕飯はね、おせち料理を簡単だけどするから…だから買い物とか、つきあってくれる?」
「周太、作ってくれるんだ?うれしいよ、買い物はいったん帰ってからにする?」
「ん。…あの、母がね?今日もまた温泉に行くらしい…だから途中まで送りがてら、買い物行こうかなって」

ちょっと困ったように言うと周太は首筋を少し赤らめてしまった。
たぶん周太が母の外出を知らされたのは今日、そして2人きりになる事が周太は気恥ずかしいのだろう。
温泉のことは、英二は周太の母から元旦の朝に訊いている。
今日明日の連休が決まってすぐ連絡をしたときに、周太の母から留守にするからと告げられていた。
きっと2人の時間を遠慮なく過ごせるよう気を遣ってくれている、そして彼女自身が自由に友人と過ごす事を望んでもいる。
けれど彼女は息子の性格をよく知っているから、直前まで黙っていたのだろう。微笑んで英二は隣の顔を覗きこんだ。

「うん、送りにいこう。ね、周太?今夜2人きりだね。俺はさ、うれしいけど?」

きれいに笑って英二は花束を抱えなおした。
そして左掌に繋いだ自分より華奢な右掌を大切にくるみこんだ。

「ん、…はずかしくなるそんないいかた…でも、…一緒はうれしい、な」
「素直でいいね、周太。お、品川に着くな。乗換だね、周太?」

これから今日は、この隣とその母に自分は決断を迫らなくてはいけない。
そうした我儘を言うことは少しだけ重たく怖い、けれど本当に周太を大切にするためには必要になる。
ひそやかに1つ呼吸をすると、手を繋いだまま乗り換えのために電車を降りた。



(to be continued)

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