十勝の活性化を考える会

     
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連載:関寛斎翁 その11 検梅への使命感

2019-12-13 05:00:00 | 投稿

 寛斎は上京して十一等出仕海軍病院勤務という辞令を受け取った。
この時、薩藩出身で二三歳の高木兼寛が九等出仕であるのに比べると、四三歳、官軍病院長の輝かしい経歴・実力の持ち主に対する処遇としては不当であることは明らかだった。しかし、寛斎は淡々として、ひたすら期するところの実現に取り組んだ。それは検梅法の実施である。

 世界を駆けた梅毒 

 梅毒は、当時、最も恐るべき伝染病の一つだった。この病気はコロンブスの新大陸発見とともにヨーロッパに持ちこまれ、ルネッサンスのあだ花と称されるように、その輝かしい文化と表裏の関係でひろがり、大航海時代の波にのって、またたくまに全世界に波及した。
この忌まわしい性病も、享楽的な上流社会に蔓延すると、ヴォルテールによって「性愛の花環」などと美化され、エラスムスに至っては、この病気にかからぬのは田舎者だというふうになった。シューベルトもこの病に侵されたため、頭髪が抜けたので例のかつらを着け、ついにはその死期を早めたという。この時代に流行したかつらは、梅毒による脱毛かくしとか、発疹チフスの媒介者であるシラミの予防に頭髪を刈ったためとか、言われている。

梅毒が日本に伝播したのは、コロンブスの帰国した後わずか二〇年足らずの、一五一二(永正九)年で、その流行先からして当時は唐瘡または琉球瘡などと呼ばれていた。ヨーロッパ人と鉄砲が伝来したのは一五四三(天文一二)年であるから、鉄砲やキリスト教などより一足さきに、この病気が西洋文明の先駆けをしたことになる。
 江戸時代になると、武陽隠士が一八一六(文化一三)年、『世事見聞録』で「当世は貧者富者悉く偏りて……双方に疾病起り…所々に売女余多出来たる故、療毒を煩ふもの多く、また虚労の症なるも多しという」と正しく指摘しているように、文化の爛熟と日本固有の売春制度とを土台に、梅毒はますます根深くはびこった。
著名な蘭医杉田玄白は、実は梅毒の専門医だったのである。彼はその著『形影夜話』で「徽毒ほど世に多く、然も難治にして人の苦悩するものはなし。是をよく療する人は世の中に少きと心付、是を治せんことを目当とし、せめて此一病を能療せん……徽毒の方論ばかりも読尽んと……阿蘭医方の諸書に渉り……兎角する内に、年々虚名を得て……毎歳千人余りも療治するうちに、七八百は梅毒家なり。如斯事にして四五十年の月日を経れば、大凡此病を療せし事は、数万を以て数うべし。」と書いている。
 また幕末、松本良順はその著『養生法』に「下賤のもの百人の中九十五人は梅毒にかゝらざるものなし。是その源花街売色に制なき也」として、検梅の必要性に触れている。
明治になってもこの状況は変わらず、一八七二(明治五)年、徴兵制が敷かれたとき「ある郡で検査の時被験者の三分の二が梅毒で不合格になった」話があり、一八八一(明治一四)年の病院統計では、梅毒病院が二六パーセントと、各病種別病院の第一位を占めている。

 検梅への使命感

 寛斎の提案は、戊辰の役や医療の体験を通じて、その恐ろしさと社会的弊害の深さとを痛感してのことであろう。しかし、その提案は上司の容れるところとならず、彼はこれ以上の出仕は無意味として辞表を出し、検梅の訴えを『新聞雑誌』誌に発表した。それは、次の文章で始まる具体的提案であった。

「先ヅ都下二於テ仮リニ左ノ通り御開二相成
吉原・新宿・品川右三ケ所二於テ有来ノ寺院病院卜為シ、且ツ娼妓の陰門検査所一局ヲ備へ、梅毒アルニ於テハ、直チニ病室二入レ、法ヲ設ケテ門外二出ルヲ禁ジ、親シク施療シ、全癒ノ後、検査ヲ経テ初テ我家二帰ルコト許ス。」

もともと、寛斎や良順の、検梅への関心は、長崎時代にポンペに啓発されたものであった。ポンペはその見聞記で「日本には売春婦が嘆かわしいくらいたくさんいるのである。幕府はそれを保護しており、社会もまたそれを恥と思っていない……(売春のための人身売買は)奴隷売買よりもはるかに悪質である。……遊女屋に対しては厳重な医学的監督が必要である……そのほかの点ではあんなに美しい島国であるのに……詳しく調べてみると日本人全体がすでに著しい頑廃の特徴を示している……荒廃をくい止めるための仕事に手を出さねばならぬ……」と、梅毒の社会的根源として売春制度そのものをきびしく批判し、その上に立って当面の検梅対策を示している。
しかし、良順・寛斎の視点は、提案で見るかぎり、そこにまで及んではいない。順天堂の同門で後に済生学舎を興し、明治医界の指導者の一人だった長谷川泰ですら「売淫は余儀なきこと」と公言するような当時の日本の社会状況のなかでは、やむを得ないこととはいえ、ここに寛斎の思想的限界が示されている。梅毒の病原体スピロヘーターパリダがホフマンらによって一九〇五(明治三八)年に発見されたのちも、有効な対策はなお確立されず、この陰湿な社会病は、抗生物質が広く使われるようになるまで、深く浸潤をつづけたのである。

