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Aspies and ADHDes

AspieとADHDの特性があり、テキトーな医師が診断しました。(自分では、第4の発達障害ではないかと思っています)

暗いのは、その人が暗い人だからじゃない

2018-05-26 | 楽しい・ワクワク

昨日、静かな森と池のほとりを1人歩きながら思ったこと。

このことを、私と同じような人に向けて言いたいと思った。

私は、福岡で、人が集まる所にいると暗くなる。顔が曇って、明るくなくて、笑顔が少なくて、言葉を発しなくて。

他の人たち:この人暗い。なにが不満なんだ。もっと笑顔で明るくしてないと、とっつきにくいったらない。さぞかし内面が暗い人なんだろう。

私:こんな所で、どうして明るく笑顔でいれるのか、わからない。どうして、こんな酷い殺伐とした、バラバラの人間関係の中で 何事も起こっていないかのように平和ぶって明るく陽気でいられるんだろう。

私は、人の集まりにおいて、それが心地いい関係であるならば、明るく、朗らかで、笑顔が多く、言葉もよく発する。対等で自由でフレンドリーでやさしい そんな関係の場であるならば。

対して、その人の集まりが表面では体裁よく取り繕っているものの、実態は 敵対的で緊張感で張りつめていて マウンティングだらけで 裏腹で 誰ひとり信頼関係がなくて仲間関係がなくて バラバラで殺伐としている そんな場所では 私は窒息感につきまとわれ 暗く 顔が曇り、笑顔が少なく 言葉も発しなくなる。

こんなに末期的にひどい人間関係の中で、平気で楽しそうに笑っている人たちの方こそわからない。誰かの犠牲の上で成り立っている、偽物の平和。笑っちゃうくらい正真正銘、偽物。平気でいられるのは、自分たちがその誰かの頭を踏みつけている側だから。いつだって加害者側は平気な顔してる。自分の安泰さえ確保すればそれでいい人達。

目に見えないものを、強く感じる。

私が森で1人なにを思ったかというと、

暗い人は その人の内面が暗いのではなく 明るいものを求めているからこそ暗いのだ ということである。

もし、ああいう 殺伐とした関係を 「そんなもんだ」と思っているならば、他の人達のように平和ぶって明るく陽気でいられるだろう。

でも、「そんなもんだ」と思ってない いい関係というのは全然これじゃない これはまともな姿じゃないと、明るいものを知っている 心から求めているからこそ そうでない場所では反応するのである。

その人は暗い人どころか、逆である。

また、こうも言える。

暗いのは、自分が加害者側に回らないから、自分がやられる側に押しやられているから。あるいは自分が引っ被り役にはなっていなくても、他になっている人たちがいて、その構図がはっきり見えているから、平気で笑顔になんかなれないのである。

私には、あんな濁り腐った水の中で平気でいられる人達の方が根っから暗い人 なのである。

このことを、私の仲間(ソウルメイト)に向けて言いたくなった。

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私の趣味

2018-05-05 | 楽しい・ワクワク

私の趣味っておかしいかなぁ

こんな趣味を日陰者のように思うけど、一方でとても正常な反応(嫌な物への強い抵抗)ではないかとも思う。

私は、物を通常のルート以外で手に入れるのが大好きで、趣味になっている。

本来の値段からかけ離れた値段で、あるいはタダで、物を手に入れることである。

新品を正規のルートで買うことを絶対したくない。新品なら、なんらかの理由(型落ち、在庫処分、商品入れ替え、閉店、店舗改装)で安く値がつけられたもの=飽くなき市場戦線からどうしても出てくるあぶれ物 にしか興味がない。※なるべく物を買わないのが基本で、どうしても必要で買う場合である。

暮らしを豊かにしたり住みやすくすることがはっきりと見えているなら、どうしても必要でなくても、買う。人生を豊かにするものは資産だと思うから。リサイクル市や蚤の市が大好きだけど、値段を法外に高く設定されている中古品もあり、そういうのは勿論買わない。情報弱者をタゲッた価格設定である。

すごく素敵な中古品を、とても安く、あるいはタダで手に入れるのが趣味である。人から素敵な物を貰ったり、捨てられているのを拾って来たりするのも好きである。

この趣味は、とてもみみっちい 日陰者っぽいような印象があるが、飽くなき大量生産・大量消費、市場経済にNo と言っている、私にとっては真っ当な、正しい反応のようにも思う。

