neve 上限の点
第77話 結氷 act.11-side story「陽はまた昇る」
あと一歩、その最後を慎重に登りあげる。
見つめる先は雪庇じゃない、その山肌は足場がある。
一歩また膝まで埋もれてしまう、けれどアイゼン確かに雪を噛む。
そして踏んだ尾根の雪上、止まない小雪に懐かしい笑顔ほころんだ。
「宮田、おまえは本当に悪運が強いよ?雪崩も避けちまったなあ、ははっ」
日焼浅黒い笑顔は労ってくれる。
その言葉いつも通り明るくて、けれど心配してくれる温もりに英二は笑いかけた。
「後藤さん、俺だけの運じゃありません、二人分の運ですから、」
背中に負う要救助者、この青年こそ幸運の持ち主だろう?
落差150mを転落しても命繋ぎとめている、この運に信じるまま傍ら立つハイカーへ笑いかけた。
「いま意識は薄いですが頭に怪我はしていません、急いで運ばないと危険ではありますが、」
「あ…、」
話しかけてニットキャップの顔上げてくれる。
まだ三十前だろう、たぶん自分と歳の変わらない青年は頭下げてくれた。
「ありがとうございます、こんな危険をすみませんっ…ありがとうございます、」
感謝と謝意を示してくれる、その言葉に尾根の時間が解かる。
この急斜を岩棚へ降りて戻るまでに後藤は「山」を諭していたのだろう。
―まだ今からが危険なんだ、だから後藤さんは、
こんな時になんだがな?そんな言い方から後藤は話しだす。
どの遭難者にも必ず「山」のルールを教える、そして次に備えさせる。
確かに遭難した時はショックが大きくて「こんな時に」だろう、でも直後だからこそ深く刻まれる。
もう事故に遭ったのなら今この経験を活かしてしまえ、そんな発想は厳しすぎるようでも真直ぐな優しさ温かい。
こんなふうに自分もなれたら良い、その願い見つめながら歩きだした。
「急ぎましょう、」
「ああ、行こう、」
お互い頷きあい歩きだす道は細やかな乾雪に深い。
ざぐり踏みしめる足は行きより沈む、その荷重が肩へ食いこます。
それでも今は傷つかないだろう、そんな自信も体も昨夏の自分には無かった。
―あれから1年半だ、周太を初めて背負って、
警察学校の山岳訓練が自分の「山」の最初だった。
あのとき周太が滑落したから自分は今ここにいる、そして命ひとつ担ぐ。
―周太がいるから俺はこの人を救けられるんだ、今も、これから先も、
想い見つめながら背中へ声かけて尾根の雪を漕ぐ。
もう膝上まで埋もれてしまう、この状況に振り向いた。
「ワカンを履きます、」
「おう、そうしよう、」
雪中に立止りアイゼン嵌めたまま装着する。
ハイカーも慣れた手つきで履いていく、その仕草に笑いかけた。
「雪の奥多摩は慣れてるんですか?」
「はい、」
頷きながら笑顔すこし見せてくれる。
崖上の時よりは硬さがとれた、そう見取りながら仰ぐ雪雲は厚い。
これでは救助ヘリは飛べないだろう、このまま徒歩で担ぎ下ろすしかない。
けれど時間が掛かる。
―俺だけなら速く降りられる、でも後藤さんだけハイカーと残すのは、
手術から後藤は2ヵ月経っていない。
それでも副隊長として今を一歩も退く気はないだろう、そのプライドが好きだ。
だから支えたくて今日もパートナー組んでいる、けれど今この状況下で後藤と離れることは怖い。
低温、乾いた深雪、同時多発の遭難事故。
警察も消防も救助体制に入っている今は応援要請も充てに出来ない。
そう解かっていても誰かを呼びたくなる、いつものザイルパートナーがここにいてくれたら?
