魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【国民生活の安定は労働集約的な産業再興から】

2015-05-09 01:43:37 | 日本国のあり方
 人類は、動力を産業に導入してから重労働から開放された。同時に、生産力を飛躍的に上昇させることも出來た。更に、其れは物流にも貢献し、我々は安価に多くの物品を安易に手に入れることが出来るようになった。machine powerの導入は、軈て大量生産大量消費の社会を形成するになった。此のことが、皮肉なことに人々から多くの仕事を奪うことに成った。失業者が増えれば、当然、受給のバランスが崩れ、余剰生産物を発生させた。これは資源配分と資源活用の無駄を造った。現在、世界中の彼方此方で起きている国内経済の混乱の根本原因は、このことから生じたものであると我は確信している。極端な産業の効率化が、非効率な人間社会を生じさせているのだ。

 物の価格は二つの要素で決まる。それは希少性と人間の加える手間である。経済に関する分析は、存外単純に解析することが正解である。複雑な分析は、多くの過程を条件とするので、現実を反映し無い。分析は、経験で養われた感と常識が役に立つ。これは、総てのことに当て嵌ることである。造った物が総て売れて、買え無い人が居無いならば、其の社会は経済的に大成功している。社会主義は計画経済であったが、経済規模が小さく、物への嗜好が均一な社会で無ければ成立たない。よって、地方創生政策は、地域経済を自己完結的にしなければ、必ず失敗する。日本の江戸時代は、大過無く比較的安定した時代が二百七十年もの長い期間に亘って続いた。


 江戸時代の地方経済は、粗自己完結型のものであった。その自己完結型の経済とは、人々が必要なもの総てを域内で生産するということでは無く、多くの物品を修理しながら使うと言うことであった。我々は其れを循環型社会と呼んでいる。平成の地域完結型の経済は、域内で必要なものは、出来る限り域内の力によって再生産出来る仕組みのものとしたい。勿論、資源再利用や修理によっての再利用は、当然である。我々は、大量生産大量消費の愚かさから距離を置くべきである。


 地方が地方経済の活性化の為に企業誘致をするが、地方で何でも生産してしまえばよいのだ。例えば、地方で走る車は地方で作れば良い。生活用品も、割高でも、修理して使え得ることを考える。昔は、町や村には鍛冶屋や目立て屋等が必ず居た。実は、仕事を造り、世の中に金を回すということでは、生産工程の効率化は、非常に非効率なのである。


 人類は機械動力によって、重労働から開放されて広域で大量の物流を迅速に果たすことが出来るように成った。然し、一方では、機械力の進展は、大量生産大量消費の経済社会へと人々を誘った。大量生産大量消費のへの経済構造への社会の変革は、人類に様々な大変革を齎した。それ等の変化の中で最も注目しなければなら無いものは、人々の心への影響であろう。この変革の後、人々の生きる目的は、物欲を中心に形造られるものに成って終ったように感じる。


 重労働の開放や物流の利便性の拡大は、人類にとって大変有益なことであるが、物欲の増大は利己主義的な生き方を社会に蔓延させる。利己的な生き方が蔓延れば、社会は荒む。物を大切に思う心は、人格形成に役立つ。今日、誰もが何と無く感じる閉塞感は人間関係が希薄に成っていることに関係しているからだろう。


 物欲に強く支配される生方は、人類特有のもので外の動物たちには無い特性である。一人々の強い物欲は、人類が護るべき社会性をも壊します。日本人の信条は、他人に迷惑を掛けないことであった筈である。日本人の身の我からすれば、日本人の心が壊されていくのを看ることは真に辛いことである。大量生産大量の社会は、余剰生産によって資源を浪費する。それは、生産者が需要を正確に予測出来ずに大凡の需要を予測して生産量を決めるからです。余剰生産に掛った経費は、製品に反映される。資源の浪費を防ぐ生産手段は、注文生産だが、現状は理想論で片付けられよう。


 我は、金儲けを出来る能力も無いし、小狡く立ち回れる度胸も無い。従って、貧乏人である。金持ちは、能力も度胸も在るだろうが、彼等が持っている豪奢な資産を作れる能力を、金持ちは持っているのか?彼等の資産の多くは、恐らく数え切れ無い多くの労働者がその製造に携わっていることだろう。一握りの大金持たちと庶民の生きる地域を完全に遮断したら、金持ちは如何成るだろうか? 激しい競争原理の社会は、矛盾だらけなので在る。


  大量生産大量消費の社会は、大衆が造ったものでは無い。江戸時代に西洋人が来て当時の齷齪し無い日本人の働き振りを観た。日本人が勤勉になったのは明治維新以降の富国強兵策によるものだった。西洋は既に産業革命が起こっていて、産業奴隷が発生していたのだ。江戸時代の日本人は、飢饉等の異変が無い限り、日々の暮らし振りに疑問すら持ってい無かったのだろう。其れ成りに落ち着いていた異民族の暮らしを近代西洋文明は、異民族の地にづかゞと入り込み、有無も言わせずその暮らし振りを変えて来たのだ。その悪弊が、今に影響を及ぼし、今日のイスラム社会の混乱を作った。近代西洋文明への世界の画一化は、人類に決してより良い暮らしを提供するものでは無いのだ。画一化の拡大というものは、須らく社会の沈滞化を齎すものであるからだ。事実、今、世界は混乱していて、停滞観が蔓延している。


 日本は、英国の経済政策をそっくり盗用する小手先の政策で経済的沈滞を乗り切ろうとしている。そんなことが上手く行く筈が無い。国の形も状況も違う、余所の国の政策を殆ど其の儘取り入れた経済政策の無能さは、擋正気の沙汰で無い。


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