碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

ラオス ルアンパバーンの旅9

2022-11-19 21:59:11 | ラオス旅行

            母なる大地の女神の髪をしぼってメコン河ができたと言われている

2022/11/01

今日こそはとラオス伝統工芸博物館への坂を上りつめると、玄関には昨日と違って張り紙はなく、係りの職員が、暇そうに入口に座っていた。入場料25000キップ(ラオス人は17500キップ)払うと外国人用の案内書をくれた。日本人かと聞くので、そうだと言うと、日本語の案内書もくれた。それを読んでみると、モーピー(モーは医者ピーは精霊つまり精霊の力によって病気を治す巫女とかまじない師とか呪術師)に関する説明があって、仏教の影響ですたれたピー信仰がまだ残っているとある、そしてモーピーのビデオ映像があるらしい。ついこないだまで、第二次世界大戦まえまではタイ北部からラオスにかけてまだ、ピートーンルアン(黄色い葉の精霊)と呼ばれる少数民族が森林で原始的な狩猟採取生活をしていて、家も持たず、森を移動しながら生活していたという記録がある。古代アジアの民族の心の記憶と繋がった残像だと思っている。今や時速150kmで山の中を突っ走る新幹線のそばで、二つか三つ山を越えればピー様が森のなかで生きているというアジアの重なり積もった落ち葉の下からのぞく古い歴史を垣間見ることができるわけです。けれどもはやすでにそれらの歴史の重なりは博物館の中に入ってしまったようにも見える。館内では織物や竹製品や民族楽器、笛、笙、などが有りそれらの説明をパネルとビデオ映像で紹介していた。楽器は種類が多く特に笙は様々な形バリエーションがある。現代リード楽器の原型を見ているようだ。日本の雅楽で用いられている笙は中国渡来のものですが、その起源はタイやラオスあたりであったという。つまりここが笙の原産地なのです。雅楽などは日本の独自の音楽だというふうに聞いていますが、実はラオスの山深いところに生活する人々の文化を受け継いでいたのだ。地元では笙の音は大地から何かが生まれ出る時の音だというのです。それが伝わった遠い日本の神道的に言い換えれば後戸(うしろと)から神が示現してくるときの音であり、あの音を聞くと、我(が)は一気に振動し共鳴し流動し形が消えていくような感覚になるのは、アジアの最深部の森林で育まれた心が残っているからだと思ったりするのです。それは自然というものに対する畏敬であり同化であり神格化ではないだろうか・・またここでは民族舞踊や歌の実演もあるらしいが残念ながらこの日ではなかった。ME笙

笙の響きによってアジアの神はポリフォニーで出現してくる決して単音ではない多声音、和音で、出てくるときはドッバっとみんな一緒に出る。つまりそれは、それらの間にある関わり、つながり、流行りの言葉で言えば絆と言うような自分を含めた関係性そのものが、神の本質であるという実に曖昧でありつかみどころがないものであるが、それがイケてるのです。仏教やキリスト教やその他の言語化された宗教のような読み終わった小説のような感想を持ちえない。知の自然と言うのは常に変化し流動し飛躍する状態ではないかと思っているので、アジア的神こそ自然であり本質的であり普遍的であると感じているのです。二周遅れのウルトラアニミズムのおっさんに見えるかもしれないが、いやいや、なんのなんの、そんなこと・・冷房の効いたルアンパバーンのカフェの片隅でコーヒー飲みながら、神と実存を語るべく、我らが現代神の携帯電話のカメラをいじっていたら、左右が反対の自画像を見て思いついた。本当の世界は我らが見ている世界とは違っているのではないかと、さらに言うと我々には見えない世界があってもおかしくないじゃないかと。同じことを昔キリスト教グノーシス派の人々は考えたんですね。隠された智があるのではないかと。もちろんそれは当時のキリスト教徒からは異端として扱われたのですが、どっこいその根は残っております。我々の知らない者によって世界が動いているというあのキリスト教的な陰謀論の入口として・・。いやこんな話をするのはつまらないそれよりサルトルとレヴィ・ストロースのケンカのほうがまだマシだ。けど今更カルチェラタンのカフェに戻ったところで・・アジアの最深部でワシはアジア的神の世界にどっぷり浸かるほうがまだ気持ちいい。今回の旅の目的は千と千尋のお風呂屋を探す旅でもあるので、湯ばぁばは何処じゃ・・  ME 笙

    


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