佐島方面からですと、天神島を過ぎ、芦名マリーナを通り、海岸から離れようとするあたりを左に入ります。
これが目印。この道を奥へ入ると・・・
鳥居が見えてきます。奥に見える階段の上が神社になります。
狛犬
階段を上って左手にあるのが拝殿。
百選の看板。以下写し。
『明治初期の頃までは、三浦十二天、または十二明神と呼ばれていました。
祭神は、天地創造の神話に登場する、天の神、国常立尊から七世代、地の神、天照大神から五世代の神々です。
神社の確実な創建年代については不明です。現在の大楠小学校、門前に城山と言われる台地があり、
そこに三浦大介義明の弟・三郎為清の館があったと伝えられ、その鎮守として、祭られたのが、
この神社であると言われています。
また、一説には、この神社の裏山から、平安時代・末期の布目瓦が出土しており、
すでに相当規模の集落をなしていたことが、明らかになっております。当神社のいわれに
「平安時代には十二天といわれ」と、あることがうなずけます。いずれにしても、
古い歴史をもった、神社であることがうかがえます。
寿永元年(1182)八月、源頼朝は、妻・政子の安産祈願のため、箱根権現や伊豆山権現など、
近国の十二社に、特使を派遣しました。この神社も、その一社に選ばれました。源平合戦・一の谷で
勇名をとどろかせた、三浦大介義明の子、佐原十郎義連が、頼朝に代わって、参詣しています。
天正十九年(1591)十一月には、徳川家康から社領として、朱印二石の寄進を受けています。
更に、文政二年(1819)三月十三日には、会津藩士・松平容家の代理として、
郡奉行・石沢義則が、盛大に祭りを行ったことが、記録として残っています。』
この『十二所』というのはそもそも何なのか気になり、少し調べてみると、鎌倉にも十二所という
地名があることが分かりました。神社が天神七柱・地神五柱の計十二柱の神様を祭ったところから、
十二所という地名ができたそうです。
そうしてみるとここ『十二所神社』も天の神が7世代、地の神が5世代祀られています。
十二の神々ということですね。他にも各地(新宿・姫路・武蔵村山など)に十二所神社があります。
拝殿左手の道沿いには、弘法大師が焚いた護摩の灰から作ったと伝える「帯解(おびとき)地蔵尊」が
あります。安産祈願に訪れる人も多いそうです。
さらに詳しく
Google検索→横須賀 十二所神社
Google画像検索→横須賀 十二所神社
当ブログ横須賀風物百選特集は→こちら
三浦一族の佐原十郎義連が参詣していることです。三浦一族と源頼朝のつながりを考えれば
当然の事なのですが、頼朝亡き後、北条氏によって三浦一族は滅ぼされてしまう事を考えると
何とも言えないものがあります。頼朝を支え、鎌倉幕府を興し子供が生まれる・・・
時代としては一番いい時代だったかもしれませんね。
←最後にこちらをポチッとしていただけたら嬉しいです。とても励みになります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます