お道と臨床と~心づくりの処方箋~

天理教と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.

友人の結婚式の二次会

2006年10月07日 | Weblog
今日は大学院時代の実習先で知り合った友人の結婚式の二次会に行ってきました.知人はあまりいないので時間をいかに過ごすかが課題でしたが,とにかく人生の門出の場に招いてもらえたことに感謝してその場を過ごそうと思っていました.

予想通り完全にアウェイです.端の方で小さくなっていました.途中で同じ実習先に来ていた1学年上の先輩が遅れて会場にきまして救われました.1年以上会っていなかったので仕事や近況などの話をしました.彼も先週入籍したようで2月に挙式だそうです.

終了後,友人と後輩と食事をして帰りました.学生が4人いたので,私たち社会人組が支払うことになり,刻の流れを感じました.これまでしてもらってきた種があるのですから,今自分が彼らにそうしているのは理の上では当然の結果と言えるでしょうか.

そんなわけで新郎新婦御結婚おめでとうございます.今後の人生が喜びにあふれんことを願っています.(当ブログの存在を知らないので読むこともないかと思いますが)

お道と臨床と

2006年10月06日 | お道×心理学
臨床での経験をどのようにお道に生かせるのか?
お道の教えをどのように臨床に生かせるのか?

これらは私にとっての永遠のテーマです.
おたすけも臨床心理的援助も広くとらえれば悩める人への援助という点では一緒です.
ですが,広く共通することがある反面,異なることもまた多くあります.

これらについて記述していくことは大変な時間と労力がいることですし,自分でも未だ整理して考えてはいないので書きません.が,今自分で書いた冒頭の文章を見てふと思ったのは,現段階で私がお道に生かせるだろうと考えているのは多くは臨床的な知識と経験であって,一方,臨床に生かせるだろうと考えているのは多くは教え―つまり人生観,考え方であるということです.

これが何を意味するかと言いますと,私にはやはりお道での経験,つまり「おたすけの経験が欠けている」のです.多少なりともこの身1つを以って人救けに乗り出していれば冒頭の記述に「経験」という2文字を加えることができたはずです.それを書けなかった私にはやはりそれが欠けているのだと思います.もちろん,仕事の経験もまだ少ないので経験といっても生かせるものなど大してありません.が,それ以上におたすけの経験に欠けている,これははっきりとした事実です.陽気ぐらし,人救けの一助にと志したものが生活の多くを占め,将来自分の柱となっていくはずの部分が未開拓なのです.

以前yoshiさんが「おみちは,実動がすべてだと私は思っています」とのコメントを下さいました.それが真だとするならば,実行してこそ得る経験があり,人に語ることもできるということだと私は思います.よくよくこのブログを振り返るとおたすけやにをいがけに関する記事はほとんど無いに等しいです.何故って実践していないからです.今の私に記述できることは,お道の教えについて自分なりに理解していることを語ることや,それを生活に取り入れることでどんな違った見方ができるかなどの個人レベルの話です.ですが,自分の知識や経験の中でしか語れないのですから今はそれでいいと思っています.積み重ねていく先に得るものもまたあるでしょうし.自分が成人していく先におたすけについても記述していけたらいいなぁと思いました.なんだか最近,もやもやしているみたいです.

結局冒頭にあげたことについては何も述べていませんが,現状がまた1つ確認できたということで今日のブログを終わります.

10代女子のメール

2006年10月05日 | 時事
小文字:10代女子に流行、難解・新表記 ネット時代の自己表現!?-家庭:MSN毎日インタラクティブ

最近,女の子たちの間でメールで小文字を用いるのが流行っているようです.先日手紙を書くことを奨励したばかりなのに,このような記事を見つけてしまいました(関連記事;手紙を書こう

携帯閲覧の方のために簡単に書きますと「今日は買い物に行ったわ」と打つべきところを「きょぅゎ買ぃ物に行ったゎ」と書くのです.要するに「あいうえお」と「やゆよ」「わ」「つ」「け」を小文字表記するという単純な仕組みなのですが(け=ヶ),日頃やりとりをするメールでこのようなやり方が癖になってしまうと正しい日本語の使い方が分からなくなりはしないかという懸念があります.

