てんちゃんのビックリ箱

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岸田劉生展 感想

2020-02-27 12:14:59 | 美術館・博物館 等
展覧会名:没後90年記念 岸田劉生展
場所:名古屋市美術館
期間:2020.01.08~03.01
訪問日:2月24日
惹句:日本近代美術史上に輝く天才画家。満を持して登場!
   描いても、描いても、愛しい。(麗子について)
構成:
 第1章:「第二の誕生」まで  1907(16歳)-1913
 第2章:「近代的傾向・・離れ」から「クラシックの感化」まで  1913-1915
 第3章:「実在の神秘」を超えて   1915-1918
 第4章:「東洋の美」への目覚め    1919-1921
 第5章:「卑近美」と「写実の欠除」を巡って  1922-1926
 第6章:「新しい余の道」へ   1926-1929(38歳)



 岸田劉生は、小さな子供の頃、父に写生はこういう風にするんだと渡されたのが、岸田劉生の画集である。
 確か風景の写生が半分、人の顔が半分くらいで、風景の写生は確かにリアルと思ったが道ばっかりで、私が書きたい建物や緑の木が少ないと思った。人の顔にいたってはなにか土色のジャガイモのような顔や押しつぶされた女の子の顔ばかりで、なんでこんなのが写生としてすごいんだろうと思った。
 でも初めに有名画家として認識したのが、岸田劉生だった。ちなみに2番目に意識したのは棟方志功、版画をやった時、やはり父から画集を渡された。

 その劉生の展覧会として宣伝しているので、休日に行ったら満員なのではと思ったが、お客はそれほど多くなく拍子抜けした。
 展示は、絵を書飽き始めた16歳から亡くなる38歳までの22年間を、構成に示す内容に区分して示している。彼は明治のジャーナリストの大立者かつ実業家の「岸田吟香」の息子なだけに、文章も書けた。それで自分の画業の方向性についても文章を残しており、それが構成の「 」に入っている。構成のそれらの言葉だけを見ても、自分の「美」を求めて、短期間に彷徨っていることがわかる。

 「第2の誕生」までは、黒田清輝に師事し素直に写生しおとなしい洋画を描いていたが、「白樺」の運動に参加することで後期印象派に衝撃を受け、まずそちらの吸収から始める。
その後古典を模索し、次に東洋の精神性に傾倒する、そしてまた新しいものを得ようとしたときに亡くなった。その過程で絵が大きく変わっていった。

 それらの変化を経年で示したのが、今回の展覧会である。
 第2章はほとんどが自画像を含む肖像画であるが、初期の後の影響を受けたそのままのものと、重厚な古典の技術を取り入れたものは、かなり違う。でも本当に一部屋ズラリと肖像画、それも茶色系背景でダークな茶色の首がずらりと並ぶのは壮観である。もしかすると夜ここを歩くと不気味なのでは?

 1枚目は初期のもの。ゴッホの影響を受けたタッチが大胆で、このままいけばマティスの向こうを張りそうな感じ。この絵は22歳の時、後期印象派の影響を吸収したことを自信をもって表現している。

<自画像>




 2枚目は2期の最後のほうで、1枚目のたった2年後。顔全体がタッチの見えないぬるっとした生物的な質感になっている。自意識を主張するために鼻を非常に立派に描いている。
自分のカラーとしての茶色もしくは土色は、大地に根差す強さを示しているのかもしれない。ともかく友人に自画像を贈るということは、よほど自意識が強いのだろう。
 
<黒き帽子の自画像>

 
 第3章は、腰を落ち着けての近所の写生と体調不良による部屋の中での静物の絵が並んでいる。
 写生はやはり地面の面積が広いものが多く、顔を丁寧に描くように道を描いている。
 「実存」というキーワードに合致するのはむしろ静物の作品。
 次の3つの林檎は、神秘的に輝いている。単なる写生でなくその存在自体の意味を描くととともに、家族3人を考えたとのことだが、私が見た中でもっとも美しい林檎である。

<林檎三個>



 第4章に麗子像が集中して存在している。
 顔はやはり上下が短くなっているが、衣服などは見事な写実である。自画像や他の人の肖像画では、こういった上下に短い顔をさせていない。というこことは、麗子さんだけあえてこういった描き方にしていることになる。とてもかわいいけれども不完全な対象に対して、完全に写実するのではなく、自分で描きたいことを盛り込んで描くことが自分の美の表現と言っている。

<麗子座像>




 第5章では、東洋への傾倒が高じ、一気に浮世絵や掛け軸、南画等に走る。
 前述の不完全な美の対象に対して、完全な写実ではなく自分の思いを込めるという描き方が、後期印象派よりもさかのぼった北欧ルネサンスの古典にあり、そしてそれよりも東洋美術にあると考えたためだ。なお描き方は、鏑木清方の弟子であった奥さんに習ったとのこと。
下記がその頃描いた役者浮世絵の作品。発想が過去の浮世絵と違うのでなかなか面白い作品となっている。 劉生自身の洋画は徹底的に手を入れ作り込まれたものだが、東洋画のほうは、自由、即興といった雰囲気を生かしたものである。
 でもせっかく名を成し収入が得られるようになった洋画をほっぽり出したことで、周辺はどう思っただろう。どれだけの人がこの転換について行けたろうか

<鯰坊主>




 第6章の頃は、関東大震災で避難していた京都での放蕩時代と重なる。そういった生活から立ち直るため、洋画も改めて描き始め、満州にもわたった。
 そして、下図のような不思議な光の感じられる作品を描いた後亡くなった。この絵について新しい様式の模索とほとんどの人が述べている。しかし私は劉生が死を意識し、これまでの自然に根差す茶色から離れ、あの世を迎えるための賑やかな色彩を描いたのではとも思う。

<満鉄総裁邸の庭>




 以上のように、この人の作品は短期間で大きく振れている。そして自分の作品の狙いなど
や美術界の動きに対して、多くの文章を書いている。
 彼は出自から、描きたい主張がどうやったらふさわしく表現できるかを一生懸命考える理念の人で、かつ描く技術習得を一生懸命行い自分のものにした努力の人であった。
 戦争の前に亡くなったが、この人が長生きして戦争に遭遇したらどのような反応を行い、絵を描いたか、非常に興味がある。

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