マメタイムス新聞社掲載
平成27年9月28日(月)
◎石城郡湯本町(現いわき市常磐)の鹿島変電所、父松宮俊明は後列左から2人目
◎常磐炭鉱に送電していた鹿島変電所の変圧器はアメリカ軍の空爆で焼夷弾で攻撃され炎上した。
マメタイムス新聞社掲載
平成27年9月26日(土)
◎筆者の父が勤めていたいわき市平谷川瀬の「平給電所(各地の変電所に電気を送る大きな変電所)
◎平給電所は平地なので台風時の大雨でたびたび浸水しました。
マメタイムス新聞社掲載 平成27年9月25日(金) ◎戦前の松宮家族、左から松宮タキ(母)、輝明(筆者2歳)吉見(長男10歳)、弘典(次男5歳)父は青森連帯に入営中
平成22年9月1日(水)
◎二本松市油井の満福寺
◎万福寺の由来
◎子規の短冊「寺に寝る身の尊とさよすずしさよ」
◎満福寺境内に建つ子規の句碑
阿武隈時報新聞掲載
平成20年2月12日(火)
阿武隈時報新聞掲載
2008、9月22日(8月)
◎二本松市大内賢治氏の二本松藩御用達「天明天保の蔵」が西軍の板垣退助隊の本陣になりました。
平成22年9月1日(水)
◎安達ケ原の黒塚に建つ子規の句碑
◎子規の句碑「涼しさや聞けば昔は鬼の家」
阿武隈時報新聞掲載
平成22年2月7日(木)
阿武隈時報新聞掲載
平成22年2月8日(金)
平成22年9月1日(水)
◎旧杉田小学校跡に建つ子規の句碑「短夜の雲収まらずあだたらね」寒川鼠骨筆
◎杉田村の遠藤菓翁の次男は二本松町長となり、善政を行いました。二本松城には徳をたたえ顕彰碑が建っています。
◎阿武隈時報新聞掲載
平成20年2月5日(火)
◎阿武隈時報新聞掲載
平成20年2月6日(水)
平成22年9月1日(水)
◎子規の病床を見舞い交友が深く、郡山の俳句に貢献した今泉丈助
丈助は郡山の名主検断の生まれ俳号を「桐舎」と称しました。
◎郡山の俳人今泉桐舎の子孫宅に残されている掛へ軸。中央が子規、右上から内藤鳴雪、河東碧梧桐、左上から坂本四方太、高浜虚子
◎子規が郡山の駅前に泊まった「和久屋旅館」ここより伊予松山の河東碧梧桐に手紙を書き送りました。
◎戦後昭和40年頃の「和久屋旅館」
◎子規が早朝浅香沼を見ようと訪ねたのは、1里半の地点の宝沢沼でした。
阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月31日(木)
阿武隈時報新聞掲載
平成20年2月1日(金)
阿武隈時報新聞掲載
平成20年2月2日(土)
阿武隈時報新聞掲載
平成20年2月4日(月)
平成22年8月25日(水)
◎奥の細道で芭蕉が7日間逗留した相楽等窮の墓(長松院境内)
◎芭蕉が「世の人の見つけの花や軒の栗」と詠んだ可伸亭跡(現在の可伸亭跡は、須賀川市役所敷地にあった可伸亭跡を昭和34年4月に区画整理整理のためNTT敷地に移設したものです)
◎石井雨考の肖像画
◎石井雨考(右)、女流俳人の市原たよ女(左)の句,亜欧堂田善の画(中央)
◎白河藩主松平定信公に見いだされた亜欧堂田善の肖像画
◎国の重要文化財になった「浅間山図」
◎亜欧堂田善の浅間山図の構想を練った原画
◎明倫講社の三森幹雄の書
◎明倫講社の三森幹雄の句
◎明倫講社の三森幹雄の句
阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月24日(木)
阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月25日(金)
阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月26日(土)
阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月28日(月)
阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月29日(火)
阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月30日(水)
正岡子規の「果て知らずの記」の草稿は、子規没後,大正2,3年頃、福島県の部分は反古になってしまいました。(寒川鼠骨識)
そこで、根岸の「財団法人子規庵保存会」の理事奥村雅夫先生、伊予松山の松山市立「正岡子規記念館」の学芸員平岡瑛二先生の助言をいただき、福島県内の子規の足蹠を検証してみました。
福島民友新聞社掲載
平成22年8月25日(水)
◎正岡子規が一高時代に野球に興じた上野の山の野球場(子規記念球場に建つ句碑)
◎正岡子規が白河駅に降り立ち、結城城の三重の塔を訪ねたと書き残している。結城城には三重の塔は歴史上は無かった。
子規は、白河領総鎮守鹿島神社に建つ三重の塔を見たのです。
三重の塔は、明治37年の大風(台風)により倒壊したと云われている。(写真は蒲生羅漢筆)
◎鹿島神社に建つ三重の塔の案内表示
◎結城時代の白川城址
◎白川城の天守跡
◎結城城搦目手門下にある感忠銘、白河藩主松平定信公の碑文
◎白河市天神町の天満宮にある子規の句碑「夏木立宮ありそうなところかな」
阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月18日(金))
阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月19日(土))
阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月21日(月)
阿武隈時報新聞掲載
平成20年1月22日(火)