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嘘で塗り固めたセレモニーではなくほんとの瞬間が見たい

2018-03-31 | 楽しい・ワクワク

結婚式、卒業式、入学式、いじめをなくそう講演会、障害者の講演会、なんとか式…改まった かしこまった式典では私はいつも泣けない。その場の演出された変性意識に乗せられて、泣く人たちが多くいるが、私は、可愛げがないが、ちっとも泣けない。

普段、押しのけられ 踏みつけられる立場にいる人や、周りの流れに逆らってそういうことをせずに踏ん張っている人(そして自分がいじめられるというパターン)は特に、こういう式典に違和感ばかり感じるだろう。

生活の中の、日頃の行いがすべてだから。

日頃、人を押しのけ、踏みつけにして浅ましく立ち回り自分の安泰を図っているくせに、改まった かしこまった式典の時だけ 例えば卒業式だと終わりよければすべてよしとばかりに色々なことを美談にして、有終の美 にすることに ちっとも泣けない。いじめをなくそう講演会や、障害者の講演会、教育の講演会もそう。この会場の外で、ひとりでいる時に、学校や会社、コミュニティ、駅、電車、バス、道で、運転中、ショッピングモールで、家で、なにをしているか それが真実である。こういうとってつけた場でだけよかふりするのはやめていただきたい。

生活の中での日頃の行いがすべてだから。誰に見せるでもなく、小さな瞬間の連続に、なにをするか どう動くか それがほんとのことだから。生活の中でのあらゆる瞬間に、浅ましくずる賢く人の頭を踏みつけてふるまっているくせに 卒業式や入学式 結婚式 葬式 講演会とかで 色んなことを美談にして自己陶酔して泣く人達を 冷めた目で見ている。

私は日常生活の中で変性意識に入るのが大好き。そういうのはたくさん欲しい。でも、こういうセレモニー的な変性意識には欺瞞ばかりを感じる。そして演出された変性意識の中で盛り上がって泣く人たちに軽蔑さえ覚える。

福岡人はセレモニーが大好き。わかるわかるw 日頃の行いを棚に上げて、かしこまった場所でだけよかふりするwのが大好き、晴れ舞台が大好きな田舎猿だもの。

生活の中での小さな瞬間に、なにをしているか それがほんとのこと。

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憧れが、本物を超える時②

2018-02-24 | 楽しい・ワクワク

憧れが、本物を超える時 

の続き。

天然でそれを備えている人と 憧れ続けてがんばっている人との間の越えられない壁のことを書いた。天然の人は、なにも力んでなくて、素でそれを当然の行為としてやってのける。

憧れている人は、それを元々は持っていなくて、それに出会って衝撃をうけたり 嗅いだ事のない初めての風の匂いを嗅いだりして 夢中になって追い求める。

憧れが、創造力を発揮し 本家を超える というのも見たことがある。

あれから考えたのだが その価値を知っている ということが強いと思う。

天然の人はとてもイケてるけど、そこがいいのだけど その価値をわかっていなかったりする。

その人の無意識の泉から自然と出てくる行為 その衝撃 社会における意味 すごさ そういうのをわかってない。

それを素で備えていなくて憧れている人は、その価値を知っている。価値を知ってることは 強い。

それが、強烈な原動力 となりいつの間にか天然本家を超えるものを作りだすことがある。

それでもtension いきみのない天然の圧倒的な存在にはかなわない んだけどw

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型にはまった幸せアピールへの違和感

2018-02-24 | 楽しい・ワクワク

会話やSNSや年賀状での幸せアピールのうざさについてはよく語られているが

最近、私の身の回りでも、若干ものすごく、うざいと感じる事例が出てきた。私とその女性(Rさん)には面識がなく、私と関わりのある男性の奥さんであり、母親である。そのRさんのやることは、彼との関わりの中で自然と、私の目に触れる所となる。

彼女の手がけたもの、なんでも 見栄えがよくて 世間の常識的に申し分なく優秀で 幸せそうなのに どうしてだろう。私は、彼女の手がけたものを見ると、なんかいやな気持ちになる。

息苦しいのと なんか、いちいちうざい感じ。鼻につく感じ。

そして、やっとそれを上手に表現することができた。

見栄えを計算された、型にはまった幸せアピールへの違和感であった。

その幸せは 自分の感性で 満たされてる 楽しい 心地よい 嬉しい というのではなく

社会的に「幸せそうに見せたい」という意図で、世間で既にできている型 誰かが既に作り上げて、世間が認めている価値観 空気感 世界観を周到になぞったものである。つまり既成価値への寄っかかりである。例えば、昨今が力の抜けた お洒落な感じ ゆるふわな感じw そういうのが流行っていてその型を超優秀になぞったものだったり。時代によって、浅ましく飛びついて、既にある価値観の中で完璧にやる感じ。一昔前だったら 持ち物や室内装飾において金持ちでござんす ドヤ みたいなのがイケてるステイタスだったので そういう時代だったらその型を必死でやるんだろうなって察する。 

