検察というのは、巨悪を暴き社会的正義を実現する機関であると、もはや誰も考えていないのではないか。彼らは何を実現しようというのか。日本の官僚執行権力の強力な実力部隊であり、日本の保守政治(官僚支配)の見張り番として君臨していた彼らによって作られたものはなんだったのか、今一度考えて見る必要があります。つまり彼らはどちらを向いて仕事をしてきたのか、排除された者たちは、日本の保守政治にとってどれほどのものだったのか。日本の政治は官僚がやるもので、政治家は操り人形であるという度し難いエリート意識をいまだに持ち続けているのではないか。国家公務員試験や司法試験に受かっただけで、行政権まで与えられては居ないはずです。そもそも何故検察審査会が改権されたのか、表向きはいろいろ理由はあるでしょうが、いまひとつ、腑に落ちないところがあるのです。公訴権は検察が独占しているのですが、それに風穴を開ける、検察審査会の起訴権は実は検察によってコントロールされているかもしれない密室の談合であるということです。つまり検察は不起訴決定をしておきながら、検察審査会に起訴させることによって、責任を負わずに、起訴と同じ効果を得ることができる。これは、検察審査会が検察の下請けをやっていることになる。しかも非正規日雇いで責任はだれにもかからない仕組みです。別に小沢氏には何の義理もないし、彼を弁護する意味ではないのですが、起訴されたものが、無罪であったなら、冤罪を作ったのは検察審査会というわけで、検察庁は知らん顔をすることができるわけです。国策捜査をでっち上げるには非常に都合がよいシステムなのではないでしょうか。いまごろ、検察は正義の味方だと誰も考えては居ないのですから、巧妙な責任隠しだといわれても仕方が無いと思います。
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