私もすっかり文字をキーボードで打つことに慣れてしまっているので,いざペンをもって字を書くとなると,昔は問題なく書けていた漢字が浮かんでこないということがあります.それでも一度完全に習得しているので,調べて思い出せば忘れることはあまりありません.ところが,まだ発達的に発展途上にある10代の子どもたちにはこれは大きな弊害になるのではないかと思います.

困ったことに癖とは出てほしくないときにも出ます.例えば日頃「門構え」を略語で書いている私は,正式な書類のときにうっかり略語で書いてしまうことがあります.当然書き直しです.また,別の人の話ですがひどいなぁと思ったのは病院のカルテに「いろいろ」と書くのを「いろ2」と累乗をつけて表現する職員がいたことです.カルテにそれはないだろうと・・・.これはまだ20代前半の職員でしたが,このように日常用いている癖は,公共あるいは公式の場でも出てきます.

友達とのやり取りの間だけと区別をしっかりできるだけの自我と現実吟味が備わっていればいいのですが,彼女らはそれほど成熟していません.この習慣が仇となることがこの先なければいいと思うのですが・・・.

流行を追うことは人の自然な志向性ですし,特に集団に同調することに過敏な世代ですから,使わないと「○○ちゃんはノリが悪い」とか「××ちゃんはつまらない」とかの非難の対象になってしまうのかもしれませんので,友人との交流内という適度な自由度を与える分には許容範囲とも思いますが,それが彼らの日本語観として定着しないように教育者および親はある種の配慮をする必要があると思いました.

ひのきしんスクールを勧められ

2006年10月04日 | 教会
仕事を終えて家に帰ると会長に「布教月報 通号199」を渡されました.
そして,ひのきしんスクールに行ってきなさいと私に言います.

読んでみると以下のようでした.
専門コース第27回
「かりもの感謝過程~精神の疾患や障害のある人と共に~」

 現在,精神疾患で医療機関を受診している人は260万人(国民の約45人に1人)と言われ「心の病」はすでに「めったにな病気」ではありません.近年は精神医学の進歩により,発症しても適切な治療で多くが短期間で改善するようになってきているのですが,精神疾患に対する誤った「思い込み」はいまだに多く,精神科受診へのためらいや治療の遅れを招いています.
 また,精神疾患や障害を考える上で欠かせないことの1つに自殺予防があります.年間3万人以上にも上る自殺者の多くが精神疾患を抱えていたといわれ「自殺対策基本法」が制定された今,自殺予防は真剣に考えなくてはならない問題の1つといえるでしょう.
 この課程では,精神疾患・障害を医学的・社会的・教理的な視点から多面的に正しく理解し,今回は特に精神疾患や障害を持った人の自殺について考えます.
なるほどこれは興味深い.きっとこの先お道と臨床とを両立していく上でのヒントになるだろうと思い,元々11月の月次祭には休みがとれれば帰参しようと思っていたので,いいかもなぁと思いました.そして,いつだろう?と続きを読むと・・・
期間 11月26日(日)~27日(月)
会場 東左三棟
宿舎 第七母屋
対象 基本コース修了者 50名
内容 講義「自殺予防の取り組み」「総論」「いのちの電話」ほか
費用 3000円(教材・宿泊・食費含)
携行品 筆記具,洗面具,雨具
締切 11月6日(月) 必着
なんと月曜日にまたがっているじゃないですか!しかも基本コース修了者って!?でも宿泊費込で3000円って安っ!!!と色々びっくりしました.

月曜日ですと休みがとれるかまずわかりません.基本コースってなんだ?と思って手前を見ると11月25日にあるようです.基本コースに出るとトータル3日間になります.長いです.しかも火曜は予約が多い日なので休むわけにはいきません.帰りは新幹線でしょう.普段格安夜行バスしか使わない私ですがさすがに新幹線でないと無理です.また,費用ですがたいていの心理の研修はこんなに安くないので嬉しい限りです.