こういうのが幸せに見える 認められるという世間体による幸せアピールは 私を息苦しく どんよりした気持ちにする。

その人の感受性で 幸せ 楽しい 嬉しい というのを表現するなら 私を陽気にさせ 自由な気持ちにさせる。外国にいる友人から送られてくる、ワクワクした勢いのある文面の絵葉書は、私にその空気を吸わせてくれる。こういうのはどんどんやって欲しい。

私は、本当の幸せなら たくさん見たい。その風の匂いを嗅ぎたい。でも、偽物の幸せをアピールしてくるのはとてもうざい。私を窮屈な気分にする。

彼女は 見栄えがよくて 世間様の常識的に申し分なく 優秀で 幸せそう にアピールすることで 自分に言い聞かせているのだろう。私は幸せだって。

それは、実際には幸せでない 満たされていないことを現している。人は、本当にそう思っていることを、声高にアピールする必要はない。tension(緊張)がある場合、嘘があることが多い。自分に納得させようとしている時は、自分に嘘をついている時だと思っている。本当に心から欲している物に対して、そんなことはしない。力んでいたら、嘘がある。

何かを自分の為に選ぼうかと検討する際、「自分を説得しにかかり、優れた点を雄弁に並べ立てて言い聞かせている自分に気づいたら、それ以上執着せずに手放しなさい。それはあなたの為の物ではないから。」と書いてあった。(参照:「自分を説得しないといけないなら、それはあなたの物ではない」 「自分を説得しないといけないなら、それはあなたの物ではない」②

私はRさんの手がけたものを見ると 気詰まりがして 心地いいとは逆の気分になる。

実はRさんの夫の男性も、訊かれてないのに、みんなの前で幸せ家族、よきパパ アピールしてくる。そこに違和感があった。なんでだろう。仲のいい家族 妻や子どもを大切に思ってる そういうのが伝わってくる人がいるけど、それとなにが違うんだろう。アピールすることに違和感がある。また、その人の日頃の他者への言動から、彼のアピールする幸せ家族がどうも釈然としない 辻褄が合わない そういう要因から、違和感があるのだろう。もし、他所では平気で人を傷つける 意地の悪い人 家では子煩悩なやさしいパパ という現象はあるとしても、わざわざアピールするのがどうも…嘘っぽいというか。

要約すると、自分の感性で嬉しいとか満たされているとかを他人に表現するのは 人に幸福の風の匂いを嗅がせてくれる。歌とか音楽もそうだ。でも、幸せに思われたい という意図で行うアピールは、人を気詰まりにする という話であった。

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憧れが、本物を超える時

2018-02-18 | 楽しい・ワクワク

私は、昨年の今頃もこのことを考えた。※抽象的な話である

ずっと憧れてる人は 時に ご本家を超える 

でも、こうも思った。

憧れてる人は それが自分の生まれもったものじゃないからこそ強烈に憧れる

それを生まれもった人(憧れられる人)は そのことにこだわりなく 自然にそれをやってのける

だから、いわゆる 越えられない壁 というか。だってその人天然でそれやってる そこに気負いとか意志とか反骨精神とか そういうtensionがなく当たり前にやってる 当然の行為として

私よくこのブログで言ってる。 教養を積んで、ある考えや姿勢に感化され、それを身につけようとしている知識人 と なんの教養もないけど生まれ育ちでそのことが当たり前 っていう人。例えば男尊女卑の発想がまったくない女の子とか。 

こういう現象ってあるよね 体制 風潮にNoと言い、逆の方にがんばっている人が 一番 その闘う相手である固定概念に縛られている っていう現象

この現象は、私の母に顕著にみられた。女の容姿をどうこういうことを嫌う リベラルな立場の筈なのに、誰よりも厳密な美人基準をふりかざしてきたり。私にw プロ奴隷九州女を軽蔑するのに(軽蔑に異論はなしw)、そこらへんの九州女よりもずっと優秀な九州女的意識が根付いてたりw完璧な九州嫁やなぁ君 自分で気づいてないけどダブルバインド(二重拘束)なんだよ。私は実際にも九州女として全くの劣等生であるww

