碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

日本国憲法の宗教性

2014-04-28 12:51:37 | 詩、漢詩、その他読書感想
高橋源一郎著『さよならニッポン』ニッポンの小説2より要約  「日本国憲法」と「幼児洗礼」  加藤典洋の『敗戦後論』では日本人が戦後の衝撃で「ねじれ」ざるを得なかった。日本は負けたボロボロに。そこのところでは国民は被害者です。でも実は、アジアの国々を侵略していた。そこのところでは加害者です。それから「憲法9条」では「一切の軍備を放棄すること」を誓いました。それは「主体的」に選び取ったものだったはずでした。ところがその「憲法9条」は、アメリカが「核の力」をもとに、押し付けたものでもあったわけです。その点、ぜんぜん「主体的」ではなかったのです。つまり日本人は、戦後という時代の出発のところで、「ねじれ」ざるを得なかった。自己欺瞞に陥り、記憶を改ざんせざるをえなかった。一言でいうなら日本人はほんとのところ「主体的」ではなかったということです。そのせいで、さまざまな問題が発生してきました。たとえば戦争をめぐる発言なんかがそうです。「ひどいことをした、申し訳ない」という人がいるかと思うと、「あの戦争では、日本人はいいこともした」という人がいる。どんどん謝罪する人がいれば、あの戦争は必要だった、日本は悪くなかった、という人もいる。その悪循環を断ち切るためには、例えば「憲法9条」を、もう一度国民投票にかけて、「選びなおす」そういう「主体的な」行ないが必要ではないか。というのが論旨だと理解しました。 このような憲法と国民の関係を「幼児洗礼」に例えた人がいた。「洗礼」といのはキリスト教で施す洗礼儀式のことです。それは、自らの覚悟でもって、神様に帰依すると誓ったあとに施されるものです。「あなたを信じることにします、何があっても」と誓って、それで、神様も納得して「じゃ、施してあげるね」といってやってくれるものです。自らの「実存」をかけて、神様に相対し、「あなたとだけ契約します」と独占契約をむすぶことです。ところが「幼児洗礼」となると対象は赤ん坊です。もちろん「自由意思」なんかないわけです、当然法律では、契約の主体にはなりえない。ところが、キリスト教では、赤ん坊でも契約の主体になって、神様相手に「契約書」にサインできることになっているわけです。これって、まずいんじゃないですか。当然のことながら、キリスト教内部でも意見は分かれるているようで、偉大な宗教学者、カール・バルトは「幼児洗礼」を言語道断と考える一人です。宗教というものは現世ご利益がありそうなんて甘い考えで入るものではない。「あちら」には超絶的な神様がいる。超絶的だから、理解を超えている、想像も絶している。そいう存在と関係を結ぶといのは生半可な覚悟ではできない。まさしく、そこで、究極の「主体性」が要求されるというわけです。この世界にたった一人になっても、世界中全部が反対しても断固として貫くぐらいの決意が必要なんです。鉄の意志というか覚悟がいるんです。そういうものを「主体性」と呼ぶんです。じゃあ赤ん坊にその「主体性」はあるのか。そんなものはありません。何もわからないほとんど白紙に近い動物といってもいい、そいいう存在に、キリスト教の最重要ステップである「洗礼」を受けさせるなんてありえない。そんなことに加担するのは「キリスト教」としてあるまじき行為です、蛮行です、犯罪です。とバルトは主張しているらしい。この至極まっとうな意見に対して「幼児洗礼」でいいじゃないか、という真正面から反論する人が現れた。オスカー・クルマン、宗教学者です。彼はバルトの批判にこう答えます。「幼児洗礼は、主体性のない赤ん坊が、洗礼を受けるから、いいのです。というか、主体性なんか犬に食われてしまえ!」びっくりです。いったい何をいいだすやら。クルマンはいいます「バルトは『主体性』をもって進行しなければならないとおしゃっていて、だから『主体性』を持たない赤ん坊を強制的に信仰に『拉致』する『幼児洗礼』をナンセンスだとするんですがね、わたしにいわせると、バルトさんはぜんぜん宗教がわかっていない。たとえば、キリスト教で最も重要な、あのシーンを思いだしてください。キリストがゴルゴダの丘で磔になった時のことを。キリストは全人類のために、わが身を犠牲にしたでしょう?客観的に考えると、キリストって、頭おかしくないですか?だって、見ず知らずの人々の罪を贖うために、死のうとしたでしょう?ほんとうにまるで関係のない人のために、犠牲になろうって思い立って、死ぬわけですよ。自殺でしょ、あれ。近くにそんな人がいたら止めるでしょう、ふつう。いや、イカレてるわ、こいつ、って思って、近づかないでしょう。でもそれが、キリスト教にとって、良かったんですよ。何かもう想像を絶した行為だったわけですよ。理解不能な。どうなってんのあの人、って、思っていつの間にかみんなキリスト教に近づいたわけです。そういうのが宗教的エコノミー(合理性)なんですよ。経済的なエコノミー(合理性)とはちがうエコノミー(合理性)を宗教はもっているんです。そうじゃなきゃ、宗教の意味がない。だから信仰すると、豊かな気持ちになれる。とかご本尊を持っていると無病息災になるとかいうのは、経済的エコノミー(合理性)そのもので、そんなの宗教じゃないですよ。