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Tesyuke‘s diary

行く川の流は絶えずして・・・
日々忘れ去っていくことどもを書き留めて思い出といたしましょう。

私は、日本軍の捕虜だった!!(オーノー)

2007-04-06 01:20:12 | トルコ
人質とか自己責任とかの言葉が踊ったのは数年前。でも、捕虜と言う言葉は日本に関しては、60年間、死語も同然だったのではないか?

そんな時代に生きているtesyukeの、一瞬震え上がった経験。
1997年。1ヶ月にわたるオーストラリア人とのトルコ旅行。ぼちぼちみんなの顔と名前がわかってきだした頃。地中海に面する保養地に滞在していた・・・・ ちょうど旅も半分近くになったころ・・・

がっしりと、堂々とした体格の紳士。いつもフォーマルな格好で、毅然としているMr. Cottee。 
60代後半ぐらいの年に見える彼が、ある日私に話しかけてきた。どんな話がスタートだったか忘れたが、とにかく、

Mr. Cottee 私は、シンガポールで日本の捕虜収容所にいました。
tesyuke  ・・・・・・・・
      び、びっくりして声も出ない。こ、こんなところで、こ、こんなことを聞こうとは、ど、どうしたらよいの・・・・
反射的に思い出したのが、あの映画 “戦場のメリー・クリスマス”。tesyukeの心は、一瞬にして黒雲に覆われたようになった。


某女性閣僚(現内閣の)が“あっしには関わりのないことでござんす(太平洋戦争当時は、生まれておりませんで・・・)なーーんてニュアンスのことを言ったとか言わなかったとか、そんな話もありますが・・・
やはりそれでは駄目でしょう!!

日本と言う国に生まれ、その過去現在未来へと続く一本の線上に存在する日本人として・・
彼が何を言おうとも、tesyukeは逃げるわけにはいかない。
今できることといったら・・・ただ聞くのみ。心からの謝意を態度にこめるのみ。

それにしても、・・
い、いったいこの人は何才なの? 50年前に戦争に行っていると言うことは70歳をこ、こえているということ?

(ほんの数秒の後)

Mr. Cottee 私たちを管理していた日本兵(の上官)が、すばらしい人柄で尊敬できる人でした。戦後、私は彼に会いに日本に行きました。
彼の名前は、Shunzo・****。住所は*****,Shigaken。息子の名前は****と*****。
この時は、心の中で、このShunzo・****さんに思わず手を合わせた。あなたの人柄と振る舞いが、50年後の日本人にこのような形になって帰ってきているのです。ありがとうございます。涙の出そうな気分だった。

Mr. Cottee  当時私は27歳で彼は私より年上でした。又、会いたいと、思っています。日本語はもう、ほとんどは忘れてしまったけど・・・・いくつか覚えています・・オハヨー・メシ・***(その外)悪い言葉が多いね・・

tesyukeは思った。
収容所にいて、良い思い出なんかそんなにないだろうに・・
つらいこと・悲惨な思い出のほうが多かったかもしれない。コッティさんも同行者に日本人がいると知った時、収容所の体験を話したいが・・どうか・・・な・・・と、複雑な気持ちだったかもしれない。何日も逡巡して、やっと声をかける気になったのではないか?と。黙って去っていくには忍びない日本との縁。Shunzoさんが後押しをしたのかもしれない。

とにかく、それ以後、彼は毎朝“オハヨー”と、声をかけてくれ、仲良くなった。
tesyukeは、近ければShunzoを尋ねてくれと、彼が書いたメモを今も持っている。

そして、トルコから帰り、コッティさんと撮った写真を持ち、感謝をこめてSyunzoさんを尋ねた。
Syunzoさんは、戦後まだしもの時代にオーストラリア人が尋ねてくるなどとは、真意がわかるまでは天地がひっくりかえるほどの恐ろしさであったと語って、黄色く変色した当時の新聞を見せてくれた。コッティさんは、八方手を尽くして、この日本人の消息を探し(苗字が変わっていたので)、尋ねて来たと言う。

巻き寿司 in Istanbul ②

2007-02-08 23:57:15 | トルコ
エミネさんは日本の語学留学生に部屋を提供したりしているので、なかなかの日本通。
彼女の頭の中の日本男性は、女性に家事全般依存しており、奥さんが長期の旅行に出るなんて言ったら、“俺の飯はどうなるねん”と言うような・・・・ちょっと古いステレオタイプ。