あ、話が逸れちゃった

憧れてる人と その対象との間の 越えられない壁 ってあるよね 

でも 憧れ続けてる人が 本家を超える っていうのを見た経験もあるんだ

憧れは強い原動力だよね

でもかっこいいのは 天然でいきんでなくてそれが備わってる人なんだよね

私は、この話 ロックンロール のことを思いながら言ってる

あ、そうそう思い出しそう 私が一年前に はっと思ったこと

でも忘れちゃった

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ある場所でピアノを弾いていたら嬉しかった

2018-02-18 | 楽しい・ワクワク

最近出かけた先のあるお店にあったアップライトピアノを弾かせてもらっていたら

足を止めてずっと聴いている人がいた。弾いてた曲は、難しいとかcoolとかじゃなくて地味だけど好きな曲。その人がずっと立ち止まって聴いていたから、ちょっと触りだけのつもりだったのが、Bメロ Cメロ…と弾いた。

そのアップライトピアノ、私は好きだったのでその後も離れがたく、みんなが知ってるクラシック古典の触りだけ弾いてみた。するとさっきの人と違う婦人が、私に「すごく、いいわ」「とてもお上手だわ」ととても美人な笑顔で声をかけてくれた。そのご婦人は、その名曲よりも「さっきの曲、なんていう曲?」と言って、あの素朴な曲を大変気に入っていた。(具体的に書くと、私が特定されるかもしれないので伏せる)

あの地味な曲、人気なよう。

すごく嬉しい。このことを誇りに思う。

難曲じゃないし 派手じゃないし イケてもいない あの曲を私が弾くと、人の心に響いたことが嬉しい。

私が弾くと とは、随分と言うなと思われるだろうが 本当に思うから そう言った。

私がピアノを弾いていると、お歳を一定召された婦人が声をかけてくることが多い。歳を召したおじさんもいた。年配でない男は見てるだけ。そこに楽器があれば、合わせてくるイケてる少年たちもいた^^

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条件づけの修飾語が大事

2018-01-03 | 楽しい・ワクワク

占い 

の続きであるが、条件づけの修飾語が大事だと思う。

どういう時には そうで どういう時にはそうでない という、条件付けである。

「占い」に書いた、私にまつわる占い結果wの供述は、すべて 修飾語によって左右されることで、肝心のそれが欠落している。占いが科学者の目を点にさせ無言にさせる所以である。

よく、自己分析とか適職診断とかで、質問事項に答えていくという作業があるが、いつも思うんだけど、質問に答えにくい。質問が、乱暴でナンセンスなのだ。全部、場合によるのだから。精神科での検査でもそうだった。対象による 相手による 状況によるとしか答えようがない質問ばかりだった。

例えば、「人と接するのが好きか」という質問でも、どんな人と とか どんな状況下で という条件付けがないなら、答えようがない。

集中力がある とか 注意散漫とか 意志が強い・弱い こだわりが強い・ない 神経質・気にしない すべて、修飾語が真実を決定する。

何をする時に しかもどういう状況下でする時に、集中力があるかないかが決まるのであり、条件付けの抜け落ちた供述に なんの意味もない。それが占い であるw 精神科の検査結果も同レベルである。

自己分析や適職診断や人間のタイプの分類分け など、あらゆる質問形式がこのナンセンスな文章であり、そこから出された診断結果もナンセンスである。

どういう時に こうなって どういう時に ああなるか という観察がなされるべきであって

乱暴に十把一絡げにした質問、検査結果 は 害しかないように思う。

また、自分の人生を振り返って、浮き沈みをグラフにするという作業があったが、これも同様にとても困る、書きようのないものであった。縦軸が人生の充実度(輝き度)、横軸が年齢 という折れ線グラフである。他の人達は、講師に習って自分の人生の浮き沈みをグラフに書いて、自分でプレゼン解説していた。

こんな乱暴な人生の考察があるのか。ばかじゃないの?そんなに単純に書けないでしょう。1人、横に同じ高さに点を書いてそれを一直線で結んだ人がいた。裏と表「相殺」してこうなる って。

例えばひきこもりの時代はどん底 停滞 とも言えそうだが果たしてそうか ひきこもりなんかしない方がよかったか 私はそうは思わない。ある意味これ以上ないくらい豊かだった。

ある尺度では勢いよく輝いていても別の尺度では苦しかったし貧しかった。ものさしは1つじゃないから、あんな折れ線グラフは書きようがない。あんなワークをさせてきた講師のばかさだけが心に残った。(こういう粗末な講座が税金を使って行われている。ハロワの適職診断も然り)