―光一の存在をあらためて解かるな、
溜息ごと微笑んで底抜けに明るい目が懐かしい。
あの男なら今この状況でも共に速く走れる、もう一人のハイカーを連れても方法を考えるだろう。
この尾根道をどうしたら速く搬送できるのか?その可能性を考えながらも慎重に進む先、足音ひとつ捉えた。
ざぐっざぐっざぐっ、
リズミカルな雪音が滑るようこちらへ来る。
この歩き癖は聴き慣れない、そう見つめた風雪に青い人影が現れた。
「宮田さんですか?谷口です、」
穏やかな声が白い大気から響く。
その名前が意外で驚かされたまま応えた。
「宮田です、なぜ谷口さんが今ここに居るんですか、浦部さん達と天目山でしたよね?」
天目山、別称は三ツドッケ。
標高1,576mの山頂直下にある岩峰は奥多摩随一の眺望とも謳われる。
標高差1,000m標準タイム2時間40分、その登山口から今このポイントに入る踊平まで車道20Kmほど。
この降雪では1時間は掛かる、そして奥多摩交番を出たのは14時半で今は16時半、だから居るはずが無い。
―どんなに山の足が速くても登りだけで1時間は掛かるはずだ、この雪なら、
遭難場所まで登りあげ救助し下山、そこから車で向っても2時間では着けない。
けれど青い影は風雪を滑るよう近づいて谷口が微笑んだ。
「尾根道を来ました、」
天目山から踊平まで標準タイム2時間20分、今いる曲ヶ谷北峰はプラス50分。
そこを雪中1時間ほどで谷口は駈けて来た、この体力と技術に後藤が笑った。
「さすが芦峅寺の男だな、天稟ってやつだ。あっちの救助は終わったんだろう?」
「はい、後は浦部さん達だけで大丈夫です、」
答えながら谷口は肩からザイル外しセットしていく。
その傍らに立つハイカーを見、後藤に尋ねた。
「こちらの方も疲労が見られます、ここから俺が背負って走る方が速いです。よろしいですか?」
「そうだな、頼んだよ、」
頷いた顔に微笑んですぐ大柄な背にハイカー載せていく。
ザックごと担ぎ上げて揺るがない、けれど穏やかなままの瞳がこちら見た。
「宮田さん、俺のペースで良いですか?」
確実に速いよ?
そう問いかける言葉は声に無い、けれど同じことだ。
その寡黙な自信に知りたくて英二は綺麗に笑いかけた。
「はい、全速でお願いします。急ぎましょう、」
成人各1名ずつ背負う谷口と自分、そして空身の後藤なら拮抗する。
そんな推計と歩きだした雪上、芦峅寺の男はすべるよう尾根の風雪に進んだ。
ばさん、
ひっくり返った背にスプリング鳴る、その天井にため息吐く。
洗い髪まだ濡れている、けれど乾かす余裕も今は心身ともに無い。
「…負けたな、」
ため息こぼれた本音に天井は仄暗い。
デスクライトだけの蒼白い空間は自分独り、だから言える弱音に髪かき上げた。
「ほんと凄い芦峅寺…勝てるイメージ無い、」
勝てるイメージが無い、なんて生まれて初めてだ?
小学校から大学、司法試験、警察学校と現場、そして山。
どこでも自分は優秀でいられた、始めて2年目の山すら「勝ち」しか知らない。
そのイメージが「あの男」観碕にも勝利を疑わなくて、けれど今日、初めて敗北感を知った。
芦峅寺出身の谷口俊和、あの雪上技術に負けた。
「…天稟の差ってやつかな、育ちと、」
本音こぼれて現実を嚙みしめる、そして気が付かされる。
今まで自分は光一のザイルパートナーとして対等だと思っていた、けれど本当は違う。
―あの谷口さんが光一には一目置いてるんだ、
あれだけの男が一目置くのは上回る実力者、それだけの力が光一にある。
そんな光一だからこそ初心者だった自分を育てられた、その意味を改めて突き付けられる。
「黒木さんより手強い、ほんと…後藤さん厳しいな、」
芦峅寺の出身で山にもレスキューにも真面目一徹でなあ、国村と似たタイプだから井川と一緒に異動させてみたよ。
そう言って笑った後藤の意図はどこにある?
それが今日の遭難救助にも見えていた、その言われなかった諌言が聴こえる。
たぶん後藤は気づいているのだろう、最近の自分は「山」にすら慢心しかけていた。
―きっと解かってる、所轄を離れた緩みも蒔田さんとのことも、観碕に俺が関わる危険も、
宮田、おまえさんは知るほど怖いほど、山に惹きこまれちまってるだろう?
