福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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松宮輝明「戦前、戦中、戦後を生きる(幼少編)」第3話  アメリカ空軍の爆撃から逃げまとう

2017年08月16日 | 福島の焼き物と窯

マメタイムス新聞社掲載
平成27年9月28日(月)







◎石城郡湯本町(現いわき市常磐)の鹿島変電所、父松宮俊明は後列左から2人目



◎常磐炭鉱に送電していた鹿島変電所の変圧器はアメリカ軍の空爆で焼夷弾で攻撃され炎上した。


松宮輝明「戦前、戦中、戦後を生きる(幼少編)」第1話  第2次大戦の前年に生まれる

2017年08月15日 | 第2次大戦の前年に生まれる
昨年、平成27年は第2次大戦終戦70周年記念の年でした。 筆者は、大戦の前年、昭和15年1月2日に生まれました。 祖父の松宮寛示は、明治15年の生まれ、 陸軍省の奏任官で、法務部の文書課長として 軍務に精励していました。 祖父は戦時中には陸軍第一師団の文官として、 陸軍の中枢に深く関わりました。 戦前、戦中、戦後の混乱の時代が私達の幼少、少年期でした。 戦時下爆弾の下を生き抜き、戦後の混乱と貧困の生活を過ごした少年、少女建が筆者の時代でした。

マメタイムス新聞社掲載 平成27年9月25日(金) ◎戦前の松宮家族、左から松宮タキ(母)、輝明(筆者2歳)吉見(長男10歳)、弘典(次男5歳)父は青森連帯に入営中


松宮輝明・正岡子規の果て知らずの記を行く(4) 本宮、二本松杉田編

2017年08月12日 | 子規が杉田の遠藤菓翁を訪ねる
福島民友新聞掲載
平成22年9月1日(水)






◎旧杉田小学校跡に建つ子規の句碑「短夜の雲収まらずあだたらね」寒川鼠骨筆



◎杉田村の遠藤菓翁の次男は二本松町長となり、善政を行いました。二本松城には徳をたたえ顕彰碑が建っています。

◎阿武隈時報新聞掲載
平成20年2月5日(火)





◎阿武隈時報新聞掲載
平成20年2月6日(水)















松宮輝明・正岡子規の福島俳句紀行を行く(3)郡山編

2017年08月10日 | 文化の町郡山での子規
福島民友新聞掲載
平成22年9月1日(水)






◎子規の病床を見舞い交友が深く、郡山の俳句に貢献した今泉丈助
丈助は郡山の名主検断の生まれ俳号を「桐舎」と称しました。



◎郡山の俳人今泉桐舎の子孫宅に残されている掛へ軸。中央が子規、右上から内藤鳴雪、河東碧梧桐、左上から坂本四方太、高浜虚子



◎子規が郡山の駅前に泊まった「和久屋旅館」ここより伊予松山の河東碧梧桐に手紙を書き送りました。


◎戦後昭和40年頃の「和久屋旅館」


◎子規が早朝浅香沼を見ようと訪ねたのは、1里半の地点の宝沢沼でした。


阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月31日(木)





阿武隈時報新聞掲載
平成20年2月1日(金)




阿武隈時報新聞掲載
平成20年2月2日(土)




阿武隈時報新聞掲載
平成20年2月4日(月)







松宮輝明・正岡子規の福島紀行を行く(2)須賀川編

2017年08月09日 | 子規が須賀川宿の俳諧師道山荘山宅へ
福島民友新聞掲載
平成22年8月25日(水)






◎奥の細道で芭蕉が7日間逗留した相楽等窮の墓(長松院境内)


◎芭蕉が「世の人の見つけの花や軒の栗」と詠んだ可伸亭跡(現在の可伸亭跡は、須賀川市役所敷地にあった可伸亭跡を昭和34年4月に区画整理整理のためNTT敷地に移設したものです)


◎石井雨考の肖像画


◎石井雨考(右)、女流俳人の市原たよ女(左)の句,亜欧堂田善の画(中央)


◎白河藩主松平定信公に見いだされた亜欧堂田善の肖像画


◎国の重要文化財になった「浅間山図」



◎亜欧堂田善の浅間山図の構想を練った原画



◎明倫講社の三森幹雄の書


◎明倫講社の三森幹雄の句




◎明倫講社の三森幹雄の句


阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月24日(木)




阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月25日(金)




阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月26日(土)




阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月28日(月)




阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月29日(火)




阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月30日(水)



 正岡子規生誕150周年記念  松宮輝明「正岡子規の福島俳句紀行を行く」(1) 白河編

2017年08月08日 | 平成29年正岡子規生誕150周年記念の年にあたり、子規の東北俳句紀行を掲載


正岡子規の「果て知らずの記」の草稿は、子規没後,大正2,3年頃、福島県の部分は反古になってしまいました。(寒川鼠骨識)
そこで、根岸の「財団法人子規庵保存会」の理事奥村雅夫先生、伊予松山の松山市立「正岡子規記念館」の学芸員平岡瑛二先生の助言をいただき、福島県内の子規の足蹠を検証してみました。


福島民友新聞社掲載
平成22年8月25日(水)






◎正岡子規が一高時代に野球に興じた上野の山の野球場(子規記念球場に建つ句碑)



◎正岡子規が白河駅に降り立ち、結城城の三重の塔を訪ねたと書き残している。結城城には三重の塔は歴史上は無かった。
子規は、白河領総鎮守鹿島神社に建つ三重の塔を見たのです。
三重の塔は、明治37年の大風(台風)により倒壊したと云われている。(写真は蒲生羅漢筆)



◎鹿島神社に建つ三重の塔の案内表示


◎結城時代の白川城址


◎白川城の天守跡


◎結城城搦目手門下にある感忠銘、白河藩主松平定信公の碑文


◎白河市天神町の天満宮にある子規の句碑「夏木立宮ありそうなところかな」


阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月18日(金)



 

 

阿武隈時報新聞掲載

平成20年1月19日(土))




阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月21日(月)



阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月22日(火)