ちょっと話が逸れたが、条件づけの修飾語なしには何も語るべきではない という話であった。

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補完関係

2018-01-03 | 楽しい・ワクワク

自分にないものをもった異性に魅かれる。

ある男性のことだが

その人からは、私と見事に逆のような性質を感じる。

だから、私はその人の言動が珍しく、新鮮に映る。私だったら絶対にできないようなことを、平然としてくる。私だったらこうする場面で、彼は逆のことをしてくる。相手の人も、私の言動をそう思っているようだ。私がしたことに、タジタジしている様子である。彼は、今までの経験から使えて成功していたことが、私には使えず、とても手こずっている様子である。

そこで、「合わない」となってはいない。むしろ、相手は私のことが好きで気になってしかたがないようで、その好意を全開にして表現してくる。私も、その不思議な反応に釘付けで、魅了されている。

理解し合えない者同士、犬猿の仲 あるいは関わらない仲 になってもいいのに、互いに吸い寄せられるこの反応は、どうしてだろうと考える。

それは、本当にばかみたいな文章だけど、好き というのが先にあるからのように思える。

私は、その人のことを好き という意識は自分からはなかった。むしろ印象は最悪であった。でも、相手の人は私のことを最初から好き というのがあって、色々な異文化 戸惑い 難問を +の方に変換しているように見える。それで、私はその人の不思議な態度に釘付けになっている。そして私もその人を理解しようと思っている。異質な者同士なのに、彼から親密さを感じる。

ことごとく逆だったら、触れ合う所が一切なく、箸にも棒にもかからない。

でも触れ合う所があると、それ以外色々逆でも 強く魅かれると思う。

その触れ合う所とは、私とその人の場合、好奇心、探究心なのかもしれない。違うから 理解できないからと言って諦めることなく、手を放さない感じがする。親密さ。そこに、誠実さを感じる。その人、全然誠実 っぽくない人なんだけど。男女問わず、良識人、常識人、誠実ぶってる人には、この手の誠実さがない人が多い。傲慢な自称常識人、3流以下である。

大事な部分に関わる強力な共通点があれば、色々逆でも、相性はいいかもしれない。

その人見ていると彼も複雑な多様性をもった人で、前面に色濃く出ている要素の逆の側面を同時にもっている。私もそうで、前面に出ている要素の逆の側面を同時にもっている。(誰だってそうだろうけどw)その具合が絶妙にはまると、相性がいいのだろう。