そう問いかけられた言葉は「山」だけを指していない?
そんな思案にあの深い眼差しを記憶に見つめて、そして芦峅寺の男を思い出す。
寡黙で篤実、あの真直ぐな瞳は武骨で不器用な愚直を見せていた、それが自分には眩しい。
だって自分も愚直に単純に生きてみたい、この心と体ひとつで大切なものだけ真直ぐ見て生きられたら?
「周太、…逢いたいよ、」
ほら、単純になった心から本音こぼれだす。
あの大好きな笑顔だけ見つめて山に生きられたなら?そう何度も考えてきた。
けれど今の現実のままでは叶わない、それでも掴みたいなら今は祖父が言う通りの生き方が手段になる。
『だが泥の中でも立てる男の方が美しいと私は思っている、だから私もそう生きただけだ。泥が無ければ草も生えん、醜いようで役に立つものだ、』
確かに「泥」は役に立つ。
祖父が泥に生きてきた、その時間に与えられた情報と権限が「鍵」になる。
もし祖父が泥に生きる途を選ばなければ権力は無い、そして周太を本当には救えない。
だって祖父のIDとパスワードを教えられなかったら観碕のIDを推論できなかった、そして「鍵」は掴めない。
「…うん、」
そっと頷いてポケットに手を入れチェーン手繰り寄せる。
細いけれど頑丈な鎖は携帯電話を繋いでもう一つ、ちいさな守袋を手にとり開いた。
かさり、
小さなカードとUSB、そしてネジひとつ掌に並べて見る。
カードには白い花びらと雄蕊、ネジは古いけれど磨かれてUSBだけが真新しい。
このどれも自分には掴みたい「鍵」でいる、そんな想いに鳴りだした携帯電話を掴んだ。
「あ、」
開いた画面の着信名に鼓動ふわり温まる。
この名前ずっと待ちわびていた、今日の天候に心配で何度も想ってしまった。
今も現実に思い知らされながら唯ひとつ明るい、そんな聴きたかった声に通話つなげて英二は笑った。
「周太、元気か?」
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第77話 結氷 act.11-side story「陽はまた昇る」
あと一歩、その最後を慎重に登りあげる。
見つめる先は雪庇じゃない、その山肌は足場がある。
一歩また膝まで埋もれてしまう、けれどアイゼン確かに雪を噛む。
そして踏んだ尾根の雪上、止まない小雪に懐かしい笑顔ほころんだ。
「宮田、おまえは本当に悪運が強いよ?雪崩も避けちまったなあ、ははっ」
日焼浅黒い笑顔は労ってくれる。
その言葉いつも通り明るくて、けれど心配してくれる温もりに英二は笑いかけた。
「後藤さん、俺だけの運じゃありません、二人分の運ですから、」
背中に負う要救助者、この青年こそ幸運の持ち主だろう?
落差150mを転落しても命繋ぎとめている、この運に信じるまま傍ら立つハイカーへ笑いかけた。
「いま意識は薄いですが頭に怪我はしていません、急いで運ばないと危険ではありますが、」
「あ…、」
話しかけてニットキャップの顔上げてくれる。
まだ三十前だろう、たぶん自分と歳の変わらない青年は頭下げてくれた。
「ありがとうございます、こんな危険をすみませんっ…ありがとうございます、」
感謝と謝意を示してくれる、その言葉に尾根の時間が解かる。
この急斜を岩棚へ降りて戻るまでに後藤は「山」を諭していたのだろう。
―まだ今からが危険なんだ、だから後藤さんは、
こんな時になんだがな?そんな言い方から後藤は話しだす。
どの遭難者にも必ず「山」のルールを教える、そして次に備えさせる。
確かに遭難した時はショックが大きくて「こんな時に」だろう、でも直後だからこそ深く刻まれる。
もう事故に遭ったのなら今この経験を活かしてしまえ、そんな発想は厳しすぎるようでも真直ぐな優しさ温かい。
こんなふうに自分もなれたら良い、その願い見つめながら歩きだした。
