『享保5年(1720)、浦賀奉行が開設されると、江戸湾に出入りする船は、すべて浦賀に寄港し、
乗員・積み荷の検査を受けることが義務づけられた。港は、常に多数の船でにぎわい、湾岸は
回船問屋や干鰯問屋が軒を連ねるといった活況を呈した。
現在、西浦賀の一角には、当時の隆盛をしのばせる土蔵などの家なみが残っている。』
◆浦賀の蔵◆
「浦賀は干鰯を始め多くの品物を全国に売りさばく町としてに賑わい、今でも東西の浦賀に
残っている15棟前後の蔵に昔の名残を見ることができます。蔵は大切なものを盗難や火災から
守るもので、壁の厚みが一尺ほどあり、耐火建物として様々な工夫がされています。
浦賀には江戸後期に造られた漆喰塗り土蔵と幕末・明治期に作られた石蔵が混在しています。
土蔵は漆喰の外壁が関東大震災で被害を受けたため、周囲にトタンを巻いており外からでは
分かりにくくなっています。
石蔵は比較的そのままの形が現在も残されております。」 浦賀探訪くらぶ
◆紺屋町(地名の由来)
『西浦賀1丁目のこのあたりを紺屋町(こんやちょう)といいます。
日本では昔から衣服の染色には紺色がよく使われてきました。
明治の中頃に西叶神社の宮司・感見宋之助(かんみそうのすけ)が編集したと推定される
「浦賀中興雑記」によれば、小川善五郎という人がこの地で紺屋(染色業)を始めたことに
この町名は由来するとあります。この付近には、咸臨丸出航の碑や中島三郎助招魂碑などが
ある桜の名所・愛宕山公園があります。』 浦賀探訪くらぶ
西浦賀町にある路地と“蔵”。
◆蛇畠(地名の由来)
『西浦賀1丁目のこのあたりを蛇畠(じゃばたけ)といいます。
昔は、現在の蛇畠の通りに平行して、愛宕山のふもとまでに畠(畑)がありました。
幅が狭くて、長く続くその畑の形が蛇のようであったので、それに由来したものです。
蛇がたくさん住んでいたという意味ではありません。
この付近には、江戸時代に浦賀奉行所の船番所があり、東西浦賀と下田の廻船問屋100軒余が
あり、船の荷改めの実務を担当していました。』 浦賀探訪くらぶ
(左)浦賀の渡し近くにある『関東大震災慰霊塔』。クリックで詳しく解説されます。
関連サイト
西浦賀紀行→西浦賀の家なみ
これは訪れる側からすると、大変ありがたく、目に映る景色がいっそう深みを帯びてきます。
歩きながら知識をつけられるので、散策も楽しいものとなりますね。
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とても励みになります。ありがとうございます。
そうだ!横須賀に行こう!
ちなみに、この蔵のそばには井戸があるんですけど、
ご覧になりました~?
確かまだ現役だったと思いますよ~。
この辺りは高坂小に行っている時は毎日のように通って
いました。昔ながらの雰囲気が残る地域で、歩いていると
なんだかホっとするような気がします。
いつの世代までも残して欲しいものです
この間の咸臨丸フェスティバルの時は、こちら側から
渡しを使ってみました。
桟橋の下には、魚やくらげがたくさんいましたよ!
路地も細くて、とてもDEEPな雰囲気ですよ!
しかし防災の面から見れば危険な地域なので、
何れは建て直しや区画整理で無くなるかもしれませんね・・・
現役の井戸があるのですか?!気付きませんでした。
本当に西浦賀の町並みはいい雰囲気がありますね。
もちろんその当時の時代には生きていませんが、
都会のごちゃごちゃとした街とは違い、ほっとできる気がします。
横須賀市でもって、この町並みを残すことはできないでしょうか?
ドックと渡し舟、東西叶神社に西浦賀の町並み・・・
観光的にもいい地域ですよね。
コメントありがとうございます!
れもんさんのブログに“紺屋町”と出ていましたので、
訪れたのは少し前でしたが、慌ててUPしました。
この辺りのいい所は、街のいたるところに“説明板”があるんですよ!
何気ない建物一つでも、昔の様子が書いてあったりして、
ふらふらと歩いてるだけでも勉強になります。
かずくんには渡し舟は楽しかったのではないでしょうか。
私もまた乗って、浦賀の町を散策してみたくなりました。
コメントありがとうございます!
やはりこの町並みもいずれはなくなってしまうのでしょうか・・・
ちょっと寂しい気がしますね。
“浦賀”の知名度は“黒船来航”により全国区ですから、
それを活かして新たな街づくりが進むといいですよね。
まだまだ奥が深そうな浦賀地区。
今後も足を運んでブログでもUPしたいと思います。
コメントありがとうございます!