また後日、”The Tales of Old Japan”という著作で、赤穂四十七士、白井権八と小紫、舌切り雀、花咲じじいなどのおとぎ話、怪談佐倉宋五郎、鍋島猫騒動、切腹、結婚、葬式などの文化についての考察などをまとめたものがある。
パークスが学歴がないたたき上げであり、同僚のアーネストサトウは日本語に堪能で頼りにはなったが、ラトビアからの移住者で庶民階級、日本の貴族達との交渉には困難があったと思うが、ミットフォードはその仲介をしていたのではないか。ミットフォードは大坂で1867年に徳川慶喜と会い、彼の先進的な考え方に感銘を受けたという。その大阪滞在では小松帯刀、木戸孝允、中井弘蔵、井上馨らとも交流していたようである。生麦事件が起きたのは1862年、その後の薩英戦争を経て、英国は日本の風習や文化を学んでいたが、当時の日本は攘夷の嵐が吹いていたときで、外国人というだけで浪人達に切られる危険が大いにあり、実際多くの外国人達が攘夷を叫ぶ浪人達に切られる事件が相次いでいた。ミットフォードとパークスも実際1868年3月に京都の天皇に謁見に向かう途中浪人に斬りつけられ、同行していた後藤象二郎達に助けられている。
また、加賀の前田公に謁見したあと、陸路越前、近江を通って大阪まで旅をしているが、その途中でも身の危険を感じる事件があり、偶然の旅程変更で事なきを得た。旧幕府体制から新政府体制に移行する実に動乱のこの時に日本外国人として滞在していた外交官の日誌は歴史的にも大変貴重な資料である。日本人が恐る恐るながらも国際的な国の位置づけを意識し、大国のイギリスとうまく付き合っていきたいという気持ちを持っていることが随所に伺え、それを感じ取ったミットフォードもそれを受け止めている。
この10年後に日本は朝鮮に開国を迫り、日朝修好条約を締結して開国させているが、その時の暴力的威圧的な対応を知ると、この当時の英国と日本の文化的政治的外交力の格段の違いを思い知らされる。現在でもそれはまだ存在しているかもしれない。1906年には英国コンノート殿下の随行員として来日し、40年の日時がどのような変化を日本にもたらしたかを知る。他の外国人も褒めそやす当時の日本の美しさをミットフォードも述べているが、40年後の日本はすっかり変わっていたようだ。開国は文明開化をもたらした。明治維新のあとの殖産興業、富国強兵で日清日露戦争に勝利し、太平洋戦争に向かっていった日本、その後の経済発展を経験した日本で、日本人は果たして幸福になったのだろうか、考えさせられる。アーネストサトウの「一外交官の見た明治維新」も読んでみたい。
英国外交官の見た幕末維新 (講談社学術文庫)
一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)
一外交官の見た明治維新 下 岩波文庫 青 425-2
イザベラ・バードの日本紀行 (上) (講談社学術文庫 1871)
イザベラ・バードの日本紀行 (下) (講談社学術文庫 1872)
イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む (平凡社ライブラリーoffシリーズ)
オールコックの江戸―初代英国公使が見た幕末日本 (中公新書)
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