魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

「弥生人や渡来人が半島から入って来た」とは、朝鮮人が日本歴史学会に入り込み戦後より捏造した嘘である。

2013-04-20 17:37:59 | 朝鮮人

朝鮮通信使、金仁謙の著書『日東壮遊歌』

●1764年1月22日 大阪

 100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、
銅の屋根で、黄金の内装である。 この贅沢さは異常だ。
 都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。
中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
 世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。
 北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」
と言っている。
 “穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間”が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。

⇒この時代にこんなことを言って於き乍、戦後日本死を塗り替えて、「日本は半島から移住して所謂弥生人と呼ばれている朝鮮族の血が多くは言っている。」等、出鱈目を信じ込ましている。

 「春秋時代斉と燕とが交互に占領しあうような大規模な長期の戦乱が難民を発生させ、それが日本にも来たのが渡来系弥生人ではないか」との説がある。
 此の根拠として、「【山海経】海内北経に、『蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕。』と言う一節」が在って、此れが弥生人燕人説の起源であり、終戦時以前は此れが通説として確立していた。

「弥生人=渡来人」説の大嘘

 いまやこの縄文・弥生観は、誤った古臭い認識と言わざるを得ない。

 各分野(遺伝学・古病理学・考古学等)の調査技術の進歩がもたらす最新データから、解明される古代史からは、朝鮮半島こそ逆に日本の文化や人的進出の影響を受けていたことが明らかにされている。

 「東アジアでは日本人しかいな区、中国・韓国には如何に調査しても全く発見出来ない成人T細胞白血病・ATLの患者やキャリアの分布が九州や沖縄で圧倒的に集中していることから、ATLゼロの渡来人が北部九州に上陸し、稲作を始め、縄文人と混血し、人口が増加したのなら、その地のキャリアが真っ先に最小となるはずなのに逆に多くなっていると」言う点は渡来人半島人説が戦後朝鮮人が作った丸っきりの虚実だと言うことを証明する。

 骨格や歯型の比較から、「弥生人=渡来人」とする説には、重大なデータの欠落がある。それは、「縄文時代の終わりから弥生時代の開始時期にかけての、最も肝要な移行期の人骨がほとんど発掘されておらず、欠落していることである」

 これを分かり安く例えれば・・・江戸時代から現在の日本人へと続く、「移行期の人骨データ」が欠落しているにもかかわらず、単に江戸時代の人骨と現代の日本人の骨格を比較して、アゴや頭骨・歯型・身長がまったく違うから、現代と江戸時代では人種が違っていると言っているに等しいぐらい馬鹿げた検証と説である。

 「縄文時代から弥生時代にかけては、日本の歴史上最も劇的に人々の生活が変わった時期である。農耕が本格的に始まり、主食もドングリからコメへと変わった。いずれにしても、新たな人々の流入が無くても当時の顔型や体つきの変化は十分説明が付くという点で渡来説とは真っ向ぶつかるものだ」

 ついでに言えば・・・3世紀になっても、先端技術である鉄器の製造技術でさえ朝鮮人は倭人に劣っていた。(3世紀の倭人の刀剣は鍛造で作られていたが、朝鮮半島ではまだ鋳造で製作していた)

 日本最古の水田跡がある佐賀県の「菜畑遺蹟は渡来人が最初に入植したムラではありえない。何しろ、縄文人の人たちのムラである証拠は山ほどあるが、シナ大陸から渡来人がやって来たという証拠は皆無なのだ。証拠に基づいて語れば話は逆で、縄文時代から九州の人たちは朝鮮半島南部に進出し、日本との間を行き来していた」

 「北九州に成立した水田稲作文化は急激に東へ波及し(中略)。その波及には、多くの大陸伝来の要素が欠落しており、まさに縄文文化の中に稲作だけが持ち込まれた状態を示している。また、この地域では土偶・石棒のような縄文文化独特の精神的道具を保持しているのである。従って、この稲作の波及には渡来人の関与はなかったと考えるのが妥当であろう」


 「北部九州から漢代の大陸系集落や土器・生活用具が出土したと言う話など聞いたことがない。つまり、大陸から渡来人がやって来たと言うのは単なる推測であり、物的証拠は相変わらずゼロである」

 「これまで、朝鮮半島と縄文人との関係について考えられることは殆どありませんでした。それは朝鮮半島からは縄文時代に相当する時期の人骨が殆ど出土していないためで、人類学者はその関係を考える資料を持たなかったのです。
その結果、これまでの人類学の理論は、弥生時代になって急に朝鮮半島との間に交流が生まれたような印象を与えるものでした。しかし、DNAの相互検索の結果を見る限り、朝鮮半島にも古い時代から縄文人と同じDNA(大陸には存在しない)を持つ人が住んでいたと考えるのが自然です。


 考古学的な証拠からも、縄文時代の朝鮮半島と日本の間の交流が示されています。縄文時代、朝鮮半島の南部には日本の縄文人と同じ姿形をし、同じDNAを持つ人々が住んでいたのではないでしょうか」


 つまり・・・まだ朝鮮半島に殆ど人が住んでいない縄文時代に、北部九州から縄文人は海を渡り、朝鮮南部に進出し、稲作の伝播や縄文弥生土器などの半島出土品から見られるように、半島南部に倭人文化をもたらしたことは否定しようがありません。

以上、「日本人のルーツの謎を解く」展転社・長浜浩明著より引用

 余談ですが・・・これからは、韓国・朝鮮の学者が、歴史を文献(日本書紀や魏書など)の恣意的解釈で捻じ曲げたり、あるいは左翼歴史学者が「渡来人の大量移民があった」とする結論ありきの前提で、大陸の歴史に合わせて、遺蹟の年代を繰り下げる(捏造する)という分けには行かないだろう。

 彼らが歴史を捏造し、それを政治利用し、あるいは在日朝鮮人による不当な利権獲得の道具としてきた過去を思えば、考古学的データの分析技術の進歩は、日教組教育により誤った歴史認識を植えつけられてきた戦後世代への啓蒙に、大いに寄与することだと思う。」

 例の「騎馬民族説」も戦後大分経った1970年頃に日本人を騙る成り済ましの朝鮮人日本史学者がでっち上げたものであり、金寿達や司馬遼太郎等の朝鮮人歴史小説家が其の嘘を恰も史実に基づくかのように拡散したものだったのだ。

 百済など、寧ろ日本の属国であり、其の証拠に新羅に責められて宗主国日本に援けを求め日本は2万の兵を送って属国の救援に向かい、唐・新羅軍と戦ったのが「白水江の闘い」である。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