釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

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雑談:『百物語』 (森鴎外)

2012-03-20 11:31:25 | 非文系的雑談
なんだか雑談が続く。釋超空は、いわゆる『にそくの草鞋(わらじ)ということで、鴎外を敬愛していたようだ。さて以下は、その鴎外の『百物語』の雑談。
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私はこの短篇も好きだ。この短篇の大きな特徴と思われることは、人生における鴎外の立場を鴎外自身が明確に述べていることだろう。下記の有名な一節がそうだ。

『僕は生まれながらの傍観者である。子供に混じって遊んだ初めから大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんな感興のわきたったときも、僕はその渦巻に身を投じて、しんから楽しんだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役はしたことがない。たかがスタチスト (注:端役)なのである。』 (文中の注は私が付記した)

また鴎外は『予が立場』という文章( と言ってもインタビューに答える談話のようだが )、ここで鴎外は以下のように語っている。

『私の心持をなんということばでいいあらわしたらいいかというと、resignation (注:諦念)だといってよろしいようです。文芸ばかりではない。世の中のどの方面においてもこの心持でいる。それでよその人が、私のことをさぞ苦痛しているだろうと思っているときに、私は存外平気でいるのです。もちろんresignationの状態というものは意気地のないものかも知れない。その辺りは私のほうで別に弁解しようとは思いません。』 (注:文中の注は私が付記した)


あるいは、『妄想』という文章で鴎外はこうも書いている。
『自分には死の恐怖がないと同時にマインレンデル (注:ドイツの哲学者。ショーペンハウエルの厭世哲学を信奉し自殺を賛美してみずから生命を絶った。)の「死の憧憬」もない。 死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下っていく。』 (文中の注は私が付記した)

これらの文章が書かれた時期は『百物語』が明治44年、『予が立場』が明治42年、そして『妄想』が明治44年であるから、これらは、ほぼ同時期だといえる。鴎外は大正11年に亡くなっているから、これらの文章は鴎外晩年の心境を見せている。

鴎外は他の作品でも、ある種のペシミズムというより鴎外自身が言うresignationを垣間見せているが、それを一種のスタンドプレーと見る人もいるかも知れない。そう思う人は勝手であるが、私はそうはみない。上記した文章は鴎外の正直な心情だと私は思っている。

芥川龍之介は森鴎外を評して、『先生は僕らのように神経質ではない。』という意味のことを何かに書いていたが、鴎外のresignationは、いわゆる文学青年の苦悩という名の感傷もしくは自己満足とは性質が根本において違うと私は思う。要するに感傷ではなく諦観なのだ。

さて『百物語』だが、この短篇に私が惹かれるのは上記した『傍観者』云々が直接書かれているからではない。むしろ『傍観者』たる作者の乾いたresignationが、この短篇の噺に音もなく底流している。この索漠とした読後感はむしろ私には心地よい。

鴎外の『脳髄の物置のすみに転がってい』たというこの噺は、その湿度の低さにおいて全く日本人離れした短篇であり、まさに鴎外的世界の典型だと私は思っている。

この短篇の最後。何度読んでも私に深い余韻が残るのは何故だろう。

『僕は黙ってたって、舟から出るとき取りかえられた、歯の斜めにへらされた古下駄をはいて、ぶらりとこの化物屋敷を出た。少し目の慣れるまで、歩きやんだ夕闇の田圃道の草の蔭で蛼(こおろぎ)がかすかに鳴きだしていた。』