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占い

2018-01-03 | 楽しい・ワクワク

人の内面、性格は多様で多面なものである。

占いは、当たっているように思える。

でもそれは森のように多様性をもった複雑で深淵な人間の性質の、たった一側面をフォーカスし、言い当てたふりをしているだけである。

星座占い 四柱推命(動物占い) 数秘術 血液型w 五行占い 姓名判断 実に様々な占いがあるが

どれもある意味当たっており、それらは互いに矛盾する。

純粋でストレートに猪突猛進する  うん、そうそう

慎重で思慮深く考える教養人   うん、そうそう

繊細な心遣いで几帳面 神経質  うん、そうそう

大胆な言動で周囲を圧倒  うん、そうそう

チータのように駿足で飛びつく意志決定  うん、そうそう

石橋を叩いても渡らない  うん、そうそう

海のようにスケールの広い 底知れぬ知性が魅力的  うん、そうそう

無邪気で正直で裏表や計算がない人間 うん、そうそう

計算高く策をめぐらす  うん、そうそう

あなた程やさしい人は他にいない  うん、そうそう

あなた程人情のない人は他にいない  うん、そうそう

楽しいか楽しくないかが判断基準の快楽主義者  うん、そうそう

地道にコツコツ努力をして力をつけていく  うん、そうそう

徹底した合理主義者 無駄なことをしたくない  うん、そうそう

ウサギとカメのウサギ  うん、そうそう

ウサギとカメのカメ  うん、そうそう

意志が強く粘り強い  うん、そうそう

意志が弱くすぐ放り出す  うん、そうそう

計画性がなくだらしがなくルーズでけじめがない  うん、そうそう

小さくても自分の城の主になる器 うん、そうそう

頼りになる参謀にうってつけ  うん、そうそう

厭世主義 世捨て人になることも  うん、そうそう

人懐っこい 人あたりがいい  うん、そうそう

心を閉ざしている 猜疑心 不信感を強くもっている  うん、そうそう

ガードが固く難攻不落  うん、そうそう

無防備にすんなり受け容れる  うん、そうそう

自分のことで精一杯の子ども  うん、そうそう

社会的な視点を常にもっている知性派 うん、そうそう

戦車のように気が強い うん、そうそう

こじかのように気が弱い うん、そうそう

全部うん、そうそう  あるいは全部いいえ そうでもない

つまり、占いってナンセンスなんだよ

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淀んだ無意識の渦に澄んだ無意識が勝つ

2017-12-14 | 楽しい・ワクワク

意志の力よりも、圧倒的に人を動かすのは無意識である。

私は、最近このことを考える。今までの辛く苦しい経験から、感じ取ったこと。

それは、突き抜けていれば、勝つ ということ。勝つという言葉は好きじゃないから、圧倒すると言おう。

自分の中に、躊躇いや迷い、あるいは自分が好きじゃない人達の言い分 があったら、すごい勢いで漬け込まれ攻撃される。つまり例えば、これはおかしい と思っているのに、そのおかしいことを「常識」だとか「大人の分別」だとか思ってる頭の悪い人達(=自分の敵 互いの首を絞め合う人たち)の言い分 発想 を自分の中に組み入れてはいけない 余地を与えてはならないということである。それがあったら、迷いや明快さの欠如となり、即攻撃される。

自分の発想 に対して、疑ったり 遠慮したり してはいけない。

突き抜けた 迷いない 無意識は、淀んだ無意識の渦に勝つ。

confident:確信している  自信に満ちた

そんな存在になりたい。

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出会い直し

2017-11-24 | 楽しい・ワクワク

人の飽くなき消費活動についての前記事からの続きである。

人は、差を欲しがる習性を持っている。今までとの違い、差 を欲しがる。でもその物が自分の生活の一部に溶け込んだら、差はなくなり、その他たくさんの物たちと同じく見向きもされなくなる(taken no notice、ignored)。

差を欲しがる=「見慣れない物にすぐに食いつき、間もなく飽き 大切に思わない しまいには目もくれない」という動物的な性質を超えて 行動できることを目指したいと思う。と書いたが、差を得たがることを前提に、改良的に対処するなら、

人から譲り受けた物や、中古やアウトレット 訳ありで安く買った物でも、差を得ることができる。

新品でないと差を得られない訳ではなく、中古でも十分に差を味わうことができる。だから私はリサイクル市や蚤の市はいいと思う。差を互いに交換し合うのである。自分にとって、もう色褪せてしまった物、自分の中でなんらかの忌まわしいイメージ(例えば思い出したくない過去とか)が染み付いている物でも、他人にとっては新鮮に良さを感じさせ、十分に役割を果たせる物であることは、普通にあることだ。自分が「こんなもの」と思っている物を、他人は「欲しい」と思うことやその逆は、よくあることである。人は、自分の領域に既に入ったものをunderestimate し、自分の領域の外にあるものを overestimate /value する性質がある。

私は、販売前線に出回っている新品を買う時、どこか寂寥感 敗北感 を抱く。心が寒く、全然満たされない。だから物を普通に買うことはほとんどしなくなった。譲り受けたり、中古、型落ち品、廃盤品、在庫一掃 処分品 そんな物しか買わない。粗大ごみで捨ててあるのを拾ってもいいと思う。粗大ごみが粉砕機に放り込まれる様は、一度見ておくべきだ。

もっと、リサイクル蚤の市が日本にも浸透したらいいのに。

出会い直しというのも、発見した。家にある見向きもされなかった物との出会い直しである。

例えば、座敷の隅に、埃をかぶって重ね置かれている写真や絵の額縁群の中に、ゴブラン織りの絵を囲った額縁があった。70年以上前に買われた物で、埃をかぶってすすけていたが、濡れぞうきんで拭くとdullさは輝きに変わった。額縁に守られているので織物の絵は綺麗なままである。壁に掛けて飾ると、オレンジの照明に照らされてますますいい感じだ。

他にも、きれいに磨けば輝きを取り戻し、生活の中で普通に機能を果たす物は色々と潜んでいる。そういう物たちを生活の中に迎え入れるのである。止まっていた時計が、動き出すようだ。磨くことは、物に共に生きると言っていることである。英国などでは、磨くことが生活の中で大事にされている。

出会い直しも、とても気分のいいものである。

だから、私は物を捨てろ捨てろと煽る、今流行の振り子が好きになれない。「ときめきますか?」って、長年放置し続けてなんのrespectもappreciateもされてなくて埃かぶってlooking dullなものに、にわかには時めかないだろうw  だってあんたがそれに見向きもせずに大切にしてないんだから