そんな彼女がtesyukeのhus.Kを高く評価してくれている。なぜか?
“日本の男性(若くない)で、奥さんが一人で1ヶ月も旅に出るのをOKできるなんて、素晴らしい人だ!・・・日本にはめったにいないのでは?”と、言う訳。
そして、日本に来た彼女にKがとても親切にしてあげたのもあってか言外に匂わせる。・・・“次は、Kと一緒だよ!一緒に来るんだよ。”

そういうわけで、2005年の夏休みtesyukeにとっては3回目、Kは初めてのトルコ旅行と相成った。このときは、東部のネムルート山まで行ったが、その話はまたの機会に・・

とにかくtesyukeも成り行きが想像できるので、今回は海苔をはじめ醤油、わさび等買い込んで行った。(新鮮なものは安心して使える。)
巻き寿司に関しては、もういっぱし。まかせて。ついでに、炊き込み御飯の素も使って“ジャパニーズ・ピラフ“なー-んちゃって出したら、作り方を聞かれた!りした。

しかし、知り合いの青年士官(彼の家族にお世話になった事がある)が来た時、彼は、まったくお寿司・わさび・醤油初体験。神妙な顔つきで食べていたのが思い出される。
トルコの人は、自国の料理に誇りを持っているし、バラエティーに富んでいて又おいしくもある。で、余りよその国の料理に関心を示さないふうなところがある。

しかしどうやら、お寿司(巻き寿司がポピュラーかな)には関心があって、名前は知っている。しかしまだ実際に食べたことがない、という段階か。(トルコ料理も、お米をよく使うので、受け入れられる素地は十分。)
これがお寿司よ、食べて、といわれると、えらく感激する。と、いう事がわかってきた。エミネさんがどこへ行くにもお寿司を持って行きたがったわけだ。

帰国の時、イスタンブール空港で、お寿司の店を見つけた。
あんまりはやっていないみたい。偵察に行ったtesyuke・・・・私のほうが上手いんでないの・・・

巻き寿司 in Istanbul ①

2007-02-07 23:09:55 | トルコ
考えれば、外国で作る巻き寿司のほうが、何でもあり—-と、言う感じで気楽かもしれない。シビアな目で、出来栄えを評価されることもないしね! tesyukeも今では、いっぱしの寿司職人???(あはは・・・)

イスタンブルにフラットを買ったから遊びにおいでと、エミネさんが言ってきたのが2003年。
そして、tesyukeはまたもやイスタンブールで巻き寿司つくり・・・・・!!

英語の電話よりもっと嫌なこと!・・・それは、エミネさんが“ハーイ・パーテイ-、パーテイ-だよ!パーテイ-開くよ”と、言う時!!
胸がキュンとなる。すごいストレス。しかしこの話は、又の日に・・・・
で、もって彼女が開くパーテイーにちょっと目玉として、巻き寿司を作る。要領はわかっているのだが、場所柄、手に入るものが限られるし、巻きすもないし。

海苔はあるが、tesyukeとしたら、ちょっと古いんじゃない?と、思ってしまう。わさび・醤油もあるが、期限が問題・・・
心の中でこんなの使いたくない!と思いつつ、まっ、他にないし。
どうしようもないな・・・こんな素材で作るのか・・・イヤー-・・・困るな・・・と、行ったり来たり、そんな感じ。
妥協して作るよりしょうがないので、現地の人に受け入れられやすいようにアレンジする。アレンジしたものを、巻き寿司ってこんなだ、と、喜んでくれる。ちょっとしたジレンマ。
MAKIZUSHIとなると、もう日本人の手を離れたも同然かな?
ライス・サラダと言うように捉えれば良いのでは?と、今は思っている。

で、パーテイー。巻き寿司、売りきれました!!
もっとも、“醤油!そんなにつけるな!!”なんて、心で叫んでたけど・・・
この時、来ていたトルコの青年に招待されて、彼のフラットを後日尋ねた。この時も、巻き寿司をおみやげに。彼のお母さが持参したトルコ料理に並んで日土友好的風景だった。
そう言えば、もう一軒たずねたところにも持参した・・・
巻き寿司伝道の旅でありました。

ノーベル文学賞・・・わたしの名は紅

2006-11-29 18:49:48 | トルコ
今年のノーベル文学賞を受賞したオルハン・パルク。
彼の本『私の名は紅(あか)』をいつも行く大学の図書館で借りる。近代文学はあんまり読まないのだが、トルコの作家であると言うので興味をひかれた。
マイナーな言語の翻訳という事で、読み辛いかなと思っていたのだが、非常に滑らかで読みやすそうだ。