そんなわけでとりあえずひのきしんスクールに近々連絡をとって詳細を訊いてみたいと思います.皆さんもよかったらいかがですか?

何故か突然・・・

2006年10月03日 | おすすめ
突然頭をよぎり聴きたくなったCD.

ロードオブメジャーのアルバムです.何故か耳に残る曲が数曲・・・レンタルしてきました.「僕らだけの歌」「君がため」「大切なもの」・・・.

皆さんは特定の曲を聴くと思い出すことってありませんか?そうした記憶は人生の財産だと思います.大事にしてください.

でも記憶よりも刻がほしいと思う今日この頃です.

続柄表記の修正

2006年10月02日 | 報告
これまで私はブログ内で兄弟を表現するのに,次男,三男,四男のように記述してきました.それは親から見ての表記ということは分かっていたのですが,ほかの表現方法の確信が持てなかったのでそうしてきました.案の定,誤解を与えることもあったようで,実は私はまだ独身で子どもはいません.(過去記事読んでいただければわかると思いますが.)

というわけで,今後誤解を与えないために兄弟の表記を改めることにしました.これまでの記事に関しては大変なので修正はしません.

私はこれまで通り,「私」です.次男を=「長弟」,三男を=「次弟」,四男=「末弟」とします.そのほかに私にはもう一人兄弟がいるのですが,彼の表記は未定です.

ちなみに,長弟と末弟は広辞苑にも載っていますが,次弟は載っていません.しかし長兄,次兄という言葉に対応させて考えれば,次弟という言葉を便宜的に用いても構わないと思います.(教えてgooからの受け売りですが)

いつか私にとっての「長男」という言葉が出てくるまでこのブログも続けられるといいですね.

9月体重推移報告

2006年10月02日 | 報告
9月だけの体重推移です.

それから今朝体重を計ったら65.4kgに戻っていました.
ほっとしました.記憶には残りますが記録には残りません.

体重推移報告

2006年10月01日 | 報告
1ヶ月前の報告を読まれてない方はまず「8月体重推移報告」をご覧下さい.

さて,あれからひと月立ちました.
8月31日現在で66.8kgあった体重は9月30日現在で65.2kgになりました.

だんだん体重は減りにくくなっていますが,毎日の運動をなるべく休まないように続けているので少しずつでも減っています.停滞期が2回ほどあり,66kgを切るのに2週間ほどかかりました.また,ここ1週間くらいは65kg台をゆらゆら揺れていました.

今日,ショックなことがありました.

昨日今日とまた例の友人が来ていまして,杯を交わしたところ,うっかり暴飲をしてしまいまして,今日の夕方体重計に乗ると67.4kgと表示され,体重計が壊れているのではないかと目を疑いました.リバウンドとは恐ろしいものです.疲れがたまっていて,今日は運動をやめようかと思っていたのですが,奮起して走りました.

計量は起床時なので,明朝減っていれば67.4kgは記録に残りませんが,このリバウンドは記憶に残る出来事になりました.引き続き,安定した食生活を心がけます.

1ヶ月ブログ皆勤,しかし・・・

2006年09月30日 | お道
初めて1ヶ月休まずに書き続けました.なんだかちょっとした達成感です.

しかし,現実生活の中ではお道の話をすることはおろかリーフレット配りさえ躊躇があったということは私に大きな影響を与えています.インターネット上でお道の話をすることには躊躇もありませんが・・・.

信仰とは本質的には神と自己を結ぶものでありますが,神と自己を結ぶ=神の思いに近づくことと思います.それは世界だすけの道であり,より多くの人に救かってもらいたいという思いを実践にうつしていくことです.自分がお道の信仰のおかげて救かっていると思うのであれば,それをより多くの人に伝えていくことはやはり大切なことなのではないかと思います.

たとえば,○○社の××製品を買って使ってみたら,とてもよい商品で買ってよかったと思うのであれば,それを自分だけ味わうのではなくより多くの人に味わってほしいと思うのがたいていの人の感覚であると思います.そして,試しに使ってみなよと近所の人や知人,親戚などに勧めるわけです.

