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フロリダ半島日記

2012-08-07 18:37:43 | 日記
オリンピックもたけなわという感じです。日本の“なでしこ。ジャパン”は9日にアメリカとの決勝戦です。水泳ではアメリカのマイケル。フェルプスが通算22個のオリンピックのメダル(うち金メダル18個)を取ったことは、まるでスーパーマンです。競技のあとプールからあがったフェルプスの胸と肩の筋肉を見ると人間の肉体とは思えないほどの驚くべき肉体です。普通の20代の青年の10倍もの食事を摂取するという。そして今一人の超人がジャマイカのウサイン。ボルトです。5日に行われた100メートルではオリンピック新記録で北京大会に続いて優勝しました。今日の200メートルの予選では周りの選手たちを横目で見ながら余裕たっぷりでゴールをしていました。陸上競技はボルトを筆頭に男女とも黒人選手がほとんどなので圧倒される思いです。私はこのような黒人(アメリカでは正式にはアフリカン。アメリカンと呼びます)選手たちを見るとある感慨が襲うのです。それは私がアフリカ大陸で長く生活した経験があるからです。本来、黒人たちはアメリカ大陸の6倍もあるアフリカ大陸で充分、伝統的な習慣のもとである程度の平和に暮らしていたはずなのです。ところが西欧の植民地政策や帝国主義の勃興と共に悲惨な状態となったのです。つまり奴隷貿易の犠牲となったのです。私はあの有名な“ルーツ”の映画の主人公クンタ。キンテの住んでいた西アフリカのガンビアのジョフレ村にも行ったことがあります。クンタ。キンテはガンビア川を航行してきた奴隷船に捕獲されてアメリカへ連れて行かれたのです。彼の子孫らしい村人とも会いました。あのクンタ。キンテが育ったという家の庭にあったキンカンのようなミカンの実が忘れられません。このように直接、奴隷狩りにあった人もいるのですが、ほとんどは強い戦闘的な隣村のアフリカ人たちがヨーロッパなどの奴隷商人と結託して近隣のおとなしい村人を奴隷として売ったのです。同じ西アフリカのリベリアの白い砂浜で一人の青年に会いました。彼は私に自分の腕を差し出して“何故、このように肌が黒いというだけで、私たちの先祖たちは、奴隷船で連れ去られなければならなかったのですか”といって大海の水平線を指差したのです。このように奴隷船で家畜以下のように扱われて、すし詰めのようにして長い船旅のもと、大半のアフリカ人は死んでしまい海中に投げ捨てられたのです。そしてジャマイカなどのカリブ海の諸国やアメリカに無事着いたアフリカ人奴隷はもっとつらい日々が待っていました。最近、アメリカで奴隷の人々の墓の人骨を調べたところ、ある奴隷の右腕の骨は異常に大きく変形していたというのです。つまり、一生、右腕で様々な重労働をさせられた証拠であるというのです。私はフロリダに80歳近い黒人の友達がいます。彼の祖父までが、奴隷であったといっていました。彼自身もごく最近まで大変な人種差別にあっていたと様々なつらい体験を語ってくれました。私は、だから、ジャマイカでもブラジルの選手でも黒人の選手を見ると、その人々の先祖の悲惨な歴史を思い、またこの青年たちはそれでもたくましく生き残ってきたことを驚きと誇りを持って見つめるのです。

フロリダ半島日記

2012-08-07 18:37:43 | 日記
オリンピックもたけなわという感じです。日本の“なでしこ。ジャパン”は9日にアメリカとの決勝戦です。水泳ではアメリカのマイケル。フェルプスが通算22個のオリンピックのメダル(うち金メダル18個)を取ったことは、まるでスーパーマンです。競技のあとプールからあがったフェルプスの胸と肩の筋肉を見ると人間の肉体とは思えないほどの驚くべき肉体です。普通の20代の青年の10倍もの食事を摂取するという。そして今一人の超人がジャマイカのウサイン。ボルトです。5日に行われた100メートルではオリンピック新記録で北京大会に続いて優勝しました。今日の200メートルの予選では周りの選手たちを横目で見ながら余裕たっぷりでゴールをしていました。陸上競技はボルトを筆頭に男女とも黒人選手がほとんどなので圧倒される思いです。私はこのような黒人(アメリカでは正式にはアフリカン。アメリカンと呼びます)選手たちを見るとある感慨が襲うのです。それは私がアフリカ大陸で長く生活した経験があるからです。本来、黒人たちはアメリカ大陸の6倍もあるアフリカ大陸で充分、伝統的な習慣のもとである程度の平和に暮らしていたはずなのです。ところが西欧の植民地政策や帝国主義の勃興と共に悲惨な状態となったのです。つまり奴隷貿易の犠牲となったのです。私はあの有名な“ルーツ”の映画の主人公クンタ。キンテの住んでいた西アフリカのガンビアのジョフレ村にも行ったことがあります。クンタ。キンテはガンビア川を航行してきた奴隷船に捕獲されてアメリカへ連れて行かれたのです。彼の子孫らしい村人とも会いました。あのクンタ。キンテが育ったという家の庭にあったキンカンのようなミカンの実が忘れられません。このように直接、奴隷狩りにあった人もいるのですが、ほとんどは強い戦闘的な隣村のアフリカ人たちがヨーロッパなどの奴隷商人と結託して近隣のおとなしい村人を奴隷として売ったのです。同じ西アフリカのリベリアの白い砂浜で一人の青年に会いました。彼は私に自分の腕を差し出して“何故、このように肌が黒いというだけで、私たちの先祖たちは、奴隷船で連れ去られなければならなかったのですか”といって大海の水平線を指差したのです。このように奴隷船で家畜以下のように扱われて、すし詰めのようにして長い船旅のもと、大半のアフリカ人は死んでしまい海中に投げ捨てられたのです。そしてジャマイカなどのカリブ海の諸国やアメリカに無事着いたアフリカ人奴隷はもっとつらい日々が待っていました。最近、アメリカで奴隷の人々の墓の人骨を調べたところ、ある奴隷の右腕の骨は異常に大きく変形していたというのです。つまり、一生、右腕で様々な重労働をさせられた証拠であるというのです。私はフロリダに80歳近い黒人の友達がいます。彼の祖父までが、奴隷であったといっていました。彼自身もごく最近まで大変な人種差別にあっていたと様々なつらい体験を語ってくれました。私は、だから、ジャマイカでもブラジルの選手でも黒人の選手を見ると、その人々の先祖の悲惨な歴史を思い、またこの青年たちはそれでもたくましく生き残ってきたことを驚きと誇りを持って見つめるのです。