イスタンブル(現地の人はイスタンブールと伸ばさない)は、計3回訪問して、頭の中にほぼ地図が収まっている。ボスボラス海峡をフェリーで何回往復したことか・・・思い出すと、涙が出て来るほど懐かしい。
そのイスタンブルが舞台。時代は中世のオスマン・トルコ帝国。

まだ30ページしか読んで無いが、内容は、『一人の細密画師が殺される。その犯人さがしをしつつ、「絵画はアラーのためにある」というイスラムの考えを守ろうとする保守派と西洋絵画の様式を取り入れようとする革新派の争いについて描く。』とある。なんだか、イスラムの国でありながら、EUに加入したいと思っている現実のトルコ自身が、この本にかぶさって思われる。

著者自身の日本の読者へと言う前書きの一部。

・・・・・・私が識った中国や日本の絵画の傑作を眺めることは、わたしに西洋の外にもう一つの天国があることを知る幸せを常に与えてくれました。山や森や木や川を人間の魂の苦しみや悦びによって変化するものとして表現するあの詩的風景や、遠近法の人間中心の計算に屈服することの無い無数の巻物の絵を・・・・・・
・・・・・・西の影響によっても傑作を作り出した日本の近代絵画は西の人間性と東の人間性が互いに幸せに調和できることをも示しました。・・・

西洋の外にある強力で豊かな世界をこの本の細密画家たちが知っていたら・・・と、作家は言う。
ありがとう。こんなに言ってもらって。
《西洋の外にある強力で豊かな世界》としての日本でありたいものだ。いつまでも。







ガリポリの戦いの犠牲者は・・

2006-10-30 23:24:35 | トルコ
Jody・ニュージーランドの口からANZACとガリポリ と言う言葉が飛び出したときtesyukeは、かっての経験を思い出した。

1997年、オーストラリア人達とのトルコ旅行で、第一次世界大戦の時のガリポリの戦い(Battle ofGallipoli)戦死者の為の霊廟(墓地公園)を、訪れた時のことです。
彼らと一緒でなければ、行くこともなく・知ることも無かった・・・歴史の一こま。
オーストラリア人がトルコに来る目的の一つは、ここに来ることらしいとは、ずー――っと、後になって知ったことです。

イスタンブールから観光バスでヨーロッパ側を延々と走って、ダーダネルス海峡を渡ればもうアジア側と言う地点。そのヨーロッパサイトの端にあるのがガリポリ半島。
第一次世界大戦の時に、この地で無くなったANZAC兵士の墓や記念館がここにあるのです。

訳も分からず、連れられてきて、tesyukeの頭の中は霞がかかたようなもので・・・・なにがなにやら・・
しかし、今でもあの美しい景色・何かさむざむとした思いの込み上げてくるような美しさを忘れることは出来ません。緑の芝生に白い小さな墓標が、規則正しく並んでいるのです。その数のなんと多いこと・・・。そして、抜けるような青空。マルマラ海かエーゲ海か、海のブルーが空と溶けあって、その場がぽっかり異次元であるかのように感じられるのです。無音の空間に、海からの強い風のみが、音を発して行きます。

オーストラリアのお年より達は、墓標の間を逍遥しながら、涙をぬぐっています。tesyukeは、かたわらに立って、この人たちはいったい死者となんの関係があるのだろう
などと考えておりました。
が、一つ一つ墓標を見ていくと・・・tesyukeも、泣かずにおられなかった。
17歳・18歳・19歳・20歳・21歳・・・
墓標に刻まれた年齢のなんと言う若さ。20才前後の青年達の、無為に帰した前途を、悼まずにはおれなかった。

一本の高い木(ローン・パインと言っていたかな?)の元に皆を集めて、ガイドのトルコ青年が言いました。『トルコとオーストラリアの間には過去にこのような不幸な出来事がありました。しかし、それを乗り越えて、今は友好関係を結びました。今後も、共に、仲良くしていきましょう。死者に1分間の黙祷をささげましょう。』

トルコ共和国初代大統領、ケマル・アタチュルクのANZACの兵士にささげる大きな記念碑が建っていました。この碑を見て、指導者のメリハリのきいた行動は、遺恨を残さず友好に寄与するもんだな―――などと、みように納得したことを思い出します。

*ANZAC(Australia and New Zealand Army Corps)
*ガリポリの戦い(Battle of Gallipoli)は第一次世界大戦中、同盟国側のオスマン帝国(トルコ)の首都イスタンブル占領を目指して連合軍が行ったガリポリ半島への上陸作戦。ダーダネルス海峡の西側、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたる半島の英語名で、イギリスではこの戦いをダーダネルス作戦と呼ぶ。