信仰も同様なのかもしれません.よいものだから人にすすめるというごく自然のことです.ですが,簡単にはいかない・・・.観念的なものなので数字で証明しにくいということもあるかもしれません.また,宗教への偏見も多くあることと思います.見知らぬ人へのにをいがけは商品をすすめに家を回る営業マンと構造的には一緒ですから,簡単には成功しないのも当然かもしれません.

それでも,そのために費やした時間と尽くした心は親神様は受け取ってくださり,いつかその芽が出るのだと思います.会長がリーフレット配りは種まきだと言っていました.リーフレットから電話をかけてくる人はほとんどないけれども,まったく関係のないところから電話があってにをいがかかることもある,それも普段の種まきのおかげということだそうです.はっぴーさんも「にをいがけはおやさまへのお供え」とのコメントをくださいました.なるほど,理に適っています.また,さなさんのコメントにありましたように,「1000人に1人くらいは電話くださる方もいる」とのことですので,それ自体にも伝道の意味はあるのだと思います.ですが,基本的には見返りを求めるのではなく,自分自身あるいは教会の種まきとして位置づける方が私は納得がいきます.

今日の話はまとまりませんが,私は生まれながらにして素晴らしい宗教と出逢い信仰をしていると思いながら,それを人に伝える機会を持たず,また持とうともせず,自己愛的な生き方をしていたのかもしれないと思ったのです.そして「そのうち自分も」「いつかやろう」と思っているだけで刻が過ぎていることにも気がつきました.すぐに実践というわけにはいかないでしょうが,今までよりはほんの少しでもお道の勉強やにをいがけにつながることをさせていただこうと思いました.本当に自分を振り返るよい機会を親神様は下さったと思います.

己の無力さを知る

2006年09月29日 | 教会
今日は午後からリーフレット配りに行ってきました.支部で何人かが集まり,とある団地を回りました.

手にリーフレットを持ち,団地内を歩いてポストにそれを入れて回るわけですが,自分は何も悪いことはしていないのに,妙に居心地が悪いのです.よかれと思ってリーフレットを配っているのに,なんだかとても悪いことをしているような気分になるのです.人の気配がある階段近くのポストはとばして次のポストに歩いていく自分の足取りがそれを物語っていたでしょう.きっと迷惑がられるんだろうなぁとか,読まずに捨てられちゃうんだろうなぁとか悪い考えが頭をよぎりましたが,その考えを振り払い,たとえ1枚でも目を通してもらえればそれでいいじゃないかと思い続けました.ですがやはり勇むというよりはいずんでいたような気がします.

これが何かのチラシ配り―たとえば割引券や広告などを配るアルバイトであれば,何の抵抗感もなくこなせたことでしょう.なぜチラシ配りは大丈夫なのに,天理教のリーフレット配りには居心地の悪さを感じるのでしょうか?そこにはおそらく社会的認知度が大きく影響していると思います.宗教の認知度は低く敷居も高いです.このことが自分がマイノリティであるという認識を団地の中で強く実感させ,受け入れられにくいと私に思わせます.そして,天理教は私のアイデンティティ(※)の重要な要素ですので,そのような実感をひしひしと感じることに居心地の悪さを感じたのだと思います.結局は私の未熟さなんですが・・・.(アルバイトであればそのチラシの扱われ方によって自分自身に何の影響もないので居心地の悪さは感じないわけです.)

そんなわけで,私は自分自身がまったくの裸で無力であるように感じました.病院で仕事をしていれば,こちらから足を運ばなくとも患者さんの方からやってきてくれます.白衣を着ていれば,たいていの人が訊ねたことに答えてくれますし,こちらの話も聞いてくれます.信頼を得られれば悩みも打ち明けてくれます.しかし,今日その場にいた私は,人に対してまったくの影響力を持たず,そして自分のやっていることにむしろ心許なさや後ろめたささえ感じていたのです.これまでにもにをいがけをしたことはありますが,今日ほど深く感じたことはありません.

