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釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:シェーラーの定理

2012-11-03 14:40:47 | 釋超空の短歌
『「無限」に魅入られた天才数学者たち』(早川書房)という本がある。

この本の最後に、この本が書かれた当時(和訳版は2002年)に発見された、集合論の一つ成果としての定理が解説ぬきに紹介されている。いわくシェーラーの定理。
書いてみよう。

『いかなるnに対しても、2^アレフn<アレフωならば、2^アレフω<アレフω4である。』

(そもそも、ここではフレフの記号も書けないし、正確な記述も出来ない!!)

専門家を除いて、上の『・・・』の意味が直ちに理解できる人がいたら・・・もし貴方が数学者でなかったら貴方は生き方を間違えている!!! 直ちに数学基礎論者になるべきだ。大げさでなく、それが人類の為にもなる。

この本の著者自身がビックリ・ギョウテンしている。
『どうして、こんなところに4というサプクスリスト(添え字)が出てくるのだ!!!』と。

人類の中にはインド人・ラマヌジャンのように神がかった数学者が確かに存在した。

だからシェーラー定理をたちどころに理解してしまう人が今後出ないとは限らない。
ただ、そういう場合、頭脳の或る異常さという意味で、『天才と狂人の違い』という興味深い問題を我々に残すだろう。

76.『汽車の燈は、片あかりおり・・・

2012-08-31 16:14:51 | 釋超空の短歌
『汽車の燈は、片あかりおり。 をぐらき顔うつれる牕(まど)に、夜深く対(むか)へり』
***
だれにも読まれない詩だと言って、君が寂しげに、そっと私に見せたのは、もう何十年も前になるのだろうか。

君はいつも教室の片隅に居た。友人といえるのは私だけだったかも知れない。

最近、私が身辺整理をしていたら、君からもらった『誰にも読まれない詩』がたまたま見つかった。私は君の寂しげな表情を懐かしく思い出しながら、ここに、その詩を紹介しよう。  (誰かに読まれるかも知れないから(微笑))
***
ふすまを あけると げんとおは
  あおい かあてんのなかに ゆれていて

いくつも いくつも
  だれもいない おざしきを とおって
     ほんのんのりと あかるい おへやの ふすまを あけたのです

もやのなかに ひすいが いちめんに ひろがって
               きらきらと わたしの めから あふれ

 ほんのりと あかるい 
   かあてん のなかに
      げんとおは ゆれ

 ひすいは
   あついたまとなって
          ながれおち

 ころころと ころがってゆき

     だれもいない おへやで
       げんとおは ゆれていたのです

***
だれにも読まれないと君が言った詩を書いた紙はもはや黄ばんでいる。
君と連絡が途絶えて久しい。
今でも何処かで、君は寂しげに佇んでいるのだろうか。

だれにも読まれない・・・そう、人生って結局そうなんじゃぁない。
私は君の詩を懐かしく読んだよ。
そして、どいうわけか釋超空のうたも思い出していた・・・

 『汽車の燈は、片あかりおり。 をぐらき顔うつれる牕(まど)に、夜深く対(むか)へり』

75.『日のくもり・・・』

2012-08-14 08:32:50 | 釋超空の短歌
『日のくもり ゆふべに似たり。
      ひぐらしや 声みじかくて、ふたたび鳴かず』
***
先日、うちの猫が虫をつかまえてきて、もてあそんでいた。

ときどき、朝、虫の死骸が畳の上に転がっているのを見ることがある。
この猫の仕業であるが、固くなったその小さな死骸を屑籠に捨てるとき、
『いのち』ということを私はふと思ったりする。

もてあそばされた、その虫は未だモゾモゾと動いていた。
私はその虫を捕まえて窓から放り投げたのだが、あいにく雨樋の中に落ちてしまった。
庭の草むらに落ちていたら、少しの間は落ち葉の露で命を繋いだかも知れない。
***
ひぐらしを聞かなくなって、もう何十年たつだろう。
夏の夕暮れに鳴く、あの淋しげな声は今でも耳の奥に残っている。

74.『光る淵の 其処につどはす三世(みよ)の仏・・・』

2012-07-25 12:06:45 | 釋超空の短歌
『光る淵の 其処につどはす三世(みよ)の仏 
   まじらひがたき、現身(うつしみ)。われは 』
***
私は時々、不可解に思うことがある。生まれる前は知らず、私が死んだ後は永遠の時間があると思われる、ということ。 ニュートン力学にドップリと浸かっている私は、一凡人の感覚として、時間は昨日から今日、明日へと一様に流れていると正直なところ実感している。いや量子力学だの、##宗教だの、**哲学だのは、そんな素朴な時間感覚を嗤うに違いない。しかし嗤われても、皮相な科学盲者の私は正直な通常の生活感覚として
時間は未来へと永遠に続いていると感じてはいる。
しかし・・・
***
数学の、ある一般読者向けの本で、こういう記述がある。実無限 ( 無限そのもの )に関連しての話である。

