碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

ルーピー鳩山は宮沢賢治になれるか

2013-06-26 19:25:40 | 日記風雑感
ルーピー鳩山と言われクルクル鳩ポッポと言われ、国賊とののしられ、それでも懲りずに、友愛の政治を貫いている。おそらく世界中の政治家からバカにされて、まともに相手にしてもらえるのは、まだ利用価値があると思っている中国ぐらいでしょうか。しかしながら、彼の友愛の精神に基ずく政治がどのようなものかははっきり知りませんが、彼の異端ぶりはもはや政治の世界を超越していると言ってもよいのではないか。彼が間違っているのか、世界が間違っているのかという問いの立て方をすれば、政治の在り方のパースペクティブが見える気もするのです。彼にとっての政治とは彼個人の信念や思想を表現する手段であり、世界がいかにあろうと、他人がなにを言おうと、そんなことはすでに織り込み済みの話で、むしろそういう現実の政治を否定したいのではないだろうか。つまり数の政治、多数決の原理すら空疎なものだということを知っているのだろう。政治の共同幻想を作ろうというのではない。政治の共同幻想に彼個人の個的幻想を対峙させているだけなのだ。政治家の手法としては、あまりにも未熟というか、プリミティブというか、それがある意味ラジカルなのかもしれませんが。政治の芸術化とでもいうか、ウルトラパーソナリズムの手法は、いままでこの国の政治文化にはなかったぶっ飛び政治家だということに気が付きました。

 
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
ルーピートイワレ
コクゾクトヨバレ
ソウユウウチュウジンニ
ワタシハナリタイ

その場その場で、相手の聞きたい言葉をいえばいいのだ。その言葉に論理性はなくとも、理解してくれたことを忘れないのだ。それが友愛だ。これからは、ワシはルーピーとかクルクルとかいうのはやめようと思う。ワシは、政治家というものに対してあまりにも論理性だけを期待していたが、しょせん、限定性の中での理屈しか通用しないのだ。くだらない理屈を言うより論理外の存在がモノをいうこともある。彼がいることで、日本にはまだ言論の自由があるということを世界は、なかんずく中国や韓国は感知するだろう。皮肉ではなく、彼は政界の宮沢賢治になればいいのだ。そいう道も案外大事なのかもしれない。宮沢賢治には失礼かもしれませんけれど。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