捨てろ捨てろと言う流行りの勢力はスピリチュアル入ってるから、着地がいつも乱暴なのだ。

埃をかぶっている物でも、磨いて生活の中に迎え入れれば、機能を始める。機能を与えれば、機能を始めるのだ。私は、そういう出会い直し にこそ、心が満たされる

捨てなくてよかった とか 見くびってごめんなさい と思い、その機能を味わって受け取れる。こんなにちゃんと機能するのに、私捨てようとしてたんだよなぁ と思ったりする。

捨てろと煽る類の本が異常に世に出ているのは、その考えが、物を買わせたいという巨大な振り子の意図にまさに合致するからだろう。

ハート型のガーネットの指輪がどんなに探しても見つからない。

捨てる系のスピリチュアル本に扇動されて、勢いで捨ててしまったようだ。あの指輪は宝石の深い色に魅せられて、ある人に買って貰ったものだ。その人との関係も終わり、金色に光っていたリングの部分はコーティングが剥がれてくすんで銀色混じりになっていて、二連指輪でついていた方のリングも小汚く見えて「私の中で終わった物だ」「過去の抜け殻だ」と煽りに乗せられて捨てた記憶がちらほらある。その時は私の中でときめかない、魅力がないと思ったけど、時を経た今、あのガーネットが恋しくてたまらない。紫がかった珈琲色で、どうやらロードライトガーネットという種類らしい。とても香しく神秘的で深い色だった。思えば、私が天然石に魅かれるようになったのは、あれが始まりだったのかもしれない。指輪を買ってくれた人との関係は終わっても、あの珈琲色の石に魅了される気持ちは変わらないから、捨てるべきじゃなかった。この色の石なら今でも私に似合うし、年老いてもずっと似合うと思う。(それから、調べてみると金額的にも結構な金額であるw)

このように、煽られて捨てると後で後悔することがある。

出会い直しはいくらでもありえる。物を買うよりも満たされていい気分を味わえる。

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ごみを出さない生活

2017-11-22 | 楽しい・ワクワク

ごみ処理場に見学に行った。

巨大なごみ溜め(燃えるごみ)の上を、UFOキャッチャーに似た手が動き回り、ごみを掴んで移動させている。そのごみ溜めの中に、布団とか洋服があった。どうしてこんな所に?布団とか、燃えるごみで絶対回収されないでしょ。なんでぐちゃぐちゃのごみ溜めの中にあるの?この布団や洋服がここに行き着いてこんな末路を辿ってるなんて、出した人思ってないでしょ?

捨てることになった布団や服に、感謝ととむらいの挨拶をして、ちゃんと分別して出しても、現場の人の判断で、ごみ溜めの中に放り投げられ 可哀そうな末路を辿ることがあるようだ。(←あの後再度見学に行ってみると、やはり燃えるごみの溜めの中に布団とか洋服があったから、これは現場では通常のことなのがわかった。また、たんすや椅子、机などの家具が回転式粉砕機に放り込まれる末路も見学VTRで見て、可哀そうでない末路のごみなどないことがわかった。)

ごみを出さない生活をしよう と心から思った。

日本は、ごみを非常に出す国である。民度が低い。梱包も過剰で、売り手の販売戦略や、個人的に贈り物をする人の相手への丁重さ(よく思われたがり、「誠意」「真心」を見せる、相手の心を掴んでおきたい、カッコつけ、見栄っ張り、自己保身)が、環境への配慮という社会的知性よりも真っ先に優先する国である。その「誠意」や「真心」は、社会・環境にはちっとも向かず、自分の利益に関わる相手にはひたむきに向けられる。日本では、お中元・お歳暮など、特定の個人に対する贈り物は抜かりなく行われるが、匿名の寄付はちっとも普及しない。そういうのが、やっぱり「西洋の服を着た猿」なのである。

ごみを出さない とは、買わない ということである。今持っている物を大切に使うことである。

また、むやみに贈り物を購入する習慣に加担しないことである。虚礼は廃止するのがいい。食器とか、あつかんセットとか、急須とか花瓶とか、タオルとか、サイフォンセットとか、オブジェのついた時計とか要らない。必要な時に、自分でいいのを選んで買えばいい。結婚祝いも、誕生祝も要らない。贈り物の風習は、まことに不要で不合理なものである。

昔からある物を、むげに思って買い替えることはない。それがちゃんと使える物ならば、大切に使い続けるのがいいと思う。

人は、自分の家にある、見慣れた物をむげに扱うという自動的な心理がある。だから、他人の家にあがった時に、そこにある色々な物が、例えそれが古い物でも、新鮮に映り、よさを感じるし、逆に他人が自分の家に来た時にも、自分は見慣れたなんでもない物を、来訪者がいちいちもの珍しそうに歓ぶのである。庭に咲いてる花とか、生(な)っている柿とか、玄関とか、壁にかけてる物とか。