「急ぎましょう、」
「ああ、行こう、」
お互い頷きあい歩きだす道は細やかな乾雪に深い。
ざぐり踏みしめる足は行きより沈む、その荷重が肩へ食いこます。
それでも今は傷つかないだろう、そんな自信も体も昨夏の自分には無かった。
―あれから1年半だ、周太を初めて背負って、
警察学校の山岳訓練が自分の「山」の最初だった。
あのとき周太が滑落したから自分は今ここにいる、そして命ひとつ担ぐ。
―周太がいるから俺はこの人を救けられるんだ、今も、これから先も、
想い見つめながら背中へ声かけて尾根の雪を漕ぐ。
もう膝上まで埋もれてしまう、この状況に振り向いた。
「ワカンを履きます、」
「おう、そうしよう、」
雪中に立止りアイゼン嵌めたまま装着する。
ハイカーも慣れた手つきで履いていく、その仕草に笑いかけた。
「雪の奥多摩は慣れてるんですか?」
「はい、」
頷きながら笑顔すこし見せてくれる。
崖上の時よりは硬さがとれた、そう見取りながら仰ぐ雪雲は厚い。
これでは救助ヘリは飛べないだろう、このまま徒歩で担ぎ下ろすしかない。
けれど時間が掛かる。
―俺だけなら速く降りられる、でも後藤さんだけハイカーと残すのは、
手術から後藤は2ヵ月経っていない。
それでも副隊長として今を一歩も退く気はないだろう、そのプライドが好きだ。
だから支えたくて今日もパートナー組んでいる、けれど今この状況下で後藤と離れることは怖い。
低温、乾いた深雪、同時多発の遭難事故。
警察も消防も救助体制に入っている今は応援要請も充てに出来ない。
そう解かっていても誰かを呼びたくなる、いつものザイルパートナーがここにいてくれたら?
―光一の存在をあらためて解かるな、
溜息ごと微笑んで底抜けに明るい目が懐かしい。
あの男なら今この状況でも共に速く走れる、もう一人のハイカーを連れても方法を考えるだろう。
この尾根道をどうしたら速く搬送できるのか?その可能性を考えながらも慎重に進む先、足音ひとつ捉えた。
ざぐっざぐっざぐっ、
リズミカルな雪音が滑るようこちらへ来る。
この歩き癖は聴き慣れない、そう見つめた風雪に青い人影が現れた。
「宮田さんですか?谷口です、」
穏やかな声が白い大気から響く。
その名前が意外で驚かされたまま応えた。
「宮田です、なぜ谷口さんが今ここに居るんですか、浦部さん達と天目山でしたよね?」
天目山、別称は三ツドッケ。
標高1,576mの山頂直下にある岩峰は奥多摩随一の眺望とも謳われる。
標高差1,000m標準タイム2時間40分、その登山口から今このポイントに入る踊平まで車道20Kmほど。
この降雪では1時間は掛かる、そして奥多摩交番を出たのは14時半で今は16時半、だから居るはずが無い。
―どんなに山の足が速くても登りだけで1時間は掛かるはずだ、この雪なら、
遭難場所まで登りあげ救助し下山、そこから車で向っても2時間では着けない。
けれど青い影は風雪を滑るよう近づいて谷口が微笑んだ。
「尾根道を来ました、」
天目山から踊平まで標準タイム2時間20分、今いる曲ヶ谷北峰はプラス50分。
そこを雪中1時間ほどで谷口は駈けて来た、この体力と技術に後藤が笑った。
「さすが芦峅寺の男だな、天稟ってやつだ。あっちの救助は終わったんだろう?」
「はい、後は浦部さん達だけで大丈夫です、」
答えながら谷口は肩からザイル外しセットしていく。
その傍らに立つハイカーを見、後藤に尋ねた。
「こちらの方も疲労が見られます、ここから俺が背負って走る方が速いです。よろしいですか?」
「そうだな、頼んだよ、」
頷いた顔に微笑んですぐ大柄な背にハイカー載せていく。
ザックごと担ぎ上げて揺るがない、けれど穏やかなままの瞳がこちら見た。
「宮田さん、俺のペースで良いですか?」
確実に速いよ?
