碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

ラオス ルアンパバーンの旅1

2022-11-07 13:17:01 | ラオス旅行

しばらくブログを投稿しなかったのは実はラオスの旅へ行っていたので「大きな樹の物語」は中断されます悪しからず。ラオスの古都ルアンパバーンへの旅は以前計画していましたが、コロナや諸事情があってずうっと伸びてようやくと言うか、ついにというか、実行することができました。四年前か五年前になりますが、友人にルアンパバーンへの船旅の話を聞きました。その友人と言うのが実に寄寓で、初めて会ったのが当時暮らしていたコンドーミニアムの一階にあったセブンイレブンの中でした。彼は近くのアパートに住んでいたのですが、たまたまこの日は普段行くセブンイレブンではなくこちらのセブンイレブンを覗いたらしい。そこで偶然出会ったのです。それが寄寓だというのではありません。彼が日本人だと気付いていろいろ話しているうちに、彼はワシを知っているというではないか。タイにきてからそんなに日本人と多く付き合っていないので、どういうことなのか訊いてみると、なんと彼は同郷であった。金沢の人間でありしかも、ワシが当時かよっていたタイ語教室で会っているというのです。しかし物忘れのワシには思い出せない。詳しい話を聞こうじゃないかということで、部屋に案内したのが最初でした。当時、金沢の日タイ友好協会がタイ語教室を開いていたのですが、北陸ではたぶん唯一のタイ語教室で富山市や加賀市などからも聴講生がきていました。生徒の数は多い時で10人少ない時は5~6人程度だった年齢もいろいろで、若い20代からワシらのような年寄りまでいましたが、彼の顔を覚えていないのです。聞けば2回ぐらい教室で会っているという、今は取り壊されてないのですが、旧石川県庁のよこにあった旧議員会館の2階のひと部屋を借りて教室が開かれていました。その時にワシを見たということでした。こっちは全然覚えていないのに彼は2回見ただけで覚えていたので、それにも驚いた。それで年齢は自分とそんなに変わらないし同郷のよしみで仲よくなったのです。まさか、チェンマイで同じ金沢人とおなじ教室にいた人と宿のコンビニで出会うとは思いませんでした。名前をSさんというのですが、頭の禿げた大きな身体で、黄衣を着ればタイのお坊さんと変わらない風貌で、いろいろタイの生活について話してくれました。彼は人に付くのがうまいと言うか、そういう性格なので、タイのいたるところに人脈があって、結婚式に呼ばれたり、出家式に呼ばれたりする付き合いの多い人柄でワシには大いに見習うべき要素をもった人でした。なんでこの話をするかといえば、このSさんはその後、久しぶりに会った時、すでに癌を発症して余命いくばくもないので、日本へ帰ることにしたと、報告に来たのです。ついては家財はいらないから処分するので、ほしいものがあったら持って行ってくれという。別にほしいものはなかったが、餞別を渡してプリンターを受け取った。そして半年後ワシが金沢へ帰った時に連絡してみたがすでに通じなかった。そんな思い出の人であるSさんが、このルアンパバーンの船旅を語ってくれた最初のひとであった。Sさんはこの旅が非常に良かったと何度もいうので、ワシもいつか行ってみようと決意していた旅なのです。今回は供養の旅とはいいませんが、思い出をかみしめる旅になったわけです。Sさんは天国から見下ろしていたかもしれません。

そんなわけで、前置きが長いのがいつものくせですが、ラオス、ルアンパバーンへの船旅を机上に載せました。コロナ規制がようやく解除されて最初に行った国はヴェトナムでした。これは、たまたま飛行機チケットを取ってあったので、キャンセルももったいないと思ってスケベ心を出したらひどいめにあったのですが、今回は違います、飛行機は使わず陸路の出入国で、のんびりと船旅ですから、ドタキャン航空はお呼びでないのです。これぞ大船に乗った気持ちで旅を満喫することができる。そんな思いでチェンマイを出発した。廻ったコースはチェンマイ(バス)→チェンコーン(車)→フエサーイ(スローボート)→パークベン(スローボート)→ルアンパバーン(中国新幹線)→ビエンチャン(バス)→ノンカーイ(夜行バス)→チェンマイということになります。この頃はインターネットで宿や交通機関の予約ができるので、大変便利になった。この二つをおさえておけば大体計画した通りの旅ができるようになって、安心安全の旅を楽しめる。その分何かがないのです。一度ネットなしの旅をしようと思ったりするのですが、まだふみきれません。昔はそれが普通だった。だから旅に使うエネルギーは今の何倍も必要だった。でも若い人にはその経験が後で生きてくると思うのです。これははジジイになっても変わらないです。

2022年10月27日

チェンマイのアーケードバスターミナルからAM9:30発のグリーンバスのチェンコーン行に乗る。チェンコーンはタイの北のラオス国境にある小さな町です。チェンコーン行のバスに乗る人はほとんどラオスに入るために乗る人たちだと思って間違いない。チェンマイからバスは一本か二本しかない。グリーンバスという社名のバスがタイ北部では幅を利かしている。これは民営なのか公営なのか知りませんが、以前はネット予約ができなかったが、最近はネットで予約ができるようになった。それはネット予約だけを受け付ける旅行社?ネット会社?が間に入って受け付けるようになった。予約した画面を持って窓口に行くと何故か分からないが30バーツ支払って当日のバス乗車チケットをくれた。ウエッブ予約ですでに料金を払ってあるのに返信メールが来ていないので、名前が分からないとかなんとか言っていたが、こちらの手続きが十分ではなかったのかどうか、自分も分からないが、とにかく30バーツを追加して乗車券をもらった。ネットの料金は11.31$約1500円と30バーツで1600円前後ということになる。乗客はほとんどが若い白人のバックパッカーで目指すはみんなルアンパバーンだろう。バスはツアーバスで乗り心地は悪くないが、冷房が効きすぎで寒い。長そでのシャツを重ね着したけれどまだ寒かった。タイのバスは冷房を極端に強くするので、風邪をひきそうになるくらいだ。以前チェンライへ行ったときは毛布があったが、今回は無かった。次回からはウインドブレイカーみたいなものを持っていくべきだろう。約6時間走って、チェンコーンに来ると、何か所かで乗客を降ろす。これは乗客の要請で下すのか決まった場所で下すのかよく分からないが、3か所で、ロータス前と国境の友好橋手前(その日のうちに対岸のラオスの船着き場フエサーイまで行く人たち)と最後グリーンバス営業所前だったと思う。ワシは最後の営業所前で降りた。この町の入口で、宿のゲストハウスに近いからです。チェンコーンは小さな町です。国境を超えるための宿場町ですが、国境を超えるタイラオス友好橋が少し下の方にできて、宿がそちらにできるようになったせいかさびれたように思える。町には時々バックパッカーが通るが、静かなまちであった。ゲストハウスの主人がルアンパバーンまでのスローボートのチケットと船着き場のフエサーイまでの乗り物代を含めて1300バーツ(約5000円)でどうだと言うので、それでOKして、一晩このゲストハウスに泊まることになった。晩飯と朝飯はなしで400バーツ(約1500円)の安宿?ですが、昔の相場からいえば300~350バーツなんですが、コロナ以後何かと値上がりしてますし。35年来の円安です。ちなみにその時代1985年と言えば中森明菜「DESIRE」渡辺美里「My Revolution」の時代ですよ。ダイアナ妃が赤い水玉服を着て来日した年だそうです。バブル前夜ですね。みんな若かった。

           

 


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