人質とか自己責任とかの言葉が踊ったのは数年前。でも、捕虜と言う言葉は日本に関しては、60年間、死語も同然だったのではないか?
そんな時代に生きているtesyukeの、一瞬震え上がった経験。
1997年。1ヶ月にわたるオーストラリア人とのトルコ旅行。ぼちぼちみんなの顔と名前がわかってきだした頃。地中海に面する保養地に滞在していた・・・・ ちょうど旅も半分近くになったころ・・・
がっしりと、堂々とした体格の紳士。いつもフォーマルな格好で、毅然としているMr. Cottee。
60代後半ぐらいの年に見える彼が、ある日私に話しかけてきた。どんな話がスタートだったか忘れたが、とにかく、
Mr. Cottee 私は、シンガポールで日本の捕虜収容所にいました。
tesyuke ・・・・・・・・
び、びっくりして声も出ない。こ、こんなところで、こ、こんなことを聞こうとは、ど、どうしたらよいの・・・・
反射的に思い出したのが、あの映画 “戦場のメリー・クリスマス”。tesyukeの心は、一瞬にして黒雲に覆われたようになった。
某女性閣僚(現内閣の)が“あっしには関わりのないことでござんす(太平洋戦争当時は、生まれておりませんで・・・)なーーんてニュアンスのことを言ったとか言わなかったとか、そんな話もありますが・・・
やはりそれでは駄目でしょう!!
日本と言う国に生まれ、その過去現在未来へと続く一本の線上に存在する日本人として・・
彼が何を言おうとも、tesyukeは逃げるわけにはいかない。
今できることといったら・・・ただ聞くのみ。心からの謝意を態度にこめるのみ。
それにしても、・・
い、いったいこの人は何才なの? 50年前に戦争に行っていると言うことは70歳をこ、こえているということ?
(ほんの数秒の後)
Mr. Cottee 私たちを管理していた日本兵(の上官)が、すばらしい人柄で尊敬できる人でした。戦後、私は彼に会いに日本に行きました。
彼の名前は、Shunzo・****。住所は*****,Shigaken。息子の名前は****と*****。
この時は、心の中で、このShunzo・****さんに思わず手を合わせた。あなたの人柄と振る舞いが、50年後の日本人にこのような形になって帰ってきているのです。ありがとうございます。涙の出そうな気分だった。
Mr. Cottee 当時私は27歳で彼は私より年上でした。又、会いたいと、思っています。日本語はもう、ほとんどは忘れてしまったけど・・・・いくつか覚えています・・オハヨー・メシ・***(その外)悪い言葉が多いね・・
tesyukeは思った。
収容所にいて、良い思い出なんかそんなにないだろうに・・
つらいこと・悲惨な思い出のほうが多かったかもしれない。コッティさんも同行者に日本人がいると知った時、収容所の体験を話したいが・・どうか・・・な・・・と、複雑な気持ちだったかもしれない。何日も逡巡して、やっと声をかける気になったのではないか?と。黙って去っていくには忍びない日本との縁。Shunzoさんが後押しをしたのかもしれない。
とにかく、それ以後、彼は毎朝“オハヨー”と、声をかけてくれ、仲良くなった。
tesyukeは、近ければShunzoを尋ねてくれと、彼が書いたメモを今も持っている。
そして、トルコから帰り、コッティさんと撮った写真を持ち、感謝をこめてSyunzoさんを尋ねた。
Syunzoさんは、戦後まだしもの時代にオーストラリア人が尋ねてくるなどとは、真意がわかるまでは天地がひっくりかえるほどの恐ろしさであったと語って、黄色く変色した当時の新聞を見せてくれた。コッティさんは、八方手を尽くして、この日本人の消息を探し(苗字が変わっていたので)、尋ねて来たと言う。
そんな時代に生きているtesyukeの、一瞬震え上がった経験。
1997年。1ヶ月にわたるオーストラリア人とのトルコ旅行。ぼちぼちみんなの顔と名前がわかってきだした頃。地中海に面する保養地に滞在していた・・・・ ちょうど旅も半分近くになったころ・・・
がっしりと、堂々とした体格の紳士。いつもフォーマルな格好で、毅然としているMr. Cottee。
60代後半ぐらいの年に見える彼が、ある日私に話しかけてきた。どんな話がスタートだったか忘れたが、とにかく、
Mr. Cottee 私は、シンガポールで日本の捕虜収容所にいました。
tesyuke ・・・・・・・・
び、びっくりして声も出ない。こ、こんなところで、こ、こんなことを聞こうとは、ど、どうしたらよいの・・・・
反射的に思い出したのが、あの映画 “戦場のメリー・クリスマス”。tesyukeの心は、一瞬にして黒雲に覆われたようになった。
某女性閣僚(現内閣の)が“あっしには関わりのないことでござんす(太平洋戦争当時は、生まれておりませんで・・・)なーーんてニュアンスのことを言ったとか言わなかったとか、そんな話もありますが・・・
やはりそれでは駄目でしょう!!
日本と言う国に生まれ、その過去現在未来へと続く一本の線上に存在する日本人として・・
彼が何を言おうとも、tesyukeは逃げるわけにはいかない。
今できることといったら・・・ただ聞くのみ。心からの謝意を態度にこめるのみ。
それにしても、・・
い、いったいこの人は何才なの? 50年前に戦争に行っていると言うことは70歳をこ、こえているということ?
(ほんの数秒の後)
Mr. Cottee 私たちを管理していた日本兵(の上官)が、すばらしい人柄で尊敬できる人でした。戦後、私は彼に会いに日本に行きました。
彼の名前は、Shunzo・****。住所は*****,Shigaken。息子の名前は****と*****。
この時は、心の中で、このShunzo・****さんに思わず手を合わせた。あなたの人柄と振る舞いが、50年後の日本人にこのような形になって帰ってきているのです。ありがとうございます。涙の出そうな気分だった。
Mr. Cottee 当時私は27歳で彼は私より年上でした。又、会いたいと、思っています。日本語はもう、ほとんどは忘れてしまったけど・・・・いくつか覚えています・・オハヨー・メシ・***(その外)悪い言葉が多いね・・
tesyukeは思った。
収容所にいて、良い思い出なんかそんなにないだろうに・・
つらいこと・悲惨な思い出のほうが多かったかもしれない。コッティさんも同行者に日本人がいると知った時、収容所の体験を話したいが・・どうか・・・な・・・と、複雑な気持ちだったかもしれない。何日も逡巡して、やっと声をかける気になったのではないか?と。黙って去っていくには忍びない日本との縁。Shunzoさんが後押しをしたのかもしれない。
とにかく、それ以後、彼は毎朝“オハヨー”と、声をかけてくれ、仲良くなった。
tesyukeは、近ければShunzoを尋ねてくれと、彼が書いたメモを今も持っている。
そして、トルコから帰り、コッティさんと撮った写真を持ち、感謝をこめてSyunzoさんを尋ねた。
Syunzoさんは、戦後まだしもの時代にオーストラリア人が尋ねてくるなどとは、真意がわかるまでは天地がひっくりかえるほどの恐ろしさであったと語って、黄色く変色した当時の新聞を見せてくれた。コッティさんは、八方手を尽くして、この日本人の消息を探し(苗字が変わっていたので)、尋ねて来たと言う。