そう問いかける言葉は声に無い、けれど同じことだ。
その寡黙な自信に知りたくて英二は綺麗に笑いかけた。
「はい、全速でお願いします。急ぎましょう、」
成人各1名ずつ背負う谷口と自分、そして空身の後藤なら拮抗する。
そんな推計と歩きだした雪上、芦峅寺の男はすべるよう尾根の風雪に進んだ。
ばさん、
ひっくり返った背にスプリング鳴る、その天井にため息吐く。
洗い髪まだ濡れている、けれど乾かす余裕も今は心身ともに無い。
「…負けたな、」
ため息こぼれた本音に天井は仄暗い。
デスクライトだけの蒼白い空間は自分独り、だから言える弱音に髪かき上げた。
「ほんと凄い芦峅寺…勝てるイメージ無い、」
勝てるイメージが無い、なんて生まれて初めてだ?
小学校から大学、司法試験、警察学校と現場、そして山。
どこでも自分は優秀でいられた、始めて2年目の山すら「勝ち」しか知らない。
そのイメージが「あの男」観碕にも勝利を疑わなくて、けれど今日、初めて敗北感を知った。
芦峅寺出身の谷口俊和、あの雪上技術に負けた。
「…天稟の差ってやつかな、育ちと、」
本音こぼれて現実を嚙みしめる、そして気が付かされる。
今まで自分は光一のザイルパートナーとして対等だと思っていた、けれど本当は違う。
―あの谷口さんが光一には一目置いてるんだ、
あれだけの男が一目置くのは上回る実力者、それだけの力が光一にある。
そんな光一だからこそ初心者だった自分を育てられた、その意味を改めて突き付けられる。
「黒木さんより手強い、ほんと…後藤さん厳しいな、」
芦峅寺の出身で山にもレスキューにも真面目一徹でなあ、国村と似たタイプだから井川と一緒に異動させてみたよ。
そう言って笑った後藤の意図はどこにある?
それが今日の遭難救助にも見えていた、その言われなかった諌言が聴こえる。
たぶん後藤は気づいているのだろう、最近の自分は「山」にすら慢心しかけていた。
―きっと解かってる、所轄を離れた緩みも蒔田さんとのことも、観碕に俺が関わる危険も、
宮田、おまえさんは知るほど怖いほど、山に惹きこまれちまってるだろう?
そう問いかけられた言葉は「山」だけを指していない?
そんな思案にあの深い眼差しを記憶に見つめて、そして芦峅寺の男を思い出す。
寡黙で篤実、あの真直ぐな瞳は武骨で不器用な愚直を見せていた、それが自分には眩しい。
だって自分も愚直に単純に生きてみたい、この心と体ひとつで大切なものだけ真直ぐ見て生きられたら?
「周太、…逢いたいよ、」
ほら、単純になった心から本音こぼれだす。
あの大好きな笑顔だけ見つめて山に生きられたなら?そう何度も考えてきた。
けれど今の現実のままでは叶わない、それでも掴みたいなら今は祖父が言う通りの生き方が手段になる。
『だが泥の中でも立てる男の方が美しいと私は思っている、だから私もそう生きただけだ。泥が無ければ草も生えん、醜いようで役に立つものだ、』
確かに「泥」は役に立つ。
祖父が泥に生きてきた、その時間に与えられた情報と権限が「鍵」になる。
もし祖父が泥に生きる途を選ばなければ権力は無い、そして周太を本当には救えない。
だって祖父のIDとパスワードを教えられなかったら観碕のIDを推論できなかった、そして「鍵」は掴めない。
「…うん、」
そっと頷いてポケットに手を入れチェーン手繰り寄せる。
細いけれど頑丈な鎖は携帯電話を繋いでもう一つ、ちいさな守袋を手にとり開いた。
かさり、
小さなカードとUSB、そしてネジひとつ掌に並べて見る。
カードには白い花びらと雄蕊、ネジは古いけれど磨かれてUSBだけが真新しい。
このどれも自分には掴みたい「鍵」でいる、そんな想いに鳴りだした携帯電話を掴んだ。
「あ、」
開いた画面の着信名に鼓動ふわり温まる。
この名前ずっと待ちわびていた、今日の天候に心配で何度も想ってしまった。
今も現実に思い知らされながら唯ひとつ明るい、そんな聴きたかった声に通話つなげて英二は笑った。
「周太、元気か?」
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