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私的コラム&雑記(&メモ)

漫画書評『ダークギャザリング』

2019-06-16 | 漫画書評

「敵は綺麗事の通じない無法の怪…
 だからこの収集を私の糧にする
 万事を成す度量 清濁併せ呑む器を この魂に刻むため」
――『ダークギャザリング』

 正直なところ、キャラクターのデザインは無駄にゴテゴテしていて嫌いだし、部分的に設定の説明が無駄にくどすぎてテンポを悪くしている気がする。例えば、主人公の少女(夜宵)の瞳が髑髏模様なことは非現実的なだけでなく蛇足な感じが強いし、物語の冒頭に登場する主人公の大学生(螢多朗)の過去の引き籠り云々は物語の途中で出てくるのでテンポを悪くしているだけでなく冗長ですらある。しかし、この手のホラー作品で必要な怪異を狩る論理は面白い。

 私自身はオカルトやホラーが苦手だ。実写映画などは怖い映画の何が面白いのか解らないし、そもそも怖い以前に状況が理解不能なものも多い。漫画の場合は怖くないが作者が作った怪異を作者が作ったキャラクターが倒す様はいかにも作り物・マッチポンプのようで白けてしまう。いっそ『モブサイコ100』のようなギャグ漫画の方が開き直っていっそ清々しいというものだ。それでも、このジャンルにも傑作は存在し、私の知る限りでは小野不由美原作の『ゴーストハント』などは金字塔と言っていい出来だと思う(漫画というより原作小説が素晴らしいのだろうが。アニメ化もされている)。
 問題は、これだけ陰陽師だのオカルトだのが溢れ返っている現代日本では依代だの霊寄せだのという単語が大衆誌に普通に登場し多くの人々が何らかの知識を持っている中で、そんな大衆に提示される物語は単にその知識と矛盾しないだけでなく、その知識を前提に読者を驚かせるロジックを編み出さなければならない点にある。「祈祷しました→除霊できました、めでたしめでたし」ではもはやエンターテインメントとして成立しないのである。

 だから、物語は大衆が面白いと感じる新機軸を示さなければならない。その点で小野不由美『ゴーストハント』(アニメ化されたのは2006年のことである)の素晴らしさは、知識の広さ・深さと、それに基づいた論理性だったと思う。では『ダークギャザリング』は?ということであるが、小野不由美『ゴーストハント』が知識の泉だとすれば、『ダークギャザリング』は応用例のデモンストレーションであると私は思う。
 フィクションで悪霊を狩るというのは珍しくないし、形代に霊的な攻撃を肩代わりさせるというのも珍しくないが、人形を依代(ヨリシロ)に退治した悪霊を移して形代(カタシロ)にするとか、その悪霊の入った形代を多数用意することで悪霊同士の拮抗状態を作り出すとか、さらに、それを多数揃えることによって、より強い悪霊に対抗するとかいう発想は初めて見た。読者に『ゴーストハント』程度の知識はある前提で、それを応用すれば理論上こんなことができる、などという常軌を逸した感じが良い。
 加えて、(冒頭で述べたくどい説明には目を瞑るとして)上述のような『ダークギャザリング』とはどういう物語であるのか?について4話(ほぼ単行本1冊分)も費やして、読者に納得させる進め方には好感が持てる。まるで1990年代のRPGゲームのようで取扱説明書不要な解り易さである。

 ところが、物語の面白さに水を差しているのが、冒頭でも述べたキャラクターデザインと蛇足な説明ではないかと私には思える。
 主人公の少女(夜宵)が特殊な力や考えを持っているのはいいとして、髑髏型の瞳や奇抜なファッションには必要性が感じらないし、また、その親戚の女子大生(詠子)が稀に露骨に眼が黒塗りされた怪しい顔になるのも必要性が理解できない。もちろん現実に不可能なことが描写可能なことは漫画の醍醐味ではあるが、やり過ぎの感が拭えない。

 上述の通り、一部で理解できない・納得できない箇所が幾つかあるが、それでも全体としては読者に新しい可能性や論理や世界観を提示していると言える。まだ4話(1990年代のRPGでいうチュートリアルが完了した段階)ということもあり、何処に向かっているのか先がまったく見えない状態であるが、この勢いで我々読者を驚かせてもらいたいものである。

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