人は、自分の領域に入り込んだ見慣れた物を低く見積もり(underestimate / take no notice)外部にある見慣れない物を高く見積もる(overestimate  / value)という自動的な性質をもっている。

この性質は、販売側にとって非常に都合がよく、煽られ、利用されている。人々は、持っている物をむげに扱い、次々に物を買っていく。しかし、一度は真新しくて魅力的に映ったそれも、自分の領域に入り込むと、間もなく、 take no notice、ignoreされるたくさんの物の1つになる。

そこで私たちは、この、「見慣れない物にすぐに食いつき、間もなく飽き 大切に思わない しまいには目もくれない」という動物的な性質を超えて 行動できることを目指したいと思う。

満ち足りていことを知る、心を穏やかにする ことを目指したい。

物があるおかげで、その機能を受け取ることができる恩恵を、認識することが大事だろうと思う。あってよかった、役に立つ の反対が 当たり前 である。あるのが当たり前というスタート地点だと、今ある物に不満を感じ、もっといいもの と飽くなき消費活動に没入してしまう。その物があることで果たされる機能を、十分に認識することが大事だと思う。

昔からずっと使い続けている物は、それだけで、心の平穏に作用する。

途中経過として、「これ、ボロイし使い古しだしいやだな」「(販売商品を見て)これはすごくいけてる 素敵。それに比べてこれは…」と思う時期があっても(またこの比較による優劣勘定も、錯覚・誤りであることが多い。実際に古い物の方がものがいい例はあまたある)、そこを通り抜けると、今度は 昔から使い続けているそれに対して愛着が沸いてきて、何にも代えがたい存在になる。独特の存在になるのである。そんな物たちと一緒に暮らすのは、決して悪い気分ではない。いい気分だ。

また、質の面でも、華々しくスタイリッシュに売り出されている最新の物が上質とは全く限らず、モデルチェンジ、リニューアル、New! という名の下に秘かに劣化している場合は多々ある。昔の物の方が、遥かに上質であるという事例には多々出会ってきた。最新だから優れているとは全く限らない。

物を買え 消費しろ という振り子が絶え間なく喚き続けるので、その対抗の振り子に肩入れしたしだいである。

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扇動によらない変性意識

2017-11-22 | 楽しい・ワクワク

物を買わせようとする振り子たちは、私たちにあらゆる手段を使って、買わせる方向に仕向けてくる。

人の優越感 劣等感 差別意識 特権意識 そういうのを煽って利用して、商品やサービスを買わせようとしてくる。世の中を醜くさせる犯人である。

人を、変性意識に落とすことは、よく使われる心理操作の1つである。

その場の魅力的な雰囲気、照明、香り、室内演出、販売員の雰囲気、セールストーク(福岡で多いのが脅し 威圧であるw) などにより、その商品を買うことを仕向けてくる。

私は、こういう煽りによらない、日常の中で入る変性意識 にとても興味がある。

振り子の目的・意図による煽りで変性意識になるのではなく、自分のために変性意識に入ることである。

これが、日常の中で頻繁にできたらいい。

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一緒にいたかった男性

2017-11-16 | 楽しい・ワクワク

昔、私とその男性は互いに魅かれ合った。

毎日会って、少しのやりとりを交わす大勢の中の1人であった。

私は彼のことが気になって、向こうも私のことを気になっていたと思う。

毎日少しの接触をする大勢の中には、私に近寄って親しくなろうとする男性もいた。その人達のことは好きで、楽しい会話などしたけど、私が近くなりたいと思っている人は、あの人であった。

私とその人は、色々な面において対照的に違っていた 全く異質な者同士であった

でも、共通してもつ要素がいくつかあるようだった

だから私たちは、互いになにかを感じ取ってvibrationの交信をしていたと思う

きっと、私たちは互いのことを知れば知る程 魅かれ合ったに違いない

そういう確信的な予感ってあるものだ

でも私とその人は、無性に気にし合いながらも、双方ともそれ以上近づこうとはできず、その距離はずっと平行のままだった そのまま物理的に離れて会えなくなった

沈黙が破られることは最後までなかった

とても哀しい 

でも、私の中にあの人はずっと忘れられず存在していて

彼の中にも 私が同じように存在しているのではないか と思っている

それは、もしかしたら、何からも侵されることがない、最も詩的な関係、美しい関係と言えるかも知れない

ならば、あの人が今は他の誰かと一緒に過ごして生活を営んでいるだろうといって

哀しんだり 心に波風立てたりすることはないと思えた

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