 山梨病院長として

 寛斎は海軍病院辞職を最後に、官途に見切りをつけようとしたが、このとき彼を引きとめたのが。長崎以来の友人、司馬凌海だった。
当時、大学東校の教授であった凌海は、新設される山梨病院の長として、検梅など思うところを実践してみてはどうか、と寛斎を勧誘した。妙にうまが合う凌海の口利きが効を奏したのか、彼はこれを一年の期限つきで受けて、一八七二(明治五)年三月、甲府に赴任し、山手役所跡に新病院を移して一般診療の傍ら、さっそく週一度の検梅制度を実行に移した
この後を追うように民部省も翌年、東京吉原などで検梅所を開設する。樋口一葉が『たけくらべ』の中に「検査場」と書いているのがこれである。
寛斎はさらに、順天堂以来の持論である種痘所を10か所に設けて天然痘防疫に努め、医生教育、在村医師・産婆・鍼医・薬屋の指導など、今でいう地域ぐるみの医療近代化と水準向上とに全力を尽くし、人々の深い信頼を得た。しかし、約束の一年でこの仕事をやめ、再び徳島に帰った。

「関寛斎 最後の蘭医」 戸石四朗著

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戸石氏は「寛斎の思想的限界」と表現していますが、果たしてそうだったのでしょうか。関寛斎や松本良順はポンペの教えを漏らすことなく吸収し、実践していました。
しかし「人身売買」「廃娼運動」に取り組むには、思想的・宗教的文化を背景とした社会運動として展開されなければなりません。
維新後の混乱期に、寛斎や良順たちは医師としてすぐ実践できること、いや実践しなければならないという危機感を持って検梅所の設置に奔走したのではないでしょうか。
だがその業績も1873年(明治6年)12月、公娼取締規則が施行され、結果的に国の公娼制度を支える道具として取り込まれていきます。
しかし、明治32年当時、「廃娼運動」を北海道で実践したのが、坂本直寛とピアソン夫妻でした。彼らは信仰を背景に、文化的社会運動として一定の成果を挙げました。

 ピアソン夫妻 その8 「六月の北見路」遊郭阻止運動

その後、国家神道を背景に帝国・日本は、そのような社会運動や宗教活動をすべて押し潰して、強力な軍事国家へと変貌して行きます。

まさに近代公娼制度は「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」だったのです。
帝国はその制度を背景に侵略戦争へと突き進んだ結果、「従軍慰安婦」問題をいまだに解決できない負の遺物として残しました。

 

旭川遊郭移転への反対運動

1902年(明治35年)、旭川では曙町の土地の悪さから、遊郭を旭川市の中島町へ移転する案が持ち上がった[30][31]。遊郭の規模拡大、第7師団からの交通の便の利を図ることが理由であった[30]

これに対して町民たちは、風紀が乱れるとして猛反対したが、それにも拘らず遊郭移転は許可され、中島町の学校近くにも多くの妓楼が建設された[30]。この反対運動は東京毎日新聞東京日日新聞などで取り上げられ[30]、特に東京毎日新聞はこの件を政府の失策と指摘した[31]。こうして遊郭問題は、日本全国的に注目されるまでに発展した[30]

アイダは先述の坂本直寛と共に旭川の教会と協力して反対運動に立ち、遊郭廃止の請願署名を得、上京して衆議院貴族院に提出した[32]。この請願は両院を通過したものの、実現することはなかった[32]。アイダは憤慨し、北海道長官である河島醇に会談を申し込んだ[32][33]。後のアイダの著書『日本、北海道、明治四一年』には、この会談の内容が以下の激しいやりとりとして述べられており[31][34]、アイダは後にもこれを思い出すたびに怒っていたという[32]

わたしは長官に言ったのでございます『長官! わたしたちの請願は議会を通過したではありませんか』。(中略)長官は『国民? 国民など無に等しいものだ! この問題を決めるのは政府だよ! 何を国民がつべこべいうか。この請願には政府は認可を与えるわけにはいかないし、与えるつもりもない』とどなったのでございます。— 小池創造「宣教師として日本へ」、小池 1967, p. 53より引用

アイダはこの会談の終わり際に、河島に「長官! あなたは呪われますぞ[* 3]」と言い放った。その3年後に河島が病気で急死したことから、アイダは周囲によく「それごらんなさい。三年で長官は死んだではありませんか[* 4]」と話していた[1][31]。  

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

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