『たとえば、時間という概念をとりあげてみよう。このとき、いくらでも (indefinity)長い時間を考えることはできる。しかし「永遠の時間」というのは言葉の綾(あや)であって、時間としての意味はない。』

ここで「言葉の綾」という表現が出てくるが、この言葉は確か大数学者ガウスが、無限について語ったときの表現だと私は記憶している。かの大ガウスは無限というものは、「いくらでも大きくなるor 小さくなる」ことについての「言葉の綾」だと言ったのである。

( しかし、後年、数学者:カントールは、数学的な実体としての無限そのものを厳密に数学的対象にした。それは恐らく数学史上の大革命の一つだろう。無限は単に「言葉の綾」ではなかったのだ。 )
***
掲題の釋超空のうたから私なりに迷想するのは、私が死んだ後の「永遠の時間」についである。私が死んだ後にも、明らかに、時間が永遠に続くとは単純に私は思う。

何億年も、何百億年も、あるいは、この宇宙が消滅し再生するとして、更に、それが永遠に繰り返される後にも、私の死後の時間は続くと単純に連想する。そういう意味あいから、私は、私の死後は時間を文字どおり超越している存在となる。痛快ではないか!!
***
ここで、「言葉の綾」に話が関連してくる。
私の死後の「永遠の時間」とは、つまりは「言葉の綾」に過ぎず、実は私の死後の時間というものは、もはや時間ではないのかも知れない。換言すれば、私は別次元の時間へと跳躍するのだろうか。涅槃などという世界は如何なる世界か私は知らない。もしかしたら、私は死後、「言葉の綾」ではない「実永遠の時間」へと入りこむのかも知れない。

そして、この今生の時間は、もしかしたら、「言葉の綾」の「時間」に過ぎないかも知れない。果たして「実無限」が実体としてあったように、「実時間」も実体としてあるのだろうか。あるいは、結局、今生は胡蝶の夢か?
***
蛇足:私は釋超空のうたが好きである。素人の特権として私は釋超空のうたから迷想・珍想するのも好きである。賢明なる諸兄諸姉よ乞許。

73. 『犬の子の鳴き寄る声の・・・』

2012-07-04 11:58:16 | 釋超空の短歌
『犬の子の鳴き寄る声の 
      死にやすき生きのをに思ふ恋は、さびしも 』
***
私は以前より掲題のうたが気になっていた。

しかし、無学な私はこのうたの、『生きのを』を理解できなかった。
そこでネットで、この意味を訊いてみた。そしたら丁寧な回答をいただいた。
回答をしていただいた方の解説を、ここに引用しようと思う。

***
ここでいう “を” とは「緒」のことであり、
“生きのを=生きの緒=息の緒”
と捉えて良いと思います。

“生きの緒”を「息の緒」としても歌の意味は変わりないと思います。

また、「緒」と「息」どちらにも“命”“生命”という意味があり、「緒」には “そのもの” という意味があることを考えると、 “生きの緒(息の緒)” とは正に「命そのもの=生ある存在(犬の子)」を指していると言えると思います。

また、ここで “生き” の字を当てたことで、それと対を為す「死」をより強く読み手側に意識させることとなり、リアルに “死にやすき犬の子” に思いを巡らせることを可能にさせています。 そのことが歌にいっそう、切なさ、儚さ、哀れみを持たせています。
***
その方は以下のように解説を結ばれていた。

***
「犬の子の鳴き寄る声の」の後の空白は、「(哀愁を帯びた声を持つ)犬の子」と「死にやすき生きのを」の関係が同一であることを際立たせているし、感情の高まりと余韻を持たせる効果になっていると思います
***

釋超空の掲題のうたに、私の浅はかな感想を付け足すのは要らざる蛇足だろう。
私は釋超空のうたは『供養等』に結局は収斂していくのだろうと素人ながら思っている。
『いきものの』というものの『さびしさ』が『供養等』でも歌われていた。
その『さびしさ』を説明するのは難しい。「寂しい」でもない。「悲しい」でもない。
「哀しい」とも違うように私は思う。

ネットで解説していただいた方に私は感謝する。
私の好きな、というより、尊敬するうたが一つ増えたからだ