一般的に宗教が敬遠される時世の中で,私は信仰はむしろ必要だと思っていて,その良さを少しでも伝えたいと思い,こうしてブログまで書いていますが,それをいざ現実社会の中で広めるための実践となると自分はあまりにも無力であると思いました.そんな自分をとても小さく感じました.

リーフレット配りの真の意味は伝道にあらず,他者に対しての影響力以上に自分自身に対しての強烈な仕込みになる,と思いました.裸の自分を知り,心を低く通らせていただくのにもってこいかもしれません.その心は神様が受け取ってくださるでしょうし,にをいはあとからついてくるものなのかもしれません.今日のリーフレット配りで自分は多くの有形・無形の存在に支えられてこの社会で生かされているということを改めて実感できました.

今回私は自分自身の未熟さを痛感したわけですが,このようなことを感じることなく,勇んでにをいがけをされている方はすごいなぁと思います.にをいがけをされている方,正直どのようなことを感じながらされていますでしょうか?


※アイデンティティとは自分らしさのことで,「自分とは何か?」「自分はどんな人間なのか?」「自分は何のために生きているのか?」などの問いに対する答えに該当すると思うとわかりやすいかもしれません.

手紙を書こう

2006年09月28日 | 時事
携帯電話やインターネットの普及により,距離が離れていても通話やチャット,メールなどでいつでも話せる時代になりました.このことは情報流通の面から言えば好ましいことなのですが,その一方で使用者の忍耐力を大きく下げているというデメリットがあるように思います.要するに,辛抱できないのです.

距離が離れていてもすぐに連絡がとれるということは,話したいことや伝えたいことはすぐに伝えられるということです.あるいはすぐに返事がもらえるということです.ひと昔前は伝達は家庭に電話を入れるか手紙くらいしかありませんでした.家庭には気軽にかけられない立場の人もあったでしょうから,主流は手紙だったと思います.手紙を書いて送って返信が届くまで早くとも1週間くらいはかかったでしょう.

今,メールは数秒で相手に届きます(電波の届くところにいれば).数秒で届くので返事が1分以内に届くこともしばしばです.こうした環境に長くいる最近の若者は,メールを送って少し返信が来ないだけで,「何で返事が来ないんだろう?」などと不安になったり,自分のメールを振り返って「ここの表現がまずかったのかな」などと落ち込んだりするわけです.挙句の果てに「メールなんて送るんじゃなかった」と後悔することさえあるでしょう.私もその経験はあります.最近はあまりありませんが,昔はよくありましたね.

相手は取り込んでて携帯電話を見る時間がないのかもしれませんし,電波の届かないところにいて届いていないのかもしれません.しかし,メールの「沈黙」に耐えられないのです.元々,いつでも都合のよいときに閲覧できるのがメールのメリットなのですから,返信がすぐに来ることのみを期待するのはおかしいのです.すぐに返事がほしいのならば電話をすればよいですし.皆さんはメールの本来の役割を忘れてはいませんか?(今日の趣旨とはずれますが,メールでのコミュニケーションが増えることのもう1つの弊害として,直接人に自分の言いたいことを相手に伝えることが苦手になるということもあると思います.)

そんなわけで,私もメールという便利ツールにすっかり毒されていまして,手紙は年賀状とあとはお世話になる場合,なった場合の依頼状・お礼状くらいしか書かなくなっているのですが,通信手段が他に選択できない場合もあるので,手紙を送ることもごくまれにあります.手紙はメールと違ってなかなか返事がきませんので根気が要ります.手紙のやりとりを通して人は,欲求が満たされない状態を抱え続け,辛抱することを覚えるといってもいいと思います.

メールが主流になり,文通の話などあまり聞かなくなったように私は思いますが,私は文通を今の子どもたちに推奨したいと思います.携帯電話をいつもポケットに入れて触れるようにしていないと不安になる症候群から脱するために,筆を執って手紙を書きましょう.メル友よりペンフレンドを作りましょう.もちろん直接的な対人交流があるのが最善ですが・・・.