極端なことを言うと、不合理なことこそ合理的というのが宗教なんです。そう考えるとバルトのいう『主体性』ない赤ん坊に『洗礼』を施すのは無理があるというのは、合理的なだけじゃないですか。『主体性』をもった『個人』だけが、神様と向かい合うのが『信仰』だって、言っているでしょ。でもそれは、近代主義的エコノミー(合理性)じゃないですか。資本主義的エコノミー(合理性)そのものじゃないですか。この世でいいことすると、あの世でいい目にあうというまことに持って経済学的エコノミー(合理性)ですよね。マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」はすごく相性がいいんです。なにより、合理性(エコノミー)を重んじるところがね。でもね、何度もいいますが、そんなの宗教ではありません。『幼児洗礼』は不合理な点がいいんです『幼児洗礼』においては、気が付いたら、まず神の圧倒的な愛があるのです。愛を受っとっているのです。『なぜ』も『なに』もないところが合理的精神は、そこを疑うんですよ。『わたしはなにもしていなのに、気がついたら、神様が愛してくださっている。そんなのへんじゃないか』って。バルトさんが言いたいのはそういうことですよ。『愛っていうものは、もうちょっと、命がけの飛躍をするものだ』とかなんとか、ケチくさい。『神の愛』とはそういうものではないんです。人間の思惑とは関係ない。個人の悩みとは関係ないんです。まずくれるわけです。圧倒的に贈与されるわけです。云ってみれば『神の愛』って『純粋贈与』なんですよ。支払うのが本質なんです。「後でかえせ」とはいわないから。いくら私がそういっても『幼児洗礼』の見返りはなに?とか思うでしょう。ケチくさい、疑り深い、契約書を書かなきゃ信用できないとか、自己点検ばかりに、汲々としている。『主体性』なんてほんとうにケチくさい。はっきり言います。大人の『洗礼』より『幼児洗礼』の方が、キリスト教的にはイケてます。それこそ『正しい』宗教的エコノミー(合理性)なんですよ」      話を戻して、「憲法9条」の「不合理」について多くの人たちがその「矛盾」を書いてきました。しかし、「日本国憲法」が「幼児洗礼」のようなものだとしたら「矛盾」していることがナイスなんです。「不合理」であることに、その意義があるのです。うまく説明できないところに、存在価値があるのです。「日本国憲法」という矛盾するものを、いきなり「贈与」された我々は、ずっと悩まされてきました。六十年というもの間「自衛隊は軍隊か」と論争してきました。その結果、どうだったのか。平和だったんですね。経済的発展にいそしんで、まったりした国を作ってこれたんです。誰にもこたえられないものを抱え込んできたせいで、社会がうまく回転してきたんです。そういうわけで、「日本国憲法」は変える必要がないんです。「武力」で「平和」を押し付けられるなんて最高じゃないですか。一方的でいいじゃないか「主体」の入る余地がほとんどなくて、結構じゃないですか。その「ねじれ」こそが、「日本国憲法」がもつ「宗教的」エコノミー(合理性)の根源だったんです。 ながながと引用しました。  ここからが本題です。そんなこといっても「日本国憲法」は日本人にとって宗教なのかというツッコミを入れたくなるのです。どこかの国のように宗教と政治が一体となっていて、宗教の教義が政治を支配するような国ならば、その国の憲法(あるとしたら)の合理性は「宗教的」エコノミーであるといっても差し付けないかもしれません。けれど、我が国の「日本国憲法」は曲がりなりにも政教分離を建前として近代主義的エコノミー(合理性)に基盤を置いていることは事実なんで、たとえそれが圧倒的贈与であったとしても、近代主義的な合理性を前提としなければ、現実的な法体系は機能しえないのではないかと、思ったりするわけです。「日本国憲法」をどう解釈するかは個人の自由です。「宗教的」なものとしてあるというのも一つの見方です。かつて「神」であった天皇を超えた、それこそ「超越的」な力で、「不合理」にも(主体的ではなく)日本人の運命を変えたのですから、まさしく宗教的なものでもあったかもしれません。「憲法9条」の矛盾は大したことではない。それを言うなら天皇制はどうなのよ。近代的合理性に矛盾しているじゃないか。それらの矛盾のおおもとをたどれば「キリスト教」の力、宗教の力と観ることもできなくはないかもしれない。 日本人は無理やり頭から、有無をいわさず「洗礼」をぶっかけられた、「強制洗礼」だね。それで戦後平和に過ごせたのは、「神の愛」のおかげだ。そう解釈してもいいわけだ。これは、国家をどう見るかということにつながっていくのだけれど、『よこ糸のない日本』という見方がある。日本は「タテ糸社会」であって、もっとヨコ糸をつなげなければいかんという意見だ。これもキリスト教的な民主主義の普遍性を信じている人オーティス・ケリーの言葉ですが、GDPとかTTPとか言ってる場合じゃない、みんなで横に手を伸ばしてつなぎ合おうよ、そうしないと、足元が崩れ落ちていく人をつなぎ留めれないだろう。というとみんな白ける時代にいるわけですから、もはや宗教的な力を信じることがしにくくなっている。そのくせ国家意識は強くなっている。日本では・・・っとここで時間がないから失礼です
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