(でもキーボードで打った方がペンで描くより3倍のスピードは出るんですよね)
※3倍にピンときた方は私と気が合うかもしれません.

祖父の帰還

2006年09月27日 | 家族
祖父が天理から帰ってきました.

18時17分に最寄り駅に着くことになっていたので,その時間には駅のロータリーで待っているという手はずです.しかし,今日は会議がありまして,その会議が5時半まで長引いてしまいました.帰りはすいてて45分,混んでれば1時間かかるのでマズイと思い,会議が終わるとすぐ退室し帰りました.

何故マズイのかと言いますと,一人で待たせると勝手な行動に出るからです.歳も歳なので危険です.帰りの道中弟から「じいちゃん発見したぜ」とメールが来ました.駅で待っていると祖父と一緒に弟もいました.どの電車に乗るかは知っていたので,学校から帰る弟が同じ電車に合わせて乗ったらしく,1両目から順番に歩いていったら3両目にいたそうです.祖父は「助かった助かった」と言っていました.

帰ってくると祖父がかばんから「いか」を出しました.よく見るとスルメのようです.「食べろ」というので,トースターで少し焼いて食べました.

「うまいだろう」と訊くので「うまいよ」と言うと「とれたてだからな」と祖父は嬉しそうに言いました.「カラカラに乾いているスルメがとれたてのわけないだろうよ」と私はすかさず笑いながらツッコミました.祖父は嬉しそうでした.

無事帰ってこれてよかったです.天理でおばさんと話をしてきたらしく11月の月次祭を境にまた山口に行くことになりそうです.戻ってくるのは父の五年祭と祖母の一年祭のときでしょう.わがやは隙間風,雨漏りが多すぎるので年寄りには厳しすぎます・・・.

私的ジャンケン論の検証

2006年09月26日 | お道
移転先の記事を閲覧下さい.
http://tencp.blog80.fc2.com/blog-entry-86.html

私的ジャンケン論

2006年09月25日 | お道
移転先の記事を閲覧下さい.
http://tencp.blog80.fc2.com/blog-entry-86.html

祖父の行動

2006年09月24日 | 家族
朝10時頃,会長が私のところに来まして「おじいちゃんがいない」と言いました.家中探してもいないとのことで,以前のように(関連記事;祖父の行動)また一人で何処か行ったかなと思い心配しました.

実は昨日,山梨(実家)へ行きたいと言っていまして,25日からおぢば帰りの予定があるから疲れちゃうよと言ってなだめたということがあったので,もしかしてまた一人でバスと電車乗って行ってしまったのではないかと思ったわけです.

すると自転車がないということに会長が気づきました.山梨へ行くのならおそらくバスで駅まで行くので,自転車がないとうことは別の可能性を考える必要があります.朝市の広告を見ていたというので,買い物へ行ったか,それともまたお墓参りへ行ったかというあたりです.でもお墓参りは昨日行っているし朝チャコの散歩へ行っていたので違うだろうと思い,買い物も休日で車が使えるのにわざわざ自分で行くこともないですし,まったくもって不明でした.

しかし,探しようもないのでこちらは待っているしかありません.10時半くらいでしょうか.自転車の音がして帰ってきました.どこへ行っていたのかと訊くと「お墓参り」と言いました.会長が「山梨行ったのかと心配したよ」と告げるとにこにこしながら「山梨行くなら一言いっていくよ」と言います.「大丈夫だ」と言うくせに心配されるのは嬉しいようです.

一言あっても行かせるものかと思いながら私は聞いていました.老体で出かけられると家族は本当に心配なんです.遠出しないってわかっているなら構いませんがしかねない人なので心配なわけです.近くならどんどん歩いてもらって構わないんですけどね.自転車はそろそろ勘弁してほしい歳です.

明日からのおぢばがえりも叔父の車に乗せてもらうのですが,叔父の教会の最寄り駅まで一人で行くので,乗換えなしの一本でいける電車を調べてそれに乗せて駅で叔父さんに拾ってもらい,帰りも同様の電車に乗せてもらい,私が仕事